第9話 迷いの森③
イリスは身じろぎし、薄い茶色の瞳を開いた。その先にあるのは、見慣れぬ天井だ。
「起きた?」
少女の声が聞こえた。赤髪の少女、フィオナだ。フィオナはきびすを返して、部屋のドアを開けた。
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
「そんな大声で呼ぶんじゃないよ」
フィオナの声も大きかったが、老婆の声の方が大きかった。フィオナは肩をすくめ、イリスの方に戻ってくる。
「おばあちゃん、耳が遠くて、大声じゃないと聞こえないの」
イリスは笑みを浮かべ、体を起こした。そのとき、手にぬくもりがあることに気づいた。視線を向けると、それはカルロスだった。椅子に腰かけ、イリスの手を握りながらベッドに顔を伏せている。眠っているようだ。
「さっきまで起きていたんだけどね」
フィオナがそう言った。
イリスはカルロスの短い髪に触れる。それは意外と柔らかかった。カルロスの呼び声がなければ、あのままずっと夢の中にいたかもしれない。
「ありがとう」
イリスは小さく言って、カルロスの頭を優しく撫でた。カルロスが短く声を上げ、くすぐったそうに身じろぎしたので、イリスは慌てて手を離した。
老婆は部屋に入ってきて、起きたイリスに満足そうに微笑んだ。
「うん。もう大丈夫そうだ」
「私はいったい……」
「霧の魔力に当てられたんだ。三日も眠っていたんだよ。あと数日寝ていたら、死んでいただろうね」
「三日も?」
イリスは驚いた顔で老婆を見た。
「そうだよ。起きられるかい?」
イリスはうなずいた。
リビングのソファーに移り、イリスは部屋を眺めた。隅には暖炉があり、中央には木製のダイニングテーブルが置かれていた。壁には手作りのタペストリーが飾られている。
老婆がおかゆを持ってきてくれた。イリスはゆっくりとそれを口に運ぶと、優しい味がした。
イリスがおかゆを半分程食べ終えた頃、扉を乱暴に開ける音がした。イリス、老婆、フィオナがなにごとかと振り返った。
「イリスがいない!」
そこには血相を変えたカルロスが立っていた。頬には布団の跡がついている。
老婆とフィオナが声を上げて笑った。カルロスは眉を顰めたあと、イリスに気づいた。
「……起きたのか?」
イリスがうなずくと、カルロスはそばに駆け寄り、イリスの顔に触れ、腕に触れた。
「もう大丈夫なのか?」
「うん。もうなんともない」
カルロスはほっとした顔で、力が抜けたように床に座った。
「イリスが倒れたときは、どうしたものかと……」
オレンジの短い髪をかき上げる。イリスは椅子から降りて膝をついた。
「ずっと夢を見ていたの。カルロスとはじめて出会ったときのこと」
イリスは見ていた夢の話をした。そのときに、ずっとカルロスの声が聞こえていたことも。
「そうか……」
カルロスは視線を下げ、口元に小さな笑みを浮かべていた。
老婆がカルロスも椅子に座るように促した。
「それでイリス王女たちは、どうしてここまできたんだい?」
イリスは驚いた顔で老婆を見てから、はっとしたようにカルロスを見た。それは「なんで言った?」と言わんばかりの責めるような目だった。カルロスは慌てて首を横に振った。
「俺が言ったんじゃない。このばあさんは、俺が言う前からイリスを知っていた」
イリスは老婆に視線を戻した。
「どうして、私のことを知っているのですか?」
「この大地の上のことは、よく見えるからね。イリス王女のことも、何度か見たことがある」
老婆は深い皺の入った顔に笑みを浮かべた。
「……あなたが森の魔女なのですね」
「そうだよ。隣にいるのは、フィオナ。孫娘だ」
フィオナが可愛らしくにっこりと笑ったので、イリスもつられるようにして微笑んだ。そして、イリスは再び森の魔女に顔を向けた。
「お尋ねしたいことがあってきました。あなたは時が止まったことを知っていますか?」
森の魔女は面食らったような顔をしたあと、「なるほど」と納得したように何度かうなずいた。
「だから、ずっと森がざわめいているんだね」
「森がざわめいているの? もしかして、雨が続いているのもそのせい?」
フィオナが驚いたように森の魔女に視線を向けると、森の魔女は呆れた目をした。
「お前は毎日森を歩いて、いったいなにを見ているんだい。まったく」
フィオナはバツが悪そうに、舌をちょっとだけ出した。森の魔女はイリスに視線を向けた。
「いつからだい?」
「時が止まってから、六度目の秋を迎えました」
「千年も生きると、時に疎くなって嫌だね。――うん? 六度前の秋か。ちょうどその頃、北の荒野に住みついた魔女がいたね」
「北の荒野だって?」
最初に森の魔女の言葉に反応したのはカルロスだった。テーブルに身を乗り出した。イリスはカルロスに尋ねた。
「北の荒野?」
「北の最果てだ。荒れ果てた土地で、足を踏み入れた者は、誰ひとりとして帰ってこないという」
カルロスの言葉を聞いて、森の魔女は大声をあげて笑った。
「それは言い過ぎさ。だが、人が生きる土地じゃないね。それでも、イリス王女は行くかい?」
「行きます。時が止まった理由を知りたいから」
「言うと思ったぜ……」
カルロスはイリスの隣で頭を抱え、片目だけ開いてイリスを見た。
「わかっているのか? ここから何カ月もかかる道のりだぞ」
「ここまできて引き返すの?」
イリスの力強い瞳に見つめられ、カルロスは言葉を飲み、重いため息をついた。
「わかった、わかったよ。どこまでだってつき合ってやるよ。イリスひとりじゃ、危なっかしい」
カルロスは降参したように両手を上げた。
森の魔女はイリスとカルロスを見た後、フィオナに顔を向けた。
「あんたたち二人だけじゃ心細いね。フィオナ、ついていってやりな」
「え? やだよ。めんどくさい」
フィオナはあからさまに嫌な顔をした。
「じゃあ、わたしがついて行こうか。その代わり、フィオナは森の世話を頼むよ」
森の魔女の言葉に、フィオナがぴんと背筋を伸ばし、慌てた様子で言った。
「わかった! あたしが行く!」
「最初からそう言っていればいいんだよ」
森の魔女が呆れたように言った。
「なぁ、空とか飛んで、すぐに北の荒野に行く方法はないのかよ?」
カルロスがそう言うと、森の魔女の眉がピクリと動いた。
「あるよ。フィオナとイリス王女は、まぁ、問題ないとして、カルロス、あんたが空を飛べるようになるには、十年といったところかな」
「なんだって?」
カルロスが目を丸くした。フィオナが「ぷっ」と吹くように笑った。
「足手まとい」
「おい、この口が言ったのか?」
カルロスは口元を引きつらせ、フィオナの頬を横に引っ張る。
「いひゃいよ。はなひなひゃいよ」
フィオナはカルロスの手を叩いた。その様子を見ていたイリスと森の魔女は、おかしそうに笑った。
翌日。
イリス、カルロス、フィオナはさっそく旅立つことにした。
「おばあちゃん、行ってくるね」
見送りに出てきた森の魔女の前に立って、フィオナは言った。その顔は、昨日とは打って変わって明るい。旅に期待しているようだ。
「フィオナ、世界を見てきな。それも修行の内だからね」
フィオナはうなずいた。森の魔女は、今度はイリスに目を向けた。
「イリス王女、あんたは時が止まったことに気づいた特別な子だ。それには、きっと意味があるはずさ。諦めるんじゃないよ」
イリスも森の魔女の瞳を見つめながら、力強くうなずいた。




