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10年尽くした夫は愛人を正妻にするようなので、公爵夫人をやめて隣国で第二の人生始めます。  作者: 渚月(なづき)


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第7話 敵の仮面

イルマが変わった。


以前の刺々しさは鳴りを潜め、仕事中にぽつりと話しかけてくるようになった。相変わらず素っ気ないが、敵意はない。昼食を一緒に摂ることも増えた。会話は多くないが、沈黙が苦ではなくなった。


「あなたのお母様、イレーネ・メルツ」


昼休み、イルマが唐突に言った。食堂の窓際の席で、二人で向かい合っている。


「ハンネス大臣の講義を受けていたって話、聞いたでしょう?」


「ええ。ハンネス大臣ご本人から」


「……実は、わたしの母も同じ講義を受けていたの。母とイレーネ様は、学友だった」


わたしは手を止めた。スプーンが皿の縁に当たって、小さな音がした。


「イルマさんのお母様と、わたしの母が……?」


「母は若い頃、イレーネ様にとても世話になったと言っていた。留学中に病気になったとき、看病してくれたのがイレーネ様だったって。わたしが宰相府に入れたのも、母がハンネス大臣の門下だったから。間接的に、あなたのお母様のおかげということになる」


イルマは窓の外を見ていた。赤茶の髪が午後の光を受けて明るく見える。鋭い目つきは変わらないが、そこにある感情は攻撃ではない。


「だからって、あなたを最初から信用できたわけじゃない。グラオスの人間だというだけで、警戒するのは当然だったし、今もすべてを信じているわけじゃない」


「分かっています」


「でも」


イルマがこちらを向いた。まっすぐに。


「あなたの仕事ぶりを見て、封蝋の件で一緒に記録を調べて、ベアタの件も見て……母が言っていた通りの人なんだと思った。イレーネ様の娘は、きっと筋を通す人だろうって」


胸が詰まった。母の名前が、こんなところで自分を支えてくれるとは。母は五年前に逝ったけれど、母が紡いだ縁は生きている。


「ありがとう、イルマ」


「礼はいらない。わたしはただ、母の恩を返しているだけ」


(イルマは、敵ではなかった。最初から)


彼女の冷たさは、敵意ではなく慎重さだった。信頼できるかどうかを、自分の目で確かめようとしていたのだ。そして今、確かめ終わった。その結論が「味方」だった。


グラオスでは、味方だと思っていた人が敵だった。ここでは、敵だと思っていた人が味方だった。世界は複雑だ。けれど、複雑だからこそ、本物に出会えたときの温かさが身に沁みる。


「それと」


イルマが付け加えた。


「あのベアタって人が去った後、あなたが丘の上で一人で立っていたの、見てた」


「見ていたの?」


「たまたまよ。けれど、あなたの背中が、すごく小さく見えた。泣いているのかと思った」


「泣いてはいなかった」


「知ってる。泣いていなかったから、余計に心配だった」


イルマは立ち上がり、空になった食器を持って去った。足音が、前とは違う。怒っていない。むしろ穏やかだ。人の足音で感情が分かるようになったのは、いつからだろう。





その午後、ニクラスがわたしとイルマを呼んだ。執務室に入ると、机の上に数通の書簡が広げられていた。


「グラオスから、新たな動きがある」


報告書を読んで、わたしの表情が変わった。


「ヨーハンが、ヴェルデンとの通商条約の改定を要求している。条件は、アネーゼの身柄引き渡しと、ルッツ商会の取引継続」


「通商条約に、わたしの身柄を絡めるつもりですか」


「そうだ。お前が握っている不正取引の証拠を封じ込めるために、外交問題にすり替えようとしている。個人の問題を国家の衣で包むのは、名誉を重んじる社会の常套手段だ」


イルマが舌打ちした。


「最低ね。個人の問題を国家間の交渉材料にするなんて」


ニクラスは冷静だった。感情を表に出さないこの人の冷静さが、今は頼もしい。


「だが、名誉を重んじるグラオスの貴族社会では、これが通る。名誉の旗の下に真実を隠す。対立軸の本質はそこにある。名誉と真実。どちらが勝つかは、証拠の厚みで決まる」


わたしは考えた。


「真正面から反論しても、向こうは『名誉の問題だ』と言い張るでしょう。ならば、名誉が嘘で塗り固められていることを証明するしかない」


「証拠は足りるか」


「取引記録の照合結果は完了しています。ただ、もう一つ欲しいものがあります」


「何だ」


「ヨーハンの署名が入った取引承認書の原本。写しではなく、原本です。署名の筆跡、インクの色、紙の質。原本がそろえば、言い逃れはできません」


ニクラスが考え込んだ。


「原本はグラオスにあるはずだ。手に入れるのは容易ではない」


「一つ心当たりがあります」


わたしは、ベアタが去り際に残した言葉を思い出していた。「公爵様の書斎の、三番目の引き出し」。あの震える声は、彼女なりの償いだったのかもしれない。


「ベアタからの情報です。信頼できるかは五分五分ですが」


「罠の可能性は」


「あります。けれど、罠だとしても、こちらが動くことに意味がある。動けば相手も動く。動けば隙が生まれます」


ニクラスがイルマを見た。


「イルマ、グラオスの大使館に外交照会を出せ。取引承認書の原本提出を求める」


「正式な外交ルートで?」


「ああ。中世から確立された外交慣習では、使節には不可侵権がある。正式な外交要求は記録に残る。一度正式に要求すれば、グラオスは無視できない。無視すれば、国際的な信用を失う。外交の世界では、信用は金貨より重い」


「期限は二週間。それまでに原本が出なければ、こちらから証拠を公開する」


翌日、外交照会が発出された。


そしてその三日後、グラオスから衝撃的な知らせが届いた。


「フォーゲル男爵が亡くなった。自室で、自ら命を……」


イルマが蒼白な顔で報告した。


わたしは目を閉じた。ロレッタの父。不正取引の中心人物。証拠の公開を恐れたのだろう。追い詰められて、逃げることを選んだ。彼の娘であるロレッタはどうしているだろう。父を亡くし、後ろ盾を失い。


(人が一人、死んだ)


悲しみはある。けれど、同情で手を止めるわけにはいかない。


「死人に口なし、とはさせない」


ニクラスの声は冷たかった。


「男爵が死んでも、取引記録は消えない。署名入りの書類が残っている限り、証拠は有効だ」


夕方、ニクラスと二人で廊下を歩いていたとき、彼が不意に上着を脱いだ。


「寒いだろう」


わたしの肩に、上着がかけられた。温かかった。彼の体温が、まだ残っている。


「……ありがとうございます」


「風邪をひかれると業務に支障が出る」


それだけ言って、彼は先に歩いていった。わたしは上着の温もりを感じながら、彼の背中を見ていた。広い背中だ。頼もしいのではなく、正直な背中だと思った。


(この人は、そういう伝え方しかできないのだろう)


上着は少し大きくて、肩からずり落ちそうだった。けれど、わたしはそれを両手で押さえて歩いた。手放したくなかった。理由は、まだ言葉にしないでおく。


――その夜、グラオスの大使館から、取引承認書の原本が届けられた。予想より早い。フォーゲル男爵の死が、向こうの判断を揺るがしたのだ。

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