第1話 折れた音
夫の声が、他人の声に聞こえた。
それが、十年の婚姻の終わりを告げる最初の兆しだった。
「アネーゼ。話がある」
夕食の席で、ヨーハンはワイングラスを置いた。いつもより背筋が伸びている。こういうとき、彼は自分が正しいと信じている。十年も一緒にいれば、そのくらいは分かる。
わたしは、フォークを静かに皿の端に揃えた。銀食器が触れ合う小さな音だけが、広すぎる食堂に響く。
「聞いている」
「ロレッタを、正妻として迎え入れようと思う」
呼吸を、意識して整えた。吸って、止めて、吐く。胸の奥で何かが折れる音がした。比喩ではなく、本当に肋骨のあたりが軋んだような感覚だった。
ロレッタ。男爵家の三女。社交界に出てまだ二年。夫の視線がそちらに向いていることには、とうに気づいていた。夜会で彼女と踊るヨーハンの顔は、わたしに向けるどの表情よりも柔らかかった。
「……正妻に、ということは」
「うん。君には、別邸を用意する。不自由はさせない」
不自由はさせない。十年間、この家のために尽くした女に対して、夫が選んだ言葉がそれだった。領地の収支が合わないと眠れぬ夜を過ごしたのも、小作人の嘆願に耳を傾けて対策を考えたのも、社交季に他家との関係を繋ぎとめたのも、すべてわたしだ。それに対する答えが、「不自由はさせない」。
わたしは手元を見た。左手の薬指には、婚約のときに贈られた細い銀の指輪がある。十年で少し歪んでいる。わたしと同じだ。いや、わたしは歪んだのではない。歪められたのだ。
(……ああ、そうか)
悲しいのではなかった。怒りでもなかった。ただ、とても静かに、自分の中で何かが「終わった」と理解した。壊れたのではなく、終わった。もう動かない時計の針を見つめるような、不思議な平穏がそこにあった。
「ヨーハン」
「何だ」
「この屋敷の備品目録と、領地の収支記録。どこにあるか、ご存じ?」
夫は一瞬、目を瞬かせた。予想していた反応ではなかったのだろう。泣くか、怒るか、すがるか。そのどれかを想定していたはずだ。
「……なぜ、今そんなことを」
「別邸に移るなら、引き継ぎが要りますから」
わたしは椅子から立ち上がった。姿勢は崩さない。十年かけて覚えた、公爵夫人としての所作。最後まで、これだけは手放さない。それはわたしの矜持だった。
「管理していたのは、すべてわたしです。目録も、記録も、わたしの書斎にあります。ロレッタ様にお渡しするには、少し時間をいただきたい」
ヨーハンの表情が揺れた。この人は知らなかったのだ。この家が誰の手で回っていたのか。知ろうとしなかった、と言うほうが正しいかもしれない。
(……十年間、見ていなかったのね)
食堂を出た。廊下は暗く、蝋燭の灯りが壁を揺らしている。足音を立てないように歩く。公爵夫人は、廊下を走らない。どれほど胸が痛くても。
書斎の扉を閉めて、ようやく膝が震えた。扉に背中を預けて、ゆっくりと腰を落とす。床の冷たさが、薄い衣服を通じて伝わってきた。
机の上には、今朝まとめたばかりの領地報告がある。小作人への冬季の配給計画。屋敷の修繕費の見積もり。来春の社交季の招待客の選定。外壁の補修業者との交渉結果。すべて、わたしが一人でやっていた。この家は、わたしの手で息をしていた。
指先が冷たい。けれど、頭は澄んでいた。
(別邸に行く気はない)
閉じ込められるだけだ。体のいい幽閉。世間からは「公爵の温情で隠居させてもらった元妻」として忘れ去られる。そんなものを受け入れるために、十年を費やしたわけではない。わたしにはまだ、自分の足がある。
本棚の奥から、一通の古い手紙を取り出した。差出人は、母。故郷ではなく、隣国ヴェルデンの消印が押されている。
『もし行き場をなくしたら、この名前を頼りなさい』
母が遺した、最後の手紙。五年前に他界した母が、なぜこんな言葉を残したのか。当時は意味が分からなかった。けれど今、この一通が、わたしの手の中で小さく息をしている。母はどこかで、こうなることを予感していたのだろうか。
◇
翌日の早朝、わたしは屋敷の自室で旅支度を整えた。
持ち出すものは最小限にした。衣服は三日分。母の手紙。それから、十年分の領地運営の知識と経験。手に持てるものは少ないけれど、頭の中にあるものは誰にも奪えない。
鏡の前で、髪を結い直す。公爵夫人の正装ではなく、旅人の簡素な装い。鏡に映る自分の顔は、不思議と穏やかだった。泣き腫らした顔ではない。泣かなかったのだから当然だ。
玄関に向かう途中、侍女頭のベアタとすれ違った。
「奥様、こんなに早くどちらへ?」
「少し、遠くまで」
ベアタは何か言いたげだったが、わたしは微笑んで通り過ぎた。ベアタの目がわずかに泳いだのは、気のせいだったかもしれない。
この屋敷の誰にも、行き先は告げない。
馬車には乗らなかった。公爵家の紋章入りの馬車に乗れば、すぐに行き先が知れてしまう。徒歩で街道に出て、乗合馬車を待つ。公爵夫人が乗合馬車に乗るなんて、社交界が聞いたら卒倒するだろう。
でも、もう公爵夫人ではない。
乗合馬車が来た。行き先を告げる。
「ヴェルデンまで」
御者が少し驚いた顔をしたが、銅貨を受け取ると黙って頷いた。
馬車が動き出す。窓の外を、グラオスの街並みが流れてゆく。見慣れた風景。十年住んだ街。石畳の道、尖塔のある教会、市場の喧騒、公爵家の庭園に咲いていた白い薔薇。全部が遠ざかってゆく。
涙は出なかった。
その代わりに、左手の薬指から、銀の指輪をそっと外した。歪んだそれを、掌の上で転がす。十年分の重さが、こんなに軽い。
(ありがとう。でも、もういい)
指輪を旅鞄の底に仕舞い、わたしは前を向いた。
馬車の窓から、国境の山並みが見え始めていた。緑が深い。その向こうに何があるのか、まだ分からない。けれど、少なくとも「別邸で静かに暮らす」よりは、ずっとましだろう。
隣に座った老婆が、干し果物を差し出してくれた。小さく礼を言って受け取った。甘くて、少しだけ酸っぱかった。
老婆はにこりと笑って、それ以上何も聞かなかった。見ず知らずの旅人にも、小さな親切を差し出せる人がいる。十年間、わたしはどれだけの親切を周りに配ってきただろうか。それに見合うものを、返してもらったことがあっただろうか。
嫁いだばかりの頃を思い出す。ヨーハンは穏やかな人だった。少なくとも、そう見えた。夜会の後、二人で庭を歩いたこともある。白い薔薇が月明かりに浮かんでいた。あの頃の彼の横顔は、確かに優しかった。
いつから変わったのだろう。変わったのは彼か、わたしか、それとも二人の間の空気か。答えは出ない。出さなくていい。もう、考える必要のないことだ。
馬車が山道にさしかかった。揺れが大きくなる。窓の外の景色が、見慣れた平野から険しい山肌に変わっていく。国境の峠はもうすぐだ。
――そして三日後、ヴェルデンの港町に降り立ったわたしの前に現れたのは、この国で最も敵に回してはならないと噂される男だった。




