第33話 晩餐会は牛丼で
王太子の寝室には、死の静寂が満ちていた。
エルゼが捧げ持つ銀の杯。その中にある「無垢な聖水」が、王太子の唇に触れようとした、その瞬間――。
ドガシャァァァァン!!
寝室の隠し扉(かつての脱出用通路)が、内側から凄まじい力で蹴破られた。
埃と共に現れたのは、煤で顔を汚しながらも不敵に笑う十歳ほどの少年と、なぜか袖を捲り上げ、片手に大きな「お盆」を捧げ持った老公爵ゼノスだった。
「……お待たせ、王太子様! おかわり、持ってきたよ!」
「なっ……!? ゼノス卿、貴公……正気ですか! 穢らわしい、その不浄な器を遠ざけなさい!」
エルゼが悲鳴のような声を上げるが、ゼノスは鼻で笑った。
「……ふん。不浄かどうかは、この私の『鼻』が決める。……殿下、これこそが真の『浄化』にございますぞ」
ゼノスが恭しくお盆を差し出す。そこには、湯気を上げた二つの器が並んでいた。
一つは、牛肉と玉ねぎが乗り、甘辛い醤油の香りがこれでもかと主張する**『特製牛丼』。しかもつゆだく。
そしてもう一つは、今回忍が隠し持っていた「味噌」を解き放った、『じゃがいもの味噌汁』**だ。
「……あ……。……この、香り……」
王太子の指が、ピクリと動いた。
エルゼの聖水では決して呼び覚ませなかった、原始的な「飢え」という名の生命力が、彼の胃袋を直撃する。
「……殿下、まずはこの汁を。地の滋味が、お主の干からびた魂を潤すはずじゃ」
ゼノスに促され、王太子は震える手で味噌汁の椀を取った。
ズズッ……と一口。
「…………っ!!」
王太子の瞳に、バチッと火花が散った。
柔らかいじゃがいもの口当たり、濃厚な出汁と、大豆の旨味が凝縮された味噌のコク。それが喉を通った瞬間、彼の体温が急速に上昇を始める。
「……美味い。……塩気が、……五臓六腑に染み渡る…………ッ!」
「次はこれだよ、王太子様! 牛丼、ガッツリいっちゃって!」
忍が差し出した牛丼を、王太子はむさぼるように口に運んだ。
シャキッ、ジュワッ。醤油の香ばしさが口いっぱいに広がり、白米の甘みがそれを追いかける。
「……あぁ……っ! ……生きてる……、私は、……腹が減っているんだ!!」
王太子が叫んだ瞬間、彼の周囲に漂っていたエルゼの「無色の結界」が、醤油と味噌の香りに押し潰されるように霧散した。
王太子の頬に赤みが差し、枯れ木のようだった腕に力が漲る。
「……馬鹿な。……私の神聖力が……、食べ物の匂いごときに……負けるなんて……っ!」
エルゼは腰を抜かし、床にへたり込んだ。
(……また“味”に奪われる……! 私の世界が……!)
彼女が必死に保っていた「清浄な世界」は、忍が作り出した「生命の味」によって完膚なきまでに破壊されたのだ。
「……ひゃひゃひゃ! 見たか、エルゼ。……お主の『聖水』はただの渇き。……忍の『醤油』は、明日を生きるための光じゃわい!」
影で見守っていたクリスティナが、快哉を叫ぶ。
だが、安堵したのも束の間。王宮の外から、空気を引き裂くような爆音が響いた。
ドォォォォォォォン!!
「忍を……返せぇぇぇぇッ!!」
「忍に指一本でも触れた奴は、細切れにしてやるッ!!」
王都の守護結界を物理でぶち破り、王宮の壁を突き破って、二人の「守護者」が帰還した。
黒いオーラを纏ったアレックスと、紅蓮の魔力を噴き上げるレオナード。彼らは周囲の騎士たちをなぎ倒し、一直線に寝室へと突っ込んでくる。
「……忍……無事で……よかった……」
「忍…おまえ…」
忍の姿に安堵した二人だが、すぐに臨戦態勢へと戻った。
「……あ。……アレックス、さん……」
極限まで魔力を使い、牛丼を完成させた忍。
二人の顔を見た安心感からか、ぷしゅぅぅ……と、再び体が縮み始める。
「あう……。……おなかすいた……」
五歳児を通り越し、ついには三歳児ほどまで縮んでしまった忍。
その小さく、愛らしい「醤油の救世主」の姿を見た瞬間、王宮にいた最強の男たちの理性が、別のベクトルで崩壊した。




