第4話 エイブラハム
追われるようにして、イリスはカルロスとともに逃げた。カルロスはなにも言わずにイリスの手を引き、イリスはただうつむいたままカルロスについていった。
街を抜け、高原に向かっていくと、辿りついた先は、遊牧民がテントを張る場所だった。近くには羊の群れもいる。
「エイブラハムの一団だ」
カルロスはそれだけ言った。すれ違う人々は、カルロスと似た服を着ていて、イリスを不思議そうに見ていた。
「カルロス、女を引っ掛けてきたのか? 子供のくせに生意気だな」
「うるせぇよ」
イリスが見られていた意味がわかり、居心地が悪そうにイリスは身を縮めた。
ひと際大きなテントの前についた。
「じいさん、帰っているか?」
そう言いながら、カルロスはテントを潜った。
薄暗いテントの中は、閑散としている。革の敷物の上に老人が座っていた。
カルロスの祖父、エイブラハムだ。
エイブラハムはしわがれた声で言った。
「カルロスか。遅かったな」
「イリス王女を連れてきた」
イリスは、はっとした顔でカルロスを見上げた。カルロスは入るように目で促す。イリスは無言でそれに従い、エイブラハムの前に座った。
エイブラハムは白くなった瞳をイリスに向けた。その瞳になにも映ることがないのは、すぐにわかった。だが、エイブラハムはまっすぐにイリスに顔を向けている。
「おお……、イリス王女殿下」
白い瞳から涙を流し、エイブラハムはイリスに手を伸ばした。深い皺が入り、皮膚の固い老人の手。イリスはその手を取った。
「わしはエイブラハム。この遊牧民を束ねる長をしております。ずっとあなたにお会いしたかった」
そう言って頭を下げた。
イリスはうしろに立つカルロスを振り返った。しかし、カルロスはあごでエイブラハムの方を向けと促すだけだ。イリスは戸惑いながらもエイブラハムに視線を戻す。
エイブラハムはイリスに尋ねた。
「お顔に触れてもよろしいでしょうか?」
「……はい」
エイブラハムはそっとイリスの顔を撫でた。
「目は大きく、あごは少し小さいか。綺麗な顔立ちをしていらっしゃる。お声は優しく知性を感じる。透き通った強い魔力をお持ちのようだ」
その一言にイリスは驚いた。魔術に関することは、禁忌とされている。言葉を失っているイリスにエイブラハムはさらに尋ねた。
「イリス王女は、十五歳でしたか?」
イリスはうなずく。
「うなずいてもじいさんにはわからない。言葉にしてやってくれ。じいさんは目が見えない代わりに、人には見えないものがよく見える」
カルロスの言わんとしたことがなんなのかイリスにもわかった。ずっと封印していた言葉を、そっと口にした。
「……時が止まったことに気づいていますか?」
「はい。六年前のこの日に、時が止まりました」
イリスはエイブラハムの手を取って額に当てた。涙があふれ、嗚咽がこぼれる。心から求めてやまなかったものを、やっと手にした。
エイブラハムはイリスの背に手を回し、あやすように撫でた。
「お辛かったでしょう。イリス王女殿下が『時が止まった』とおっしゃっていることを、わしが知った頃には、あなたは城の奥深くにしまわれてしまっていた。あなたが城から出てきてくれるのを、我々は待っていたのです」
イリスは不思議そうに涙にぬれた顔を上げた。
「我々?」
「わしとカルロスです」
イリスはカルロスを振り返った。
「私がイリスだと知っていたなら、なぜそう言わなかったの?」
カルロスは肩をすくめた。
「お前が『時が止まった』と言わなくなって、随分経っていた。諦めているのなら必要ない。だが、お前は言った。『私はそうは思わない』と。だから、じいさんに会わせることにした」
カルロスの物言いにエイブラハムは顔をしかめた。
「礼儀を弁えない孫で申し訳ない。ご容赦いただきたい。――わしはあなたが希望の光ではないかと思っております。恐らく、この異変に気づいているのは、この広い世界でもほんの一握りでしょう。そして、あなたには強い力がある」
「魔力のことですか?」
イリスの問いに、エイブラハムはうなずいた。
「わしは遊牧民として世界を旅しておりますが、あなたほど澄んだ綺麗な魔力は見たことがない」
「光の弓を使うんだよな。綺麗だったぜ」
イリスが勢いよくカルロスを振り返った。狼に襲われたとき、光の弓矢を見られなかったとばかり思っていたのに、カルロスはイリスのことを全て知っているかのように話す。それが少し癪だった。
「なに? ……ああ。ダニエラとコニーは気づいてないから大丈夫」
カルロスが見当違いな答えを返すと、イリスは不機嫌そうに視線を逸らした。
「なんだよ……」
カルロスは首を横に傾げ、オレンジの髪をかいた。
エイブラハムはイリスの両手を掴みながら尋ねた。
「イリス王女、あなたはこの世界にかかった呪いを解きたいと思いますか?」
「はい」
「どうして?」
エイブラハムに問われ、イリスはすぐに答えられなかった。
時が止まったことを誰も信じてはくれなかった。そして、自分がおかしいかのように扱われた。それが悔しくて、自分は間違っていないと誰かに言ってほしかった。だから、時が止まった原因を探そうと思った。
けれど、カルロスが言ったように、まだこの世界の『不都合』にはなっていない。時が戻ったら、人は歳をとり、いずれ死ぬ。それを『不都合』と呼ぶ者はいるかもしれない。
それでも、イリスの心は『このままではいけない』と叫んでいる。
「……時を取り戻したい明確な理由は、まだわかりません。カルロスは『不都合はない』と言った。けれど、これから先も、ずっとそうだとは限らない。それに、どうして時が止まったのか、理由を知りたい」
イリスはゆっくりと言った。エイブラハムはうなずいた。
「ここから北西にある迷いの森に住む魔女、彼女を尋ねてみるとよろしいでしょう。なにか知っているかもしれません」
迷いの森とは年中深い霧が立ち込め、足を踏み入れた者を惑わす森だ。そこには魔女が住んでいるという伝説がある。
「森の魔女に会ったのですか?」
「ええ。わしがまだ少年だったときに一度だけ。少し変わった方ですが、なにか教えてくれるかもしれません。わしも一緒に行ければいいが、盲目の老人を連れていては、足手まといになる。代わりにカルロスを連れていくといい。歳は若いが、少しは役に立つでしょう」
「ああ、いいぜ」
イリスはカルロスを振り返ると、笑みを浮かべていた。




