第28話 荒野の魔女②
光に目が慣れてくると、 まず目に入ったのは円を描いている壁に、沿うように置かれた大きな棚。そこにはたくさんの本、色とりどりの薬の瓶、デザインの違う時計が並べられていた。
時計は、ひとつは正確に時を刻み、ひとつは逆方向に回り、ひとつは長針が進んでは戻り、ひとつは早い速さで長針が進んでいる。どれひとつとして同じ動きをしていない不思議な時計ばかりだ。
イリスの足元には四段の階段があり、そこを降りた先には、赤い絨毯が敷かれ、ひとつの揺り椅子が置かれていた。そこには葡萄色のワンピースを纏った女性が座り、藤紫の長髪をゆったりと流し、瞳は髪と同じ色をしている。その女性の膝には、黒猫が丸くなって眠っていて、鈴のついた赤いリボンが首に巻かれている。
女性は階段の上にいるイリスを見上げた。
「いらっしゃい。イリス・ルーベンス。時の守人さん」
イリスはゆっくりと階段を下り、女性から距離をとって立った。背後にはカルロスとフィオナ、ホセがいる。カルロスは剣のグリップに手を添え、フィオナは樫の杖を掴む手に力を込めた。ホセは部屋の中を把握するかのように茶色の瞳で鋭く見ていた。
イリスは女性に真っすぐ視線を向けた。
「あなたが荒野の魔女?」
「ええ。今はそう呼ばれているわね。わたしは風の魔女。好きなときに、好きな場所へ行けるのよ。そのときどきで、呼び名は変わるわ」
風の魔女と名乗った女性は、膝にいる黒猫の背を撫でた。イリスは尋ねた。
「私はダフネでも『時の守人』と呼ばれた。あなたに害をなすと。時の守人とはなに?」
「時の守人は、時の妖精に選ばれた人間のことよ。あと一度、秋を迎えれば、完全に人の時を止められたのに……」
風の魔女は残念そうにため息をついた。イリスは薄い茶色の瞳に戸惑いを浮かべた。
「どうして人の時を止めたの?」
「老いたくない。死にたくない。時が止まればいいのに。それが人の願いでしょう? わたしはそれを叶えてあげた。人の寿命は、短くてかわいそう。人の時が止まれば、わたしたち魔女とだって一緒に生きられる。わたしは人と一緒に生きたいの」
「そうか。人が好きなんだね。あたしも風の魔女の気持ちが、今なら少しだけわかるよ」
フィオナはそう言いながら、イリスの隣に立ち、黄金の瞳をイリスに向けた。
「あたしはイリスやカルロスやホセのことが好きだ。これからも一緒にいたいと思う。だけど、一緒にいられるのは、ほんの一瞬だけ。時の流れが違うことを、いずれ痛感するときがくる」
フィオナの瞳はどこか寂しそうで、イリスはそっとフィオナの手を握った。フィオナは微笑んだ。
「魔女は人間の男との間に子供を生す。時々、その人間の男を本気で愛してしまう魔女がいる。あたしの母さんがそうだった。風の魔女も母さんのように人間を愛してしまったんだろう?」
フィオナは黄金の瞳を悲しそうに細めた。
風の魔女は藤紫の瞳を閉じ、しばらくしてやっと口を開いた。
「最初は子供を産むためだけだった。けれど、あの人は優しく、暖かくて、気づいたら、ずっとそばにいたいと思うようになっていた。それが禁忌だと知っていても、この想いだけは、止められなかった」
フィオナはうなずき、尋ねた。
「子供は?」
「……人だったわ」
風の魔女がそう答えると、フィオナは瞳を伏せた。
「魔女の子供も魔女とは限らない。人間が生まれることがあるんだ」
イリスは風の魔女を見つめた。愛した人も産んだ子供も人間。自分だけが生きる時の流れが違う。
――それはどんなに辛いことなのだろう。
風の魔女はふっと笑った。
「イリスは時が止まった理由を知ろうと、周りの大人に尋ね、次第にイリスが『時が止まった』と言っていることが広まりはじめた。わたしは恐れたわ。だから、わたしは噂を流したの。イリス・ルーベンスはいかれた姫だと」
イリスの体がびくりと震えた。
三度目の秋を過ぎた頃から、人々の間で『ルーベンスの姫はいかれてしまった』と囁かれはじめた。それは瞬く間に広がり、この噂を知らぬ者はいなくなった。イリスが孤立するきっかけになった噂だ。それを流したのが、風の魔女だった。
カルロスが顔を顰め、剣のグリップを力強く握った。
「その噂を流したせいで、イリスがどれだけ傷つき、苦しんだのか、わかっているのか!」
風の魔女の藤紫の瞳が流れるようにカルロスを見た。その瞳には、もう感情はない。
「時が止まったことを知る者と、イリスを会わせるわけにはいかなかった。人は人と違う者に敏感だわ。噂を流したらすぐに広まった。そして、国王と王妃には『イリスを後継ぎにするわけにはいかないと、暗殺を企てている者がいる』という噂を聞かせ、イリスを城の奥へと追いやることに成功した。これで時が止まったと知る者とイリスが出会う可能性はなくなったと思っていた。けれど、イリス、あなたは諦めなかった。魔法を身につけ、【導き手】であるカルロスと出会った。そして、あなたは『時が止まった』という確信を得てしまった」
風の魔女は黒猫を見つめ、ゆっくりと背を撫で続けている。
「そして【守護者】である森の魔女フィオナと出会い、【賢者】である孤児のホセと出会った。そして、とうとうここまで辿りついてしまった。あなたには人を惹きつける力がある。時の妖精が、あなたを選んだ理由が、今ならよくわかるわ。――イリス、最後にわたしと賭けをしましょう」
風の魔女が黒猫を抱き、葡萄色のワンピースを揺らしながら立ち上がった。イリスと向き合い、微笑んだ。
「時を取り戻せたら、あなたの勝ち。もし取り戻すことができなければ、わたしの勝ち。もしわたしが勝ったら、あなたたちはこの件から手を引いてちょうだい。どうかしら?」




