第6話 裏切りの糸
その顔を見た瞬間、足が止まった。
ベアタだった。グラオス公爵家の侍女頭。わたしが屋敷を出る朝、最後にすれ違った女性。あの穏やかな顔が、ヴェルデンの空の下にある。現実感がない。
「奥様……いえ、アネーゼ様。お久しぶりです」
彼女の声は穏やかだった。いつもと同じ、慎ましい微笑み。手を前で重ねた、きちんとした立ち方。何も変わっていない。けれど今、彼女はグラオスの使者の隣に立っている。それだけで、すべてが違って見えた。
(ベアタが、なぜここに)
「グラオス公爵家より、アネーゼ・メルツ殿への口頭伝達の使者として参りました」
使者が形式的に名乗った。横のベアタは黙っている。視線がわずかに揺れていたが、それ以外は完璧に落ち着いていた。
ニクラスが執務室から出てきた。使者を見るその目は、刃物のように冷たい。
「使者の用件は書面で受け取る。口頭伝達は外交上の正式な手続きではない」
「しかし、これは公爵家の私的な――」
「ヴェルデンの宰相府に来た以上、私的な用件は存在しない。書面がなければ帰れ」
使者は不服そうだったが、ニクラスの目の冷たさに気圧されて引き下がった。一言も反論できないまま、馬車に戻っていく。
ベアタだけが残された。
「……ベアタ」
「はい、アネーゼ様」
「あなたは、なぜ使者と一緒に?」
「公爵様のご命令です。アネーゼ様のお世話をするようにと」
(世話、ではなく監視だ)
分かっていた。けれど、確信するには材料が足りない。グラオスの公爵が、わざわざ侍女頭を送り込んでくる。そこまでする理由は、「世話」では説明がつかない。
「しばらくヴェルデンに滞在するの?」
「はい。アネーゼ様がお戻りになるまで、お傍に」
わたしは微笑んだ。表面だけの、公爵夫人時代の笑顔。口角を上げて、目尻を少し下げる。十年間で完璧に身につけた仮面だ。
「そう。なら、少し休んでから話しましょう」
ベアタに宿舎の客間を案内し、わたしはすぐにニクラスの執務室に向かった。扉を閉め、声を落とす。
「ベアタを知っているか」
「公爵家の侍女頭です。十年間、わたしの身の回りの世話をしてくれていた人」
「信用できるか」
「……以前なら、疑うことすらしなかったと思います」
「今は?」
「分かりません。だから、確かめます」
ニクラスは頷いた。窓の外に目をやり、少し考えてから口を開いた。
「宿舎への侵入者の件がある。手口が内通者のものだった。鍵師が入ったのではなく、合鍵を使った形跡があった。扉の鍵穴に傷がないんだ」
「合鍵……」
「お前の部屋の鍵は、宿舎の管理人と、宰相府の庶務係しか持っていない。だが、もし公爵家から情報が漏れていれば、鍵の複製は可能だ。お前の部屋の鍵型を知っている人間がいれば」
パズルのピースが一つ、嫌な場所にはまった。
「ベアタは、わたしの部屋の配置を知っています。便箋をどこに置くか、手帳をどこに仕舞うかも。十年間、毎日わたしの部屋に入っていた人です。鍵の型も知っていてもおかしくない」
「そういうことだ」
静かに怒りが湧いた。怒りというより、悲しみに近い。十年間、信頼していた。毎朝髪を整えてくれて、体調が悪いときはそっとお茶を淹れてくれた人。夜が遅くなると、温かい毛布を持ってきてくれた人。
けれど、感情に飲まれるわけにはいかない。
「証拠を掴みます」
「どうやって」
「偽の情報を流します。ベアタだけに伝わる内容にして、それがグラオスに届くかどうかを見る。古い手法ですが、だからこそ確実です」
ニクラスがかすかに目を見開いた。
「偽情報の流し分け。古典的だが、確実だな」
「古典的なものほど、確実です。華やかな策略は足がつく。地味な手法は見落とされる」
翌日から、わたしはベアタに対して計画的に行動した。
まず、ベアタにだけ「ニクラス宰相がグラオスとの和解を検討している」という嘘を、何気ない会話の中で漏らした。夕食を一緒にとりながら、さりげなく。他の誰にも言っていない内容。もしこれがグラオスに伝われば、ベアタが情報の出口だと確定する。
一週間、待った。長い一週間だった。ベアタと過ごす時間が、以前とは違う色に見えた。彼女の笑顔が、優しさが、全部嘘だったのかもしれないと思うと、食事の味が分からなくなった。
一週間後、ニクラスの元に、グラオスからの新たな書簡が届いた。
「和解の条件について協議したいとある」
わたしは目を閉じた。吸って、止めて、吐く。
「……ベアタですね」
「ああ」
確定した。十年間信じていた人が、最初から公爵家の間者だった。
わたしの日常を報告し、動向を監視していたのだ。あの優しい笑顔の裏で。朝、髪を梳いてくれながら、わたしの言葉を記憶していたのだ。
(知りたくなかった。でも、知らなければ負ける)
翌日、ベアタを宰相府の応接室に呼んだ。ニクラスも同席している。
「ベアタ。一つ聞いてもいい?」
「はい、アネーゼ様」
「わたしがニクラス宰相と和解の話をしているという情報、誰に伝えたの?」
ベアタの顔から、一瞬だけ血の気が引いた。唇が微かに震える。けれど、すぐに表情を取り繕おうとした。十年の訓練だ。
「……何のことでしょう」
「その情報は、あなたにしか話していない。そしてグラオスから、和解についての書簡が届いた。出所はあなた以外にない」
沈黙が落ちた。ベアタの指先が震えている。組んだ手を膝の上に置いて、それでも震えが止まらない。
「……わたしは、公爵様に命じられたのです。アネーゼ様の動向を逐一報告するようにと。逆らえませんでした」
「いつから?」
「……最初から、です。アネーゼ様がグラオスに嫁いだ日から」
十年間。十年間ずっと。わたしの言葉も、行動も、涙も、全部が報告されていた。
わたしは息を吸い、吐いた。怒鳴りたい衝動を、呼吸で押さえ込む。手は震えていない。震わせない。
「ベアタ。あなたをヴェルデンの法で裁くことはしない。けれど、ヴェルデンでの滞在は今日で終わりにしてもらう」
「アネーゼ様……」
「グラオスに帰って、公爵にこう伝えて。『証拠は揃った。次に動くのはこちらです』と」
ベアタは涙を流しながら立ち上がった。扉に手をかけたとき、振り返って小さく言った。
「……公爵様の書斎の、三番目の引き出し。大事な書類が、あそこに」
それだけ言って、部屋を出ていった。最後に振り返った彼女の顔は、十年間見てきたのと同じ、穏やかな顔だった。それが一番つらかった。
扉が閉まった後、わたしの膝が少し揺れた。ニクラスがそれに気づいたかどうかは分からない。
「よくやった」
ニクラスの声は低く、静かだった。
「裏切りを知るのは、刃で切られるより痛い。だが、お前は証拠で決着をつけた。感情ではなく」
わたしは頷くことしかできなかった。声を出したら、泣いてしまいそうだった。
夕方、一人で丘の上に登った。海が夕日で赤く染まっている。風が強い。髪が乱れたけれど、直す気力がなかった。
(十年、何を信じていたんだろう)
けれど、振り返っても仕方がない。前を向く。証拠は揃いつつある。ここで止まるわけにはいかない。
――翌朝、イルマがわたしの机に来て、黙って茶を置いた。砂糖が一つ、多めに入っていた。




