第31話 旅の終わり②
イリスたちは六日かけて死の谷へと戻ってきた。
馬車の馬は途中で放し、馬はダフネの方角へと帰っていった。そして、イリスたちはやはり死の谷の前で途方に暮れるのだった。
カルロスが呆然と死の谷を見つめている。
「大事なことを忘れていた……」
死の谷を渡ったときに吊り橋は落ちていた。今や死の谷を渡る方法はない。
フィオナは頭のうしろで手を組んで言った。
「ぽろっと忘れていたね」
フィオナ自身は空を飛べるので、そこまで緊急事態だと思っていないようだ。ホセも緊張感の薄い声で言った。
「どうしたもんかなぁ」
フィオナはホセに視線を向けた。
「ねぇ、賢者でしょう? なにかいい案ないの?」
「そう言われても、こうも見事になにもないとなぁ」
ホセは辺りを見回す。荒れ地にあるのは、渇いた土地と石ばかりだ。橋の代わりになりそうなものなどなにもない。ホセはイリスに目を止めた。イリスのポケットから白い光が漏れている。
「イリスちゃん、なにか光っているよ」
イリスはホセの言葉に驚き、ポケットに手を入れた。そこから出てきたのは、金の懐中時計だった。イリスはそれを両手で包むようにして持つと、次第に光は強くなり、イリスは眩しさに瞳を細めた。
フィオナが死の谷を指差した。
「ねぇ、見て!」
吊り橋の残骸が谷底から次々に浮かび上がり、しばらくすると吊り橋は、なにもなかったかのようにそこにあった。そして、イリスの手の中にあった金の懐中時計は光に溶けるようにして消えてしまった。
フィオナはイリスの手を見てから、イリスの顔を見た。信じられない現象を前にして興味津々の様子だ。
「イリスがなにかしたの?」
イリスは困惑したように首を横に振る。ホセはつり橋に視線を向け、微笑んだ。
「もしかしたら、時が助けてくれたお礼をしてくれたのかもな」
イリスはホセの言う通りだという気がした。光が消えていった空を見上げる。それは透き通るような青い冬晴れの空だった。
「ありがとう」
イリスは微笑んだ。
吊り橋を渡るカルロスは、やはりへっぴり腰だ。風が吹いて吊り橋が揺れる度、縄にしがみついては情けない声を出している。
フィオナはほうきに乗り、カルロスのそばをふよふよと飛んでいる。
「まだ高いところが苦手なの? 塔の見えない橋よりかは、全然怖くないでしょう?」
カルロスはフィオナを見上げた。
「お前もこの吊り橋を渡ってみればわかるさ」
カルロスは若干涙目だ。足元に見えない床があり底が見えるのと、風でゆらゆら揺れる吊り橋とでは恐怖の質が違う。カルロスにとってはどちらも慣れるものではなかった。
フィオナはそんなカルロスを見下ろしてにこっと笑った。
「やぁだよ」
フィオナはそう言って、先を行くイリスたちの方へと飛んでいった。
アルド王国へと戻ってきたイリスたちは、気ままに街道を進んでいく。
この頃には十二月に入り、北部には雪が積もりはじめていた。
アルド王国の首都カレルに着いたイリスたちは、以前、ユアンに案内された宿屋へ行くことにした。ユアンとの連絡のとり方がわからなかったからだ。城へ行き『イリス・ルーベンス』だと名乗るわけにもいかない。ただの子供が尋ねていったところで、ユアンに取り次いでもらえるはずもない。
唯一の糸口として、宿屋に賭けてみることにした。
カルロスはカウンターにいる女将さんに声をかけた。
「ひと月くらい前に、ここに来たことがあるんだが……」
こちらからユアンの名を出し、怪しまれては元も子もないので、言葉を濁した。
女将さんはカルロスのオレンジの髪と、カルロスのうしろに立っているフィオナの赤髪を見た。
「覚えておりますよ。あの方にご面会ですか?」
あの方というのは、ユアンのことだろう。イリスがうなずくと、女将さんは微笑んだ。
「あの方から、あなた方が尋ねていらしたら連絡をするようにと託っておりました。お部屋へご案内します」
丁重にもてなされたイリスたちは、以前、案内されたあの部屋へ通された。ホセは立派な部屋に唖然とし、辺りをきょろきょろと見回す。
「親方の宿なんかより、何倍も立派だなぁ」
「なんせ王子様御用達の宿屋だからね」
フィオナは自慢げに言い、ソファーに凭れるように座った。
イリスもフィオナの横に座り、カルロスとホセは、ソファーの後ろにダイニングの椅子を持ってきて座った。
それから一時間も経たずに、部屋のドアがノックされた。入ってきたのは見慣れぬひとりの紳士だった。歳は五十を超えているだろう。背筋はピンと伸び、細い瞳には強い力があった。
イリスは立ち上がり、スカートの裾をわずかに持ち上げて礼をする。それは気品溢れるものだった。
「フレディ様、ユアン王子はご一緒ではありませんか?」
フレディは胸に手を当て、イリスに礼を返した。
「イリス王女殿下。ご無事でなによりです。ユアン王子殿下はもうしばらくしたら参られます。先にわたしがイリス王女殿下にご挨拶を申し上げるようにと託りました」
そう言うのは建前で、イリスが本物かどうか確かめに来たのだろう。
「どうぞ、フレディ様もお座りください」
イリスは向かいにある席を示したが、フレディはやんわりと断った。
カルロスは首を横に傾げる。
「フレディ……」
どこかで聞いたことがある名だ。たしかユアンとともにいた老兵がフレディという名だったと思い出し、カルロスはイリスの背後から小声で尋ねた。
「このじいさんもフレディという名前なのか? ユアン王子と一緒にいたあの兵士も同じ名前だったよな?」
イリスは一瞬きょとんとしたあと、くすくすと笑った。
「あの兵士と同じ人よ」
カルロスは大きく目を開いて、控えているフレディを見た。あの老兵はそっとユアンのそばに控え、存在感も薄く、覇気など感じなかった。今、目の前にいるフレディとは正反対の印象だ。同一人物だという考えは浮かばなかった。
フレディは柔らかく微笑んだ。
「先日はご挨拶もせずに申し訳ありません。ユアン王子殿下に仕えておりますフレディと申します」
「ああ、いや。俺は遊牧民のカルロスです」
フレディの丁寧な挨拶に、カルロスは慌てて頭を下げた。そんなカルロスにフレディは笑みを深めた。
「あなたには、先日のわたしと、今のわたしが別人に見えましたか。それは嬉しいことです」
カルロスは顔を上げて不可解そうにフレディを見た。
「先日は、兵士に紛れ、ユアン王子殿下のおそばにいるのが目的でした」
イリスはカルロスに言った。
「フレディ様は変装の名人なの。先日は、私も声をかけていただくまで気づきませんでした」
「そうでしたか」
フレディは満足そうにうなずいた。




