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時の守人~時に翻弄された王女イリスは諦めない~  作者: 冬木ゆあ


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第7話 迷いの森①

 それから三日間、茶屋の女性が言ったように、雨は降り続いた。


 迷いの森のそばにあるイエフ村は、家がぽつぽつとあるだけの小さな村だ。収穫を終えた麦畑が寒々しく村を囲んでいる。


 イリスたちは、村唯一の宿に入ることにした。外套で雨を防いでいたとはいえ、体は冷え切っていた。明日から迷いの森へと入るその前に、一度しっかり体を休めた方がいいと判断した。

 カルロスが宿の女将とやりとりをしている間、イリスは広間の暖炉の前で体を温めていた。


 案内された部屋は、ベッドが二つあるだけの小さな部屋だった。

 カルロスは背負った荷物を置き、自分とイリスの外套を窓辺に干した。

 イリスはというと、十日ぶりのベッドに飛び込み、愛おしそうに毛布を抱えた。そんなイリスをカルロスは微笑ましげに見て、もうひとつのベッドに腰かけた。遊牧民の彼にとって、ベッドは親しみのあるものではない。ベッドを何度か軽く叩いてから床に座り直し、雨が打ちつける窓の外を眺めた。日は沈み、闇に包まれ、ひっそりとしている。


「じいさんたちは南に向かって旅をしている頃かな……」


 イリスは起き上がり、ベッドの端に座った。


「カルロスたちはずっと旅をしているの?」

「ああ。冬は南を、春は東を、夏は北を、秋は西を。一か所に留まったことはない」


 イリスは瞳を閉じてそれを想像した。


「楽しそう」


 カルロスは笑った。


「楽しいことばかりじゃないさ。ルーベンスのように遊牧民に寛大な地域ばかりじゃない。迫害のようなものを受けたこともある」

「どうして旅を続けるの? ルーベンスにいればいいのに」

「それが俺たち遊牧民の生き方だからな。――じいさんとこんなに離れて過ごすのは、はじめてだ」


 カルロスはそうぽつりと言った。イリスは首を横に傾げた。


「寂しい?」

「寂しいとは違うな。どうしているだろうかとは思うが。――ああ、そうか。これがきっと、故郷を懐かしむということなのかな」


 カルロスが少し嬉しそうに呟いた。不思議そうにしているイリスに気づいて、口元に笑みを浮かべた。


「前に出会った旅人が言っていたんだ。『故郷が懐かしい』と。俺には一生わからない言葉だと思っていた。イリス、お前も城を恋しく思うのか?」

「わからなくはないかな。けど、懐かしく思うのは、時が止まる前。今のあそこには、もう私の居場所はなかった」


 イリスはそう言って、微笑んだ。その笑みは冷めたもので、カルロスはなにも言えず、イリスをただ見つめていた。

 扉をノックする音がして、入ってきたのは宿屋の女将だった。


「失礼するよ。風呂はいかが? 温まるよ」


 イリスが薄い茶色の瞳を輝かせ、窺うようにカルロスを見た。カルロスは女将に尋ねた。


「いくら?」

「ひとり小銅貨五枚でいいよ」

「この子の分だけ頼む」


 カルロスは剣だけを持って部屋を出た。エントランスにある暖炉の前に置かれたソファーに腰かけ、腕を組んで物憂げに瞳を閉じた。

 幼い頃、イリスとはじめて出会ったときを思い出していた。

 カルロスが七歳、イリスが六歳だった。

 カルロスは仲間たちと城の庭で開かれていたお茶会に参加していた。そこに誘われるように現れたのがイリスだった。若葉色のドレスを揺らし、もの珍しそうに周りの大人たちを見上げていた。一目でルーベンス王国のイリス王女だとわかった。誰からも愛され、慈しまれている王女。ルーベンスでその王女の名を知らない者はいない。カルロスも名だけは知っていた。

 エイブラハムの一団にもイリスと同じくらいの女の子はいる。だが、カルロスとともに野原を駆け回る元気な彼女たちとは違うなにかを感じた。はじめて出会った儚げな少女から、カルロスは目を離せなかった。

