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10年尽くした夫は愛人を正妻にするようなので、公爵夫人をやめて隣国で第二の人生始めます。  作者: 渚月(なづき)


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第3話 冷たい椅子

宰相府の自分に割り当てられた机は、窓から最も遠い隅にあった。


椅子が冷たい。木製の簡素なもので、グラオスの書斎にあった布張りとは比べものにならない。座面は堅く、背もたれは直角で、長く座っていると腰に響く。けれど、自分の名前が書かれた椅子があるだけで、今は十分だった。


「あなたがグラオスから来たっていう人?」


声の方を見ると、赤茶の髪を高く結った女性が立っていた。鋭い目つき。腕を組んでいる。眉の角度だけで、不機嫌が伝わってくる。


「イルマ・シュテルン。宰相補佐よ。あなたの直属の上司になるわ」


「アネーゼです。よろしく――」


「よろしくも何も、正直に言うわ。わたしはあなたの採用に反対した」


まっすぐに切り込んでくる。社交界の回りくどさとは対極だ。グラオスの貴族なら、こういうことは笑顔の裏で言う。


「敵国とまでは言わないけど、グラオスとヴェルデンは利害が対立する場面が多い。そこの元公爵夫人を外交部門に置く? 冗談にしても笑えないわ」


「……おっしゃることは理解できます」


「理解できるなら、分かるでしょう。あなたを信用するつもりはない。証明は自分でして」


イルマはそれだけ言って去っていった。背中が怒っている。足音まで怒っている。


(……想定内、ではある)


疑われるのは当然だ。わたしだって同じ立場なら同じことを思う。むしろ、正面からそう言ってくれる人のほうが、裏で噂する人より扱いやすい。どこに地雷があるか、最初に見せてくれたのだから。


最初の仕事は、ヴェルデンの貿易記録の整理だった。港湾国家であるヴェルデンは、香辛料の中継地として急速に発展している。グラオスのような農業国とは経済構造がまるで違う。


記録は膨大だった。紙束の山を一枚ずつ確認し、日付順に並べ、取引先ごとに分類する。地味な作業だが、こういう仕事は嫌いではない。グラオスでも同じことをしていた。


記録を読み込みながら、わたしは一つの違和感に気づいた。


(この取引先、グラオスの商会と繋がっている……?)


ある商会の名前が、何度か出てくる。取引の規模に対して、価格が不自然に低い。理由が書かれていない割引。意味のない中間手数料の発生。


気になったが、まだ仮説に過ぎない。黙って記録を続けた。証拠がないうちに声を上げれば、「やはり間者か」と疑いを深めるだけだ。グラオスの事情を知っているからこそ気づいた異常だが、それを口にする段階ではない。


昼休みに、ニクラスが執務室から出てきた。


「初日の進捗は」


「貿易記録の整理を進めています。いくつか気になる点がありますが、まだ確認中です」


「具体的に」


「……まだ申し上げる段階ではありません。裏付けが取れてからお話しします」


ニクラスが一瞬だけ目を細めた。前回と同じ、かすかな反応。


「急がなくていい。正確にやれ」


それだけ言って、彼は去った。短いやりとりだったが、わたしの仕事の姿勢を試しているのが分かった。焦って結論を出す人間か、石橋を叩ける人間か。


午後、宰相府に来客があった。老齢の大臣で、名をハンネスといった。ヴェルデンの建国期から政務に携わってきた重鎮らしい。杖をつきながらも背筋の伸びた歩き方に、長い人生の矜持が見えた。


「ほう、あなたがイレーネの娘か」


穏やかな声だった。白髪を丁寧に梳かした、品のいい老人。目尻に深い皺が刻まれているが、瞳の光は若い。


「母をご存知ですか」


「知っているとも。イレーネは若い頃、ヴェルデンに短期留学していてな。わしの講義を受けていた。聡い女性だった。質問がいつも鋭くてな、他の生徒が困っておった」


(母が、ヴェルデンに……)


知らなかった。母の過去は、まだわたしの知らない部分が多い。母はグラオスの田舎貴族の娘で、穏やかに暮らしていた人だと思っていた。


「ニクラスにあなたの名を伝えたのは、実はわしだ。イレーネから、娘がグラオスに嫁いだと聞いていた。あの家が荒れているという噂は、こちらにも届いていてな」


ハンネスは穏やかに笑ったが、その目には鋭さが残っていた。


「気をつけなさい。ヴェルデンにも、グラオスの息がかかった人間はいる。全員が味方ではない」


その言葉は、予言のように胸に刺さった。





翌週の月曜日、ハンネスが亡くなった。


持病の悪化。突然ではなかったらしいが、わたしにとっては突然だった。まだ二度しか話していない。それでも、あの穏やかな声と、母の名前を呼んだ口調は、忘れられない。


葬儀はヴェルデンの大聖堂で行われた。高い天井のステンドグラスから色とりどりの光が降り注ぐ中、宰相府の人間は全員が参列した。ニクラスは一言も感情を表に出さなかった。黒い上着の襟をぴんと立て、棺の前を通るとき、一瞬だけ歩みが止まったのを、わたしは見た。ほんの一瞬。他の人は気づかなかったかもしれない。後から聞いた話では、ニクラスは若い頃にハンネスの薫陶を受け、この人に見出されて宰相の道を歩んだのだという。


(……この人にとっても、大切な人だったのだ)


ハンネスの死で、宰相府の空気が変わった。彼がいたから均衡が保たれていた派閥のバランスが崩れ、わたしに対する風当たりが強くなった。守ってくれる長老がいなくなったのだ。


「グラオスの人間がいるから、老大臣が心労で倒れたのでは?」


廊下で、聞こえるように言われた。聞こえないふりをした。足を止めず、歩幅も変えず、まっすぐ自分の机に向かう。


夕方、机を片付けていると、イルマが近づいてきた。表情は硬い。


「ハンネス大臣が亡くなって、あなたの後ろ盾はなくなったわ。分かっているでしょうね」


「ええ」


「それでも残る気?」


「残ります。わたしには帰る場所がありませんから」


イルマの眉が動いた。怒りとも呆れともつかない表情。


「……勝手にしなさい」


背を向けて去るイルマの足音を聞きながら、わたしは気づいた。彼女の声には、敵意だけではない何かが混じっている。心配、ではないだろう。けれど、純粋な敵意とも違う。


それが何なのか、この時点ではまだ分からなかった。


机の引き出しに、今日見つけた貿易記録の写しをしまう。気になる取引先の名前を、手帳に控えておいた。まだ仮説にもなっていない。けれど、わたしの勘は、これが何か大きなものに繋がっていると告げている。十年間、領地の運営をしていたからこそ分かる「おかしさ」がそこにあった。


冷たい椅子に座り直した。座面は相変わらず堅い。けれど、ここがわたしの場所だ。明日もここに来る。明後日も。ハンネス大臣がいなくなっても、わたしの足は動く。


窓の外はもう暗い。宰相府の職員たちが一人また一人と帰っていく。わたしの机の上には、まだ片付けきれていない書類の山がある。明日の分まで目を通しておこうと思った。信用がないぶん、仕事の量で補うしかない。


廊下の向こうから、ニクラスの執務室の灯りが漏れている。この人もまだ帰っていないのだ。ハンネスを失った宰相府の重圧は、彼の肩に一番重くのしかかっているはずだ。けれど、彼はそれを顔に出さない。


灯りが一瞬揺れた。風だろうか。それとも、あの人もまた、一人で何かと戦っているのだろうか。


――その夜、宿舎に戻ると、自室の扉が半開きになっていた。

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