第29話 荒野の魔女③
イリスは藤紫の瞳を見つめ、うなずいた。
「……いいわ」
「おい、大丈夫なのか?」
カルロスは眉を顰め、尋ねた。イリスは振り返り、うなずいたその顔に迷いはない。カルロスは口をつぐみ、イリスを信じることにした。
イリスは風の魔女に向き直った。
「私はこの旅をはじめたとき、自分は正しいのだと証明したかった。誰も私のことを信じてくれなかったから」
イリスは瞳を閉じた。カルロスと旅をはじめてから、たくさんの人に出会った。ときには悪意もあったが、好意もたくさんもらった。たくさんのものを見た。たくさんのことを聞いた。そして、たくさんのことを聞かれ、その度にたくさん考えた。
「風の魔女の言葉を聞いて、やっとわかった。たしかに、魔女に比べたら、人の命は短いのかもしれない。あなたから見たら、それはかわいそうなのかもしれない」
イリスは薄い茶色の瞳をゆっくりと開いた。
「いずれ老いて死んでいく。けれど、その度に人は命の尊さを知る。そして、新しい命には、輝く未来を見る。時を止めるということは、そのすべてを奪ってしまうことなんだ」
風の魔女の腕で眠っていた黒猫が顔を上げ、赤と青のオッドアイをイリスに向けた。イリスは両手を広げた。
「おいで。一緒に生きていこう」
黒猫は風の魔女の腕から飛び降り、イリスの胸に飛び込んだ。それと同時に、足元から風が吹き上げた。イリスはたまらず目を固く瞑った。
次第に風が止み、瞳をゆっくりと開くと、そこは真っ暗な空間だった。風の魔女の姿だけでなく、カルロス、フィオナ、ホセの姿もそこにはない。イリスだけがそこにいた。
辺りには歪んだ時計の文字盤が、いくつも浮かんでいる。イリスの腕の中にいる黒猫が胸元にすり寄った。イリスは黒猫に頬を寄せる。
「おかえり」
イリスの頬に涙がこぼれた。
「どうやら、あなたの勝ちのようね。さようなら、イリス。またどこかで会いましょう」
どこからか風の魔女の声がして、鈴を転がすような笑い声が、次第に小さくなって消えた。
気づけば、イリスは荒野の真ん中に立っていた。そばにはカルロス、フィオナ、ホセの姿もある。カルロスは空を見上げ、フィオナは遠くを見つめ、ホセは地面を確かめるように何度も地面を踏んでいる。
イリスが胸に抱いていた黒猫は、もういない。代わりにイリスの手の中にあるのは、黒猫がつけていた赤いリボンがついた古い懐中時計だった。金色で、繊細な細工が施されている。イリスがその懐中時計のふたを開けると、きちんと時が刻まれていた。
イリスは瞳を閉じ、大きく空気を吸った。止まっていた時が動き出している。それをたしかに感じた。
カルロスがイリスのそばに寄った。
「イリス?」
イリスは涙を流しながら微笑んだ。
「時が動き出したよ」
イリスの言葉を聞いて、カルロスは緑の瞳を閉じた。冷たい風が頬を撫でるだけで何も感じない。だが、イリスが言うのだ。カルロスにはそれで十分だった。緑の瞳を細めて微笑んだ。
ホセは辺りを見回した。
「風の魔女と塔は、どこへ行ったんだ?」
イリスたちの馬車はそばにある。ここは間違いなく塔があった場所だ。ぽっかりと空いた大穴も塔もどこにも見当たらない。
「イリスが時を止める魔法を解いたから、きっと別の場所へ行ったんだよ。風の魔女は、自由な魔女だから」
「イリスはどうやって魔法を解いたんだ?」
カルロスはそう尋ねた。ずっとそばで見ていたが、イリスはただ黒猫を呼んだだけのように見えた。そして、突然、目の前が暗くなったかと思えば、次の瞬間には、荒野に立っていた。
「あの黒猫が『時』だったのだと思う。風の魔女は、この懐中時計に人の時を閉じ込めていたのよ」
フィオナは感心したようにイリスを見た。
「よくそこまで見抜けたね。いつから気づいていたの?」
「黒猫を見たときに、懐かしい気がした。間違いないと確信したのは、黒猫の瞳を見たとき」
「さすがは時の守人、イリスちゃんだな」
ホセは頭のうしろで腕を組み、満面の笑みを浮かべた。
カルロスは荒野を振り返る。
「さて、と。ルーベンスへ帰るか」
イリスは微笑み、うなずいた。
その日は、日が暮れる前にテントを張った。
夜空に星が散らばる頃には、狭いテントに身を寄せ合い、毛布に包まって横になった。
フィオナはテントの天井を見上げ、ぽつりと言った。
「あたしたちの旅は終わったんだね」
「あんまり実感ないけどなぁ」
ホセも頭の下で手を組み、テントの天井を眺めている。カルロスも同じように天井に視線を向けていた。
「風の魔女は、また時を止めようとするんだろうか……」
「どうだろうね。でも、すぐには無理だよ」
フィオナはそう答えた。
「どうして?」
イリスは寝返りを打ち、フィオナの方を向いた。フィオナはイリスに顔を向ける。
「時を操るには、膨大な魔力がいるんだよ。それにたくさんの条件が必要なんだ」
「条件?」
「そう。詳しいことは、あたしもわからないけど、おばあちゃんなら知っているかも。戻ったら、聞いてみるよ」
イリスはうなずいた。そして、風の魔女のことを思い出していた。愛する人たちと一緒にいたい。そのためだけに、人の時を止めた風の魔女。今はどこにいるかもわからない風の魔女に、想いを馳せた。
フィオナはイリスの腕を指でつついた。
「風の魔女のことを気にしている?」
イリスは小さく微笑んだ。
「ちょっとだけ。これでよかったのかなって……」
それにホセが言った。
「イリスちゃんが気にすることじゃねぇよ。風の魔女には、風の魔女の考えがあって、イリスちゃんには、イリスちゃんの考えがあった。そして、時が選んだのは、そんなイリスちゃんだった。それに、いくら事情があったからといって、人類全ての未来を奪う権利なんてないだろう? オレもイリスちゃんの信念を支持するぜ!」
「へぇ。ホセ、いいこと言うじゃん」
フィオナが感心したように言うと、ホセは笑った。
「まぁ、オレは賢者だからな」
「ああ、風の魔女が言っていたことか。まぁ、ホセの機転で切り抜けられたときもあったしな……」
「ダフネではホセがいなきゃ助からなかったかもしれないし。でも、なんでだろう……」
カルロスとフィオナがちらりとお互いの顔を見た。
「認めたくない」
「信じたくないよな」
ほぼ同時に言ったフィオナとカルロスは、思わず声を上げて笑った。ホセは勢いよく起き上がった。
「なんでだよ!」
イリスはくすくすとおかしそうに笑っていた。




