第5話 蜜蝋の嘘
仮採用から一ヶ月が過ぎた。
ヴェルデンの空気にも慣れ、宰相府の仕事にも手応えを感じ始めていた。貿易記録の整理から始まり、今では各国との通商条件の下書きを任されるようになっている。毎日が忙しい。けれど、グラオスでの十年間とは種類が違う忙しさだ。あちらは誰にも感謝されない孤独な作業だった。ここでは、少なくともわたしの仕事が誰かの役に立っている実感がある。
あの違和感の正体も、少しずつ輪郭が見えてきた。
ヴェルデンとグラオスの間に存在する、不自然に安い取引。それを仲介しているのは「ルッツ商会」という名の商人組合。そしてこのルッツ商会は、グラオス側ではロレッタの父であるフォーゲル男爵の庇護下にある。
(夫のヨーハンが愛人の父親と結びつき、公爵家の名前を使って不正な取引をしている……?)
仮説は立った。けれど、証拠がまだ足りない。点と点の間の線を引くには、もっと材料がいる。
ある日の昼、イルマが珍しくわたしの机の前に来た。いつもの刺々しさが少し薄い。何かを考え込んでいる表情だ。
「これ、見てもらえる?」
差し出されたのは、グラオスから届いた外交書簡の写しだった。
「内容に違和感があるの。封蝋の印影と、文書の様式が微妙に合わない気がして」
わたしは書簡を手に取った。紙の質、インクの色、文字の筆跡。そして封蝋の状態を、指先で確かめる。
「……確かに。この封蝋、押し方が浅い」
「分かるの?」
「蜜蝋の封印には、本物を見分ける方法があります。正式な外交文書では、封蝋を押す前に蝋を十分に温めて柔らかくし、印章を深く押し込みます。こうすることで、印影がくっきりと残る。浅い押し方は、蝋が冷め始めてから押した証拠。つまり、本来の発行者ではなく、別の場所で蝋を再加熱して押し直した可能性があります」
イルマの目が大きくなった。
「偽造ということ?」
「断定はできません。けれど、中世の教皇庁では、偽造文書を見破るために封蝋の深さ、蝋の成分、印影の歪みを精査する専門官がいました。彼らは『蝋の語り部』と呼ばれていたそうです。封蝋の深さが浅いのは、偽造を疑う最初の手がかりです。他にも、蝋に含まれる花粉の種類で産地を特定する方法もあったといいます」
「……あなた、何者なの」
「ただの元公爵夫人です。ただ、十年間たくさんの書類を扱ってきただけ。本物をたくさん見れば、偽物に気づけるようになります」
イルマは複雑な表情をして、書簡を受け取った。去り際に一瞬だけ振り返り、小さく頷いた。その頷きは、それまでのどんな言葉より多くのことを語っていた。
それが、イルマとの関係が変わった最初の瞬間だった。
◇
その夜、ニクラスに呼ばれた。
執務室に入ると、彼の表情がいつにも増して硬い。机の上に一通の書簡が置かれている。
「グラオスから正式な書簡が届いた。公爵家の名義で、お前の身柄引き渡しを要求している」
胸が冷えた。予想はしていた。けれど、実際に突きつけられると、足の指先が冷たくなる。
「根拠は?」
「婚姻がまだ有効であること。公爵夫人としての義務を放棄したこと。それから――」
ニクラスが書簡を机に置いた。
「公爵家の財産を不正に持ち出したという告発だ」
「持ち出してなどいません」
「分かっている。だから聞いているんだ。反論の根拠を出せるか」
「出せます」
わたしは立ち上がった。靴の中敷きの下から、あの小さな紙を取り出す。
「これは、わたしがヴェルデンに来る前に控えていた、グラオス公爵家の財務に関するメモです。わたしが何を持ち出したか。答えは、何も。持ち出したのは自分の衣服と母の手紙だけです。けれど、ここに記された取引の流れを追えば、財産を持ち出していたのはわたしではなく、ヨーハンとフォーゲル男爵の側であることが分かります」
「メモだけでは弱い」
「ええ。だからこそ、ヴェルデン側の貿易記録と照合する必要があります。ルッツ商会を通じた取引の記録がヴェルデンの港湾管理局にあるはずです。グラオス側の記録と突き合わせれば、価格の操作が浮かび上がります。入り口と出口の値段が合わない。その差額がどこかに消えている。それを証明できます」
ニクラスが椅子の背にもたれた。しばし沈黙してから、静かに頷いた。
「やれ。イルマにも手伝わせる」
「イルマさんが、協力してくれるでしょうか」
「さっきイルマから報告があった。お前の封蝋の知識に感心したらしい。あいつは実力を認めた相手には素直だ」
わたしは少しだけ笑った。ニクラスは笑わなかったが、机の引き出しから港湾管理局への照会状を取り出して、署名した。万年筆の走る音が、静かな部屋に響いた。
「三日以内に記録を入手しろ。グラオスが次の手を打つ前に」
「承知しました」
部屋を出ようとしたとき、ニクラスが静かに言った。
「アネーゼ。お前の仮説が正しければ、これは単なる夫婦間の問題ではなくなる」
「分かっています。国家間の不正取引です」
「ああ。そしてその場合、お前は証人であると同時に、標的になる」
振り返った。ニクラスの灰青色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。冷たい目。けれど、その奥に、かすかな懸念が見えた。心配と呼ぶには控えめすぎるけれど、無関心ではない色。
「覚悟はしています」
「そうか」
廊下に出た。足元がしっかりしている。新しい中敷きのおかげかもしれない。それとも、自分の中に芯ができ始めたからかもしれない。
翌日から、イルマと二人で港湾管理局の記録を調べ始めた。イルマは相変わらず素っ気ないが、仕事は正確で速い。わたしが見落とした取引の矛盾を、彼女が拾う。彼女が見逃した文脈の違和感を、わたしが指摘する。言葉は少ない。けれど、お互いの仕事ぶりが語っている。
「悔しいけど、あなたと組むと効率がいいわ」
「わたしも同じことを思っています」
「……次は、もっと素直に認めるわ。たぶん」
小さな笑みを交わした。これが友情の始まりなのか、戦友の絆なのか、まだ分からない。けれど、信頼の種が芽を出した瞬間だということは分かった。
三日目の夕方、記録の照合が完了した。
結果は、わたしの仮説を裏付けていた。ルッツ商会を通じた取引は、グラオス公爵家の名義で行われていたが、実際の利益はフォーゲル男爵の個人口座に流れていた。そしてその取引を承認していたのは、公爵ヨーハン本人の署名だった。
(ヨーハン、あなたは愛人の父親と組んで、公爵家の財産を横流ししていたのね)
怒りは湧かなかった。その代わりに、深い疲労感が胸を満たした。十年間支えていた家が、内側から腐っていたのだ。わたしが夜更かしして整えた収支が、裏で食い荒らされていた。
「これを、どうするの」
イルマが聞いた。その声には、初めて聞く種類の柔らかさがあった。
「ニクラス宰相に報告します。そして、グラオスへの正式な返答に使います。わたしが財産を持ち出したのではない。持ち出していたのは、夫の方だと」
証拠は揃った。けれど、これで終わりではない。むしろ、ここからが本当の戦いだ。
――翌日、宰相府の入口に、グラオスからの使者が立っていた。そしてその使者の隣には、見覚えのある顔があった。




