第10話 二つの国の間で
グラオスの政変は、予想外の形で訪れた。
不正取引の証拠が外交ルートで開示されたことで、グラオスの貴族議会が動いた。ヨーハンは公爵位を剥奪され、領地は王家の管理下に置かれた。ロレッタは父フォーゲル男爵の死後、後ろ盾を失い、宮廷から姿を消した。かつて社交界の華と呼ばれた赤毛の令嬢は、地方の親戚を頼って去ったという。
報告書を読みながら、わたしは窓の外を見ていた。港ではいつも通り、荷車が行き交い、怒鳴り声が飛んでいる。世界は変わったのに、日常は変わらない。
(終わった、のだろうか)
感情は静かだった。勝利の喜びよりも、長い旅の終わりに似た感覚。達成感というよりは、脱力。体の奥に溜まっていた緊張が、少しずつ溶けていくような。
「アネーゼ」
ニクラスが執務室に入ってきた。手に一通の封書を持っている。
「グラオスの貴族議会から、正式な書簡が届いた。お前宛だ」
差し出された封書を開いた。中には、わたしの婚姻解消の正式な証明書と、持参金の返還証書。教会裁判所の承認印が押されている。もう、どこからも異議は出せない。
そしてもう一通、短い手紙が入っていた。
グラオス王太子からの私信だった。
『公爵家の不正を明らかにしたことに、王家として感謝する。あなたの帰国を望む声もあるが、あなたの意思を尊重する。どこにいても、グラオスはあなたを名誉ある臣民として認める』
王太子が動いていた。ヨーハンの不正を知りながら、証拠がなくて動けなかったのだろう。グラオスの貴族社会では、名誉の壁が高すぎて、内側の腐敗に手を入れられない。わたしの証拠が、彼にとっても待ち望んだものだったのだ。
(グラオスにも、正しくあろうとする人はいた)
そう思うと、少しだけ胸が温かくなった。あの国のすべてが悪かったわけではない。ただ、悪いものが権力を持ちすぎていただけだ。
「どうする」
ニクラスが聞いた。その声は、いつもより少しだけ低い。聞き慣れた声だけれど、今日は微かに違う。
「帰国するか」
「いいえ」
迷いはなかった。
「わたしの居場所は、ここにあります」
ニクラスは何も言わなかった。ただ、わずかに息を吐いた。安堵の吐息。この人がこういう息をするのを、初めて聞いた。
◇
午後、イルマがわたしの机に来た。いつものように腕を組んで、けれど表情は柔らかい。
「聞いたわ、グラオスの件。それで、ここに残るって?」
「ええ」
「そう」
イルマは腕を組んだまま、天井を見上げた。
「正直言うと、あなたが来たとき、絶対にすぐ追い出してやると思ってた」
「知ってる」
「最初の一週間は、毎日ニクラスに文句を言いに行ってた」
「それも知ってる」
「……バレてたの」
「宰相室から出てくるときの足音が、明らかに怒っていたから」
イルマが鼻を鳴らして笑った。初めて見る、屈託のない笑顔だった。
「今は……まあ、いてくれた方が仕事が回るし。あなたがいないと、封蝋の真偽も分からないし、貿易記録の矛盾も見つけられない」
「それ、褒め言葉として受け取っておくわ」
「好きにして」
イルマが去った後、わたしは少しだけ泣いた。嬉し涙ではなく、安心の涙だ。人に認められるということが、こんなにも温かいとは。グラオスでは十年間、認められたことがなかった。仕事は当たり前、努力は見えないもの、成果は夫の手柄。そういう世界にいた。
机の上に、今朝届いた書類が積まれている。新しい外交案件だ。南方諸島との航路に関する予備調査の報告書。コルネリウスとの合意に基づく、最初の一歩。わたしがこの案件を担当する。自分の名前で。
ハンネス大臣の写真が、執務室の壁にかけられている。穏やかな笑顔。あの人がいなければ、わたしはここにいなかった。母がいなければ、ハンネスに辿り着くこともなかった。人の縁は、目に見えない糸で繋がっている。
夕方、宰相府の仕事を終えて、わたしは一人で港を歩いた。
ここに来た日のことを思い出す。旅鞄を抱えて、港の喧騒の中に立ち尽くしていた自分。あの日の靴底は薄くて、足が痛かった。行く当てもなく、母の手紙一通だけを頼りに。
今は違う。足元はしっかりしている。この街を歩く足は、もう震えていない。街の匂いも、騒がしさも、全部が親しい。
港の端にある灯台の下で、ニクラスが立っていた。海を見ている横顔が、夕日に照らされて柔らかい。
「なぜ、ここに?」
「散歩だ」
「偶然ですか」
「……偶然ということにしておけ」
ニクラスは海を見ていた。夕日が沈みかけている。空が橙から紫に変わる、一日で最も短い時間。
「アネーゼ」
「はい」
「試用期間は今日で終わりだ」
「……それは」
「正式採用する。外交補佐ではなく、外交官として」
息が止まった。外交補佐と外交官では、権限がまるで違う。自分の名前で書類を出し、交渉の席に自分の意思で座れる。
「明日から、肩書が変わる。それだけだ」
それだけ、と言いながら、彼の声はほんの少し柔らかかった。
「ニクラス」
「何だ」
「ありがとうございます」
彼は答えなかった。代わりに、半歩だけ近づいた。肩と肩が、初めて触れた。
温かかった。海風が冷たくなり始める時刻に、その温もりは確かだった。
わたしたちはしばらく、二人で海を見ていた。言葉はなかった。言葉がなくても、伝わるものがあった。十年間、言葉ばかりの空虚な関係の中にいたから、沈黙の中に本物の温度があることが分かる。
やがて、日が沈んだ。
港に灯りがともり始める。船のランタンが揺れる。潮の匂い。魚と、香辛料と、少しだけ希望の味。ここに来た日と同じ匂いだ。けれど、あの日とはすべてが違う。
「帰ろう」
ニクラスが言った。
「ええ」
並んで歩いた。歩幅を合わせてくれているのが分かった。大股のニクラスが、少しだけ歩幅を狭めている。
宰相府に戻る坂道で、ニクラスがぽつりと言った。
「お前の母親、イレーネは、昔ヴェルデンでこう言っていたらしい。『どこに根を下ろすかは、自分で決めるものだ』と」
「……母らしい言葉ですね」
「ああ。お前も、母親に似ている」
それが、彼なりの最大の賛辞なのだと分かった。比較ではなく、継承だと言ってくれている。
宰相府の前で立ち止まった。明日からまた、新しい仕事が始まる。新しい肩書で、新しい立場で。けれど、やることは変わらない。観察し、仮説を立て、証拠を示す。そうやって、一つずつ前に進む。
振り返ると、港の灯りが星のように瞬いていた。ここに来た日は、あの灯りが心細く見えた。今は違う。あの灯りの一つ一つが、誰かの暮らしであり、誰かの仕事であり、この国の鼓動なのだと分かる。
(十年、遠回りをした。でも、遠回りをしたから、ここに辿り着いた)
左手の薬指は、もう何もつけていない。銀の指輪は旅鞄の底に眠ったまま。いつか、それを海に返す日が来るかもしれない。けれど、今日ではない。
今日は、ただ前を向く日だ。
風が変わった。南からの風。新しい季節の匂いがする。
わたしは一歩を踏み出した。ヴェルデンの丘を登る、確かな一歩を。
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