 イリスは薄い茶色の瞳にカルロスを映し、ふんわりと微笑んだ。


「こんにちは」

「……こんにちは」


 カルロスは頬をほんのりと赤く染めて返した。


「人がたくさん。楽しいね」

「人が珍しいの?」

「城にも人はいるけど、こんなにたくさんは、はじめて」


 イリスの笑顔は晴れやかで、曇りなど一切ない。カルロスはイリスの手を引いた。


「こっち。美味しいものたくさんあるよ」


 イリスとカルロスはご馳走を食べ、衛兵を見かけると木陰に隠れ、二人で楽しげに笑った。

 しかし、すぐに見つかり、イリスは衛兵に抱えられるように連れて行かれた。暴れるイリスを衛兵は困ったような顔をしながらも、口元には笑みを浮かべていた。そして、周りの目も暖かかった。


 ――そう。誰からも愛されていた王女だったのに。


 カルロスは伏せていた緑の瞳を開けた。瞳に暖炉の炎が揺れる。

 あれから九年、――正確には十五年。エイブラハムが言うには、時が止まってから六年が経つというが、カルロスにはそれがわからない。だから、カルロスにとってイリスとはじめて出会ったのは、九年前だ。九年前のイリスと、今のイリスとではまるで別人だ。あんな冷たい微笑みを浮かべるような少女ではなかった。あの愛された王女は一体どこへ行ってしまったのだろうか。この六年を、彼女は一体どんな想いで過ごしていたのだろうか。

 暖炉の薪が音を立てて崩れた。


「カルロス」


 イリスの呼ぶ声に、カルロスは、はっとしたように顔を上げた。そこにいたイリスは見慣れぬ白い寝間着を着ていた。


「それ、どうしたんだ?」

「女将さんがくれた。嫁いだ娘さんのだって。さぁ、部屋に戻ろう」


 イリスはカルロスに手を差し出すと、カルロスはその手を取り、立ち上がった。


 翌日もやはり雨だった。

 イリスたちは外套で身を包み、迷いの森の入口に立っていた。迷いの森は深い霧に包まれていて、まるで人が立ち入るのを拒んでいるようだ。

 カルロスはイリスの手を掴んだ。


「行こう」


 二人が森に足を踏み入れると霧が体を包んだ。辺りの気温が下がったようで、イリスが身震いした。


「寒いか?」

「大丈夫。それよりこの霧、なにか変じゃない?」


 カルロスは辺りを見回した。


「そうか? ただの霧だ」


 白い霧の中は、数メートル先も見えなかった。まさしく迷いの森だ。不安がどんどんと強くなり、イリスはカルロスの手を強く握り返した。


「どうやって森の魔女を探すの?」

「向こうから会いにくると、じいさんは言っていたが……」


 カルロスにも少し不安の色が見えたが、他に森の魔女と会う方法は知らない。二人は不安を感じながらもそれを言葉にすることなく歩いた。


「なんだか同じ場所を歩いているような気がする……」


 カルロスがそう口にしたとき、イリスの歩みが明らかに遅くなった。イリスの手を引くカルロスが心配そうに振り返る。


「イリス、どうした?」


 返事はない。

 イリスはわずかに視線を下げ、ぼうっとした顔をしていた。


「おい、イリス。大丈夫か?」


 カルロスがイリスの薄い茶色の瞳を覗き込んだ。そこにカルロスは映っているのに、イリスに反応はない。その瞳がゆっくりと閉じ、イリスの体から力が抜けた。カルロスは倒れるイリスを支え、ゆっくりと地面に座った。その顔には焦りがあった。


「イリス? しっかりしろ、イリス!」


 イリスを揺するが、目を覚ます気配はない。カルロスは余裕をなくした顔で辺りを見回す。深い霧が立ち込めているだけで、人影は無い。


「誰かいないか!」


 カルロスは懇願するように叫んだが、返答はない。しんとした霧の森で、途方に暮れたカルロスは、腕の中のイリスを見つめた。力なくカルロスに抱かれ、瞳は固く閉じられている。カルロスは顔を歪めた。


「イリス、目を覚ませ……! ――森の魔女、助けてくれ!」

「そこに誰かいるの?」


 緊張感のない声がして、カルロスは顔を上げ、声の主を探した。

 霧の中から燃えるような赤い髪、黄金の瞳の少女が姿を現した。

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