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10年尽くした夫は愛人を正妻にするようなので、公爵夫人をやめて隣国で第二の人生始めます。  作者: 渚月(なづき)


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第4話 潮の匂いと古い地図

扉に手をかけたまま、わたしは動かなかった。


出かけるとき、鍵はかけた。確実に。公爵夫人時代に身についた習慣で、部屋を出るときは必ず確認する。鍵を、施錠の感触を、扉の閉まり具合を。右手の感覚がはっきりと覚えている。


廊下を見回す。人の気配はない。壁の燭台がちりちりと音を立てているだけだ。


(入るか、通報するか)


数秒迷って、扉を押し開けた。覚悟を決めたというよりは、ここで逃げたら「やはり怪しい」と思われると計算した結果だ。外国人のわたしが騒ぎを起こせば、真っ先に疑われるのはわたし自身だ。


部屋の中は、一見何も変わっていなかった。


旅鞄は元の位置にある。寝台のシーツに乱れはない。窓は閉まっている。けれど、わたしの目は一つの違和感を捉えた。


机の上の便箋。出かけるとき、わたしはそれをペンの右側に置いた。今、左側にある。些細な違い。普通なら気にしない。でも、わたしは気にする。十年間、書斎の物の配置を完璧に管理してきた人間だから。


誰かがこの部屋に入り、書類を探った。それも丁寧に。痕跡を残さないように。プロの仕事に近い。けれど、完璧ではなかった。


(……何を探していた?)


旅鞄を開けた。中身は無事。銀の指輪も、母の手紙も、手帳も。ただ、手帳を挟んでいた紐の位置が微妙にずれている。紐を左巻きにしていたのに、右巻きになっている。


手帳に書いていたのは、昨日気づいた貿易記録の疑問点。グラオスとヴェルデンの間で、不自然に安い価格で取引されている商会の名前。


(わたしが何に気づいているか、確認しに来た?)


考え込む前に、行動した。手帳の該当ページを破り取り、新しいページに無害な買い物リストを書いた。破った紙は小さく折り、靴底の中敷きの下に入れた。


古典的だけれど、靴の中を探る人間は少ない。匂いが移るし、何より靴を脱がせるのは目立つ。


その夜は眠れなかった。天井の木目を数えながら、誰が部屋に入ったのかを考え続けた。


翌朝、宰相府に出勤すると、ニクラスが珍しく外出の支度をしていた。


「港の視察に行く。ついて来い」


「わたし、ですか?」


「外交補佐の仕事には港湾事情の把握も含まれる。座っているだけが仕事ではない」


異論はなかった。というより、昨夜の侵入者の件もあり、部屋を空けて様子を見たいという思惑もあった。もう一度侵入があれば、管理人が気づくかもしれない。


港は早い時間から活気に満ちていた。ヴェルデンの主要な富は、この港から生まれている。荷揚げの掛け声、木箱がぶつかる音、鋲を打つ槌の響き。すべてが生きた経済の音だ。


ニクラスは港を歩きながら、淡々と説明した。


「ヴェルデンが急成長した理由は、香辛料の中継貿易だ。南方から運ばれた香辛料を、ここで積み替えて大陸各地に送る。直接の産地ではないが、航路の結節点にいるから利益が出る」


「中継だけで、これだけの繁栄を?」


「中継には倉庫が要る。倉庫には管理人が要る。管理人には宿と食事が要る。港が栄えれば職人が集まり、職人が集まれば街ができる。古代の地中海交易でも同じ構造だ。フェニキアの港湾都市テュロスは、自国の特産である紫の染料だけでなく、各地の物産の中継地として栄えた。場所そのものが価値になる。地理的な優位は、どんな才能より確実な資産だ」


(……この人、一つ一つの言葉に根拠がある)


ニクラスの話は無駄がない。感情を排し、事実を積み上げる。わたしの知らないタイプの人間だった。グラオスの貴族たちは、華やかな言葉で飾り立てることに長けていたけれど、中身が伴わないことが多かった。ヨーハンも、言葉だけは立派だった。


港の倉庫街を歩いていると、一人の商人がニクラスに近づいてきた。揉み手をしながら、卑屈な笑みを浮かべている。


「宰相閣下、先日の件ですが」


「後日、書面で提出しろ。口約束は受けない」


商人は不満顔で去っていった。ニクラスは表情を変えない。


「口約束は証拠が残らない。書面にすれば、嘘をつくのが難しくなる」


「……わたしも同じ考えです」


「ほう」


「十年間の領地運営で学んだことがあります。人は、記録されていると知っていると、嘘をつきにくくなる。逆に、記録がないと思えば、いくらでも事実を曲げます。だから、わたしはすべてを書き留めるようにしていました」


ニクラスが歩みを止めた。わたしの方を見る。灰青色の瞳が、一瞬だけ柔らかくなったように見えた。


「グラオスで、何を見てきた」


「……見えないふりをしてきたものが、たくさんあります」


それ以上は言わなかった。ニクラスも追及しなかった。追及しないのは、信頼の一つの形だと思った。


帰り道、港を見下ろす丘の上で、ニクラスが古い地図を広げた。風が地図の端を持ち上げようとするのを、わたしが押さえた。


「これは五十年前のヴェルデンだ」


地図には、今の港町の半分もない小さな漁村が描かれていた。家屋はまばらで、港には桟橋が三つしかない。


「五十年で、ここまで変わるものなのですね」


「変わる。正しく投資し、正しく人を動かせば。国は人の手で変わる。逆に言えば、誤った人間が舵を取れば、五十年の成果も一瞬で崩れる」


風が地図の端を揺らす。潮の匂いが強くなった。


「アネーゼ」


初めて、名前で呼ばれた。それまでは「メルツ殿」か「お前」だった。


「お前の部屋に侵入者があったことは把握している」


驚いて振り返った。知っていたのか。


「宿舎の管理人から報告があった。鍵師の痕跡が扉にあったらしい。正確には、鍵師ではなく合鍵の可能性が高いが」


「……なぜ、今まで黙っていたのですか」


「お前がどう対処するか見ていた」


その言葉に、かすかに腹が立った。試されていた。けれど同時に、合理的だとも思った。信頼できるか分からない人間を、試すのは当然のことだ。わたしだって同じことをする。


「靴の中に紙を入れたのは悪くない判断だった」


「……見ていたのですか」


「見てはいない。推測だ。お前なら、そうする」


ニクラスの視線が海に向いている。笑ってはいない。けれど、声の温度がほんの少しだけ上がった気がした。


「侵入者の目星はある程度ついている。だが、まだ泳がせる。お前もそのつもりでいろ」


「分かりました」


丘を下りながら、わたしは自分の中で何かが変わりつつあることに気づいた。グラオスでは、一人で全部を背負っていた。ここでは違う。信用はまだ途上だけれど、少なくとも「見ている人」がいる。それだけで、足の下の地面が少し固くなった気がした。


宿舎への道すがら、港の市場を通り抜けた。香辛料の匂いが濃い。シナモン、クローブ、胡椒。グラオスでは高級品だったものが、ここでは当たり前のように並んでいる。商人たちが声を張り上げて値段を叫び、買い手が指を立てて応じる。活気がある。この街は、動いている。止まっていない。


ふと、グラオスの市場を思い出した。あちらは静かだった。秩序があって、品があって、けれどどこか息苦しかった。ここは騒がしい。乱雑だ。けれど、生きている。


――宿舎に戻ると、枕元に小さな包みが置かれていた。中には新しい靴底の中敷きが入っていて、差出人の名前はなかった。

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