第7話 敵の仮面
イルマが変わった。
以前の刺々しさは鳴りを潜め、仕事中にぽつりと話しかけてくるようになった。相変わらず素っ気ないが、敵意はない。昼食を一緒に摂ることも増えた。会話は多くないが、沈黙が苦ではなくなった。
「あなたのお母様、イレーネ・メルツ」
昼休み、イルマが唐突に言った。食堂の窓際の席で、二人で向かい合っている。
「ハンネス大臣の講義を受けていたって話、聞いたでしょう?」
「ええ。ハンネス大臣ご本人から」
「……実は、わたしの母も同じ講義を受けていたの。母とイレーネ様は、学友だった」
わたしは手を止めた。スプーンが皿の縁に当たって、小さな音がした。
「イルマさんのお母様と、わたしの母が……?」
「母は若い頃、イレーネ様にとても世話になったと言っていた。留学中に病気になったとき、看病してくれたのがイレーネ様だったって。わたしが宰相府に入れたのも、母がハンネス大臣の門下だったから。間接的に、あなたのお母様のおかげということになる」
イルマは窓の外を見ていた。赤茶の髪が午後の光を受けて明るく見える。鋭い目つきは変わらないが、そこにある感情は攻撃ではない。
「だからって、あなたを最初から信用できたわけじゃない。グラオスの人間だというだけで、警戒するのは当然だったし、今もすべてを信じているわけじゃない」
「分かっています」
「でも」
イルマがこちらを向いた。まっすぐに。
「あなたの仕事ぶりを見て、封蝋の件で一緒に記録を調べて、ベアタの件も見て……母が言っていた通りの人なんだと思った。イレーネ様の娘は、きっと筋を通す人だろうって」
胸が詰まった。母の名前が、こんなところで自分を支えてくれるとは。母は五年前に逝ったけれど、母が紡いだ縁は生きている。
「ありがとう、イルマ」
「礼はいらない。わたしはただ、母の恩を返しているだけ」
(イルマは、敵ではなかった。最初から)
彼女の冷たさは、敵意ではなく慎重さだった。信頼できるかどうかを、自分の目で確かめようとしていたのだ。そして今、確かめ終わった。その結論が「味方」だった。
グラオスでは、味方だと思っていた人が敵だった。ここでは、敵だと思っていた人が味方だった。世界は複雑だ。けれど、複雑だからこそ、本物に出会えたときの温かさが身に沁みる。
「それと」
イルマが付け加えた。
「あのベアタって人が去った後、あなたが丘の上で一人で立っていたの、見てた」
「見ていたの?」
「たまたまよ。けれど、あなたの背中が、すごく小さく見えた。泣いているのかと思った」
「泣いてはいなかった」
「知ってる。泣いていなかったから、余計に心配だった」
イルマは立ち上がり、空になった食器を持って去った。足音が、前とは違う。怒っていない。むしろ穏やかだ。人の足音で感情が分かるようになったのは、いつからだろう。
◇
その午後、ニクラスがわたしとイルマを呼んだ。執務室に入ると、机の上に数通の書簡が広げられていた。
「グラオスから、新たな動きがある」
報告書を読んで、わたしの表情が変わった。
「ヨーハンが、ヴェルデンとの通商条約の改定を要求している。条件は、アネーゼの身柄引き渡しと、ルッツ商会の取引継続」
「通商条約に、わたしの身柄を絡めるつもりですか」
「そうだ。お前が握っている不正取引の証拠を封じ込めるために、外交問題にすり替えようとしている。個人の問題を国家の衣で包むのは、名誉を重んじる社会の常套手段だ」
イルマが舌打ちした。
「最低ね。個人の問題を国家間の交渉材料にするなんて」
ニクラスは冷静だった。感情を表に出さないこの人の冷静さが、今は頼もしい。
「だが、名誉を重んじるグラオスの貴族社会では、これが通る。名誉の旗の下に真実を隠す。対立軸の本質はそこにある。名誉と真実。どちらが勝つかは、証拠の厚みで決まる」
わたしは考えた。
「真正面から反論しても、向こうは『名誉の問題だ』と言い張るでしょう。ならば、名誉が嘘で塗り固められていることを証明するしかない」
「証拠は足りるか」
「取引記録の照合結果は完了しています。ただ、もう一つ欲しいものがあります」
「何だ」
「ヨーハンの署名が入った取引承認書の原本。写しではなく、原本です。署名の筆跡、インクの色、紙の質。原本がそろえば、言い逃れはできません」
ニクラスが考え込んだ。
「原本はグラオスにあるはずだ。手に入れるのは容易ではない」
「一つ心当たりがあります」
わたしは、ベアタが去り際に残した言葉を思い出していた。「公爵様の書斎の、三番目の引き出し」。あの震える声は、彼女なりの償いだったのかもしれない。
「ベアタからの情報です。信頼できるかは五分五分ですが」
「罠の可能性は」
「あります。けれど、罠だとしても、こちらが動くことに意味がある。動けば相手も動く。動けば隙が生まれます」
ニクラスがイルマを見た。
「イルマ、グラオスの大使館に外交照会を出せ。取引承認書の原本提出を求める」
「正式な外交ルートで?」
「ああ。中世から確立された外交慣習では、使節には不可侵権がある。正式な外交要求は記録に残る。一度正式に要求すれば、グラオスは無視できない。無視すれば、国際的な信用を失う。外交の世界では、信用は金貨より重い」
「期限は二週間。それまでに原本が出なければ、こちらから証拠を公開する」
翌日、外交照会が発出された。
そしてその三日後、グラオスから衝撃的な知らせが届いた。
「フォーゲル男爵が亡くなった。自室で、自ら命を……」
イルマが蒼白な顔で報告した。
わたしは目を閉じた。ロレッタの父。不正取引の中心人物。証拠の公開を恐れたのだろう。追い詰められて、逃げることを選んだ。彼の娘であるロレッタはどうしているだろう。父を亡くし、後ろ盾を失い。
(人が一人、死んだ)
悲しみはある。けれど、同情で手を止めるわけにはいかない。
「死人に口なし、とはさせない」
ニクラスの声は冷たかった。
「男爵が死んでも、取引記録は消えない。署名入りの書類が残っている限り、証拠は有効だ」
夕方、ニクラスと二人で廊下を歩いていたとき、彼が不意に上着を脱いだ。
「寒いだろう」
わたしの肩に、上着がかけられた。温かかった。彼の体温が、まだ残っている。
「……ありがとうございます」
「風邪をひかれると業務に支障が出る」
それだけ言って、彼は先に歩いていった。わたしは上着の温もりを感じながら、彼の背中を見ていた。広い背中だ。頼もしいのではなく、正直な背中だと思った。
(この人は、そういう伝え方しかできないのだろう)
上着は少し大きくて、肩からずり落ちそうだった。けれど、わたしはそれを両手で押さえて歩いた。手放したくなかった。理由は、まだ言葉にしないでおく。
――その夜、グラオスの大使館から、取引承認書の原本が届けられた。予想より早い。フォーゲル男爵の死が、向こうの判断を揺るがしたのだ。




