第8話 迷いの森②
カルロスはイリスを背負い、赤髪の少女についていく。
辿りついた先は、一軒の小屋だった。こぢんまりとしたリビングがあり、暖炉には火が焚かれ、暖かい。
少女が叫んだ。
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
二度目は小屋中に響き渡るほどの大声だった。
「うるさい子だね。そんな大声で呼ばなくても聞こえているよ」
階段を下りてきた老婆が言った。曲がった腰に片手を当て、樫の杖をついている。老婆はカルロスに気づいた。
「それ、どうしたんだい?」
「拾ってきた」
「そんなもん拾うんじゃないよ!」
老婆は先程の少女と同じくらいの大声で言った。しかし、カルロスが背負っているイリスを見て、少女と同じ黄金の瞳を細めた。
「おや。まさかその娘、イリス・ルーベンスじゃないかい?」
一目でいい当てた老婆にカルロスは驚き、警戒するような瞳を向けた。老婆は気にすることなくゆっくりと歩み寄り、イリスの顔を眺めた。
「霧の魔力に当てられたようだね」
森に入ってすぐに、イリスは霧の違和感に気づいていた。カルロスはそれを思い出し、顔を歪めた。
「ふむ。いいだろう。こっちへおいで」
老婆は隣室に入った。窓際にベッドがひとつだけ置いてある小さな部屋だった。
カルロスがそこにイリスを寝かせると、老婆はイリスのあごに手を遣り、顔の向きを変えたりして観察している。
カルロスは老婆に尋ねた。
「イリスは大丈夫なのか?」
「眠っているだけさ。すぐに死にゃあしないよ。――けど、眠りがちょっとばかり深いね」
老婆はそう言って部屋を出た。
カルロスは落ち着かない様子でイリスを見つめている。
「あんた、座りなよ。なにもできないんだから。おばあちゃんに任せておけば大丈夫」
そう言った少女を、カルロスは振り返った。少女は壁に背を預け、立っている。黄金の瞳で部屋の隅にある椅子に目配せした。カルロスはその椅子をイリスが眠るベッドのそばに置いて座った。イリスの手を掴んで、祈るように見つめる。イリスは瞳を閉じたまま、身動きひとつしない。
老婆が部屋に戻ってきた。手には小さなグラスを持っていて、そこには紫色の液体が入っていた。
「フィオナ、手伝いな」
少女の名はフィオナというようだ。フィオナはイリスの体を支えて起き上がらせた。老婆がグラスを傾けてイリスに飲ませる。それをカルロスは心配そうに見ていた。
「これで大丈夫なのか?」
「イリス王女は魔力に敏感なようだ。霧の魔力に当てられたのもそのせいだろう。今、飲ませたのはそれを解呪する薬だよ。あとはイリス王女次第だ。彼女に目覚める意志があれば、その内、目覚めるだろう」
老婆はそう言って部屋を出た。
「イリス、必ず目を覚ませよ」
カルロスはイリスの手を握った。
イリスは薄い茶色の瞳を開けた。そこは見慣れた自分の部屋だった。ぼんやりとしたまま視線を動かすと、そこには父と母がいて、優しく微笑んでいた。
「おはよう、イリス」
「よく眠れた?」
イリスは眠い目を擦りながら体を起こした。
――そうだ、今日は待ちに待った、お茶会にはじめて参加する日だ。
そこにいたのは、六歳のイリスだった。
イリスは侍女たちに囲まれ、支度をはじめた。今日のために仕立てた若葉色のドレスに袖を通す。
『イリス』
誰かの声が聞こえたような気がして、イリスは辺りを見回す。
「姫様、可愛らしい」
「よくお似合いです」
侍女たちは口々にイリスを褒め称えた。
イリスは大広間の大きな円卓に父と母と並んで座った。大広間のお茶会は、選ばれた人しか参加できないもので、どことなく緊張感が漂っている。
イリスは次第に飽き、人目を盗んでそこから抜け出した。
廊下を駆けていると、庭からにぎやかな声が聞こえ、イリスはそれに惹かれるように向きを変えた。
庭では様々な人たちが集い、お茶会を楽しんでいる。そんな和やかな雰囲気に、イリスは瞳を輝かせた。
――こんなにたくさんの人は、はじめて。
ひとりの子供がこちらを見ていた。オレンジの髪を肩の長さまで伸ばし、革のベストを着た子供。一見、性別の見分けがつかない中性的な雰囲気。
――カルロスだわ。
イリスはそう思ってすぐに首を横に傾げた。
――どうして、私は彼を知っているのだろう。
『イリス』
また誰かがイリスを呼んだ。声の主を探して、突き抜けるような青い空を見上げた。
イリスはまた少年に瞳を向けると、その少年の瞳は、草原を思わせるような綺麗な緑の瞳だった。少年が笑顔でイリスに小さな手を伸ばす。イリスがその少年の手を掴もうとした。
次の瞬間、イリスは戸惑うように手を引いた。大切なことを忘れているような気がするが、それがなにかを思い出せない。
少年は相変わらず笑みを浮かべ、イリスに手を差し伸べている。その少年のうしろによく似た少年の幻影がぼんやりと浮かんだ。背はその子よりも高く、オレンジの髪を短くした少年。
『イリス』
その幻影の少年が、イリスを呼んだ。
「カルロス!」
イリスはそう叫んだ。
その瞬間、お茶会の景色がぐにゃりと揺らいだ。目の前から色も音も消えて、気づけばイリスはひとり暗闇の中にいた。十五歳の旅の姿に戻っていた。
ぼんやりと目の前になにかが現われた。それは次第に、ひとりの少女の姿になる。六歳のイリスだった。その場に座り込んで泣いている。
「どうして誰も時が止まったことに気づかないの? どうして私をそんな目で見るの?」
イリスは息を飲む。それは、ずっと心の片隅にあった気持ちだ。
「こんな世界、だいきらい」
イリスの胸に冷たいものが落ちた。
――そうだ。あの世界に戻る意味などあるのだろうか? 冷たいあの世界に……。
イリスはゆっくりと薄い茶色の瞳を閉じた。
『イリス!』
イリスは、はっと瞳を開き、首を横に振った。
「だめよ、戻らないと。カルロスと時が止まった原因を探すんだもの。そのために、ここまできた。ここで諦めてはだめよ」
イリスは自分に言い聞かせるように言った。
六歳のイリスが立ち上がる。その顔には表情はない。
「時が止まってもいいじゃない」
「よくない!」
「どうして?」
六歳のイリスは、じっと十五歳のイリスを見つめていた。それを十五歳のイリスが戸惑うように見返す。
「……だって、時は過ぎるものだから」
『イリス、こっちだ!』
暗闇に光が差した。イリスはその光に手を伸ばし、まばゆい光が辺りを包んだ。




