第2話 国境の向こう側
港の匂いは、潮と魚と、それから少しだけ希望の味がした。
ヴェルデンは、わたしが想像していたよりずっと騒がしい街だった。グラオスの整然とした石畳とは違い、港に面した大通りには荷車と人と家畜がひしめいている。色とりどりの日除け布が風に揺れ、異国の言葉が飛び交い、どこからか焼いた肉の匂いが漂ってくる。
「道を開けろ! 香辛料船が入るぞ!」
怒鳴り声が飛び交う中、わたしは旅鞄を抱えて立ち尽くしていた。三日間の馬車旅で体は疲れ切っている。けれど、不思議と心は軽い。ここには、わたしの過去を知る人がいない。
(……ここが、母の言っていた国)
母の手紙に書かれていた名前は、ひとつだけ。「ニクラス・ファルケン」。宰相府に勤める人物だという。母がなぜこの名前を知っていたのか、手紙には書かれていなかった。
宰相府の場所を尋ねると、港から丘を三つ越えた先だと教えられた。ヴェルデンは港湾国家で、丘の上に行政機関が集まっている。海から遠い場所ほど格が高い。これは後で知ったことだが、港湾都市では海賊や疫病の危険が海側に集中するため、権力者ほど高台に居を構えるのだという。古代ローマの港町オスティアでも同じ構造が見られ、元老院議員の別荘は丘の上に建てられていた。
丘を登りきったとき、足が痛かった。旅慣れない靴底が薄くなっている。石の角が、足の裏に直接響く。けれど、振り返らなかった。
宰相府は、予想より質素な建物だった。石造りの三階建て。グラオス公爵家の屋敷の方がよほど豪華だ。けれどその質素さに、どこか実務的な信頼感があった。飾りではなく、中身で勝負する建物。わたしが求めていたのは、こういうものだったかもしれない。
「どちら様で?」
門番の青年に名を告げた。旧姓ではなく、嫁ぐ前の家名を。公爵夫人の名は、もう使わない。
「アネーゼ・メルツ。ニクラス・ファルケン様にお取り次ぎ願いたいのですが」
「……アポイントは?」
「ありません。ただ、この手紙を見せていただければ」
母の手紙を差し出した。門番は怪訝そうにそれを受け取り、中へ消えた。
待つこと、およそ一刻。足の痛みは限界に近い。石段に腰を下ろしたかったが、それをしたら立ち上がれなくなる気がした。背筋を伸ばしたまま、ただ待った。待つことには慣れている。十年間、夫の帰りを待ち続けた。
「アネーゼ・メルツ殿か」
声に顔を上げると、宰相府の入口に一人の男が立っていた。
黒髪を後ろに撫でつけ、仕立てのいい上着を着ている。年齢は三十前後か。整った容貌だが、瞳の色が冷たい。灰青色。冬の海の色だ。人を見定める目をしている。
「ニクラス・ファルケン。宰相を務めている」
(宰相、本人……?)
母の手紙は「宰相府の人間」と書いていたはずだ。まさか宰相そのものとは。
「突然の訪問をお許しください。母の手紙に、あなたのお名前が」
「イレーネ・メルツの娘か」
母の名前が、この男の口から出た。わたしの足が一瞬止まる。
「……母をご存知なのですか」
「知っている。入れ」
それだけ言って、彼は背を向けた。愛想のかけらもない。けれど、門を開けてくれたのは確かだった。
◇
通されたのは、宰相の執務室だった。壁一面に棚があり、書類と巻物がぎっしり詰まっている。窓からは港が一望できる。無数の帆船のマストが林のように並んでいた。
ニクラスは机の向こうに座り、わたしを見た。観察している。値踏みではなく、品定めでもなく、純粋に情報を集めている目だ。
「事情は概ね察している。グラオス公爵家から出たんだろう」
「……なぜ、それを」
「グラオス公爵が愛人を正妻にする意向があるという話は、外交筋で既に出ている。ヴェルデンは小国だが、情報は早い。港には各国の商人と外交官が出入りする。噂は風より速く広がる」
わたしは息を飲んだ。まだ三日しか経っていないのに、もう外交筋にまで漏れている。
「ここに来た目的は」
「……正直に言えば、行く当てがなかっただけです。母の手紙だけを頼りに来ました」
「それだけか」
「いいえ」
背筋を伸ばした。ここで卑屈になってはいけない。わたしは施しを求めに来たのではない。
「わたしは十年間、公爵家の領地運営を一人で担ってきました。財務、人事、外交の下準備。社交季の調整から小作人の陳情対応まで。その経験を、どこかで活かしたい。ただの保護を求めに来たのではありません」
ニクラスの目が、ほんのわずかに変わった。冷たさの中に、何か別のものが混じる。興味、だろうか。
「中世の婚姻法では、貴族の婚姻解消には教会裁判所の承認が要る。古くは教皇庁の直轄案件だった時代もある。グラオスの教会法でも同じはずだ。正式な手続きは済ませたのか」
「済ませていません。夫は一方的に宣言しただけです。つまり、法的にはまだわたしが正妻です」
「分かっていて出てきたのか」
「ええ。正式な手続きの前に出ることで、夫側に手続きの負担を残しました。婚姻解消にはわたしの署名か、教会裁判所での不在裁判が必要です。どちらも、時間がかかる。その間にわたしは自由に動ける」
ニクラスが、初めてかすかに口角を上げた。笑みというには薄すぎるが、無表情よりはましだ。
「交渉の余地を自分で作ったということか」
「はい。何も持たずに出たわけではありません」
沈黙が落ちた。港から角笛のような音が風に乗って聞こえる。窓の外で、海鳥が低く飛んだ。
「いいだろう」
ニクラスが立ち上がった。
「宰相府の外交補佐として、仮採用する。試用期間は三ヶ月。その間に使えないと判断すれば、容赦なく解雇する」
「……ありがとうございます」
「礼はいい。結果で示せ」
彼はそう言って、一枚の書類をわたしの前に滑らせた。ヴェルデンの外交案件一覧だ。案件の多さに目を見張った。小国とは思えない。
「明日から来い。部屋は手配する」
書類を受け取る手が、少しだけ震えた。緊張ではない。安堵でもない。たぶん、これは決意の震えだ。新しい場所で、新しい仕事。十年ぶりに「自分のため」に何かを始める。
部屋を出るとき、ニクラスが背中に声をかけた。
「一つだけ聞いておく。グラオス公爵家に、戻る気はあるか」
振り返らずに答えた。
「ありません」
足取りは軽かった。靴底は薄いままだけれど、丘を下る足は、もう痛くなかった。港の灯りが夕暮れの中でぽつぽつと灯り始めている。この街の匂いを、わたしは好きになれるだろうか。
宿舎に案内された。宰相府の職員用の簡素な部屋だった。窓は小さく、家具は寝台と机と椅子だけ。グラオスの自室とは比べものにならない。けれど、この部屋は自分の力で手に入れた場所だ。誰かに与えられたのではなく、自分の言葉で勝ち取った場所。
旅鞄を開けて、荷物を出した。衣服を畳み直し、母の手紙を机の引き出しに仕舞う。指輪は鞄の底のまま。
窓を開けると、潮の匂いと一緒に、港の喧騒が聞こえてきた。異国の言葉、荷物を下ろす音、笑い声。全部が新しい。全部が未知だ。
不安がないと言えば嘘になる。けれど、あの食堂でヨーハンの声を他人の声だと感じたあの瞬間から、わたしの中で何かが動き出している。止まっていた歯車が、ようやく回り始めた。
――けれど翌朝、宰相府で待っていたのは歓迎ではなく、「グラオスの間者ではないか」という冷たい疑いの視線だった。




