第32話 秘密の厨房と、小さすぎる料理人
連行された先は、地下牢……ではなく、王宮の古い「隠し厨房」だった。かつて王族が毒殺を恐れて密かに調理を行っていた場所だ。
「……ふぅ。……おい、小僧。いつまでその情けない姿でいるつもりだ。貴様がいなくなれば、あの『肉じゃが』や『アイス』を誰が作るというのだ」
ゼノスは忍を調理台の上に座らせ、腕組みをして鼻を鳴らした。
「……おなかすいた……。でも、ちからが……でないの」
忍がふにゃりと笑う。その無垢な瞳に、ゼノスは一瞬だけ毒気を抜かれたが、すぐに厳しい顔を取り繕った。
「ええい、仕方のないやつだ! ……ほら、私の魔力を吸え。ただし、吸った分はしっかりと『味』で返せよ。……いいか、これはあくまで、不浄を監視し続けるための先行投資だ!」
ゼノスが差し出した指を、忍がぎゅっと握りしめる。
老公爵の強大な魔力が忍の中に流れ込むと、忍の体から淡い光が溢れた。
「……ぷはぁ! じいちゃんの魔力、なんか……キンキンに冷えた水みたいで美味しい!」
少しだけ背が伸び、十歳前後の姿まで戻った忍が、調理台から飛び降りた。
「……まだ手が震える。でも、作れる……!」
「ほれ、お前が作った『不浄の素』だ」
ゼノスが醤油と味噌を忍に見せた。
(そうだよ、頑張るっていったじゃん)
「よし、やるよ、じいちゃん! 王太子様を助けるには、今日が最後のチャンスだ。……ねえ、そこにあるお肉、薄切りにしてくれる?」
「……何? 私に調理を手伝えというのか? 北の老公爵ともあろうこの私に……」
「だって、俺、まだ手が届かないんだもん。お願い、じいちゃん!」
忍に潤んだ瞳で見つめられ、ゼノスは「……不浄の蔓延を防ぐためだ」とぶつぶつ呟きながら、高価な杖を置き、慣れない手つきで肉を薄切りにしていく。
トン、トン、トン……と、地下の厨房に小気味よい音が響く。
忍は踏み台に乗り、玉ねぎを用意する。
「この玉ねぎも切ってね」
「な、なに?」
「だめ?」
「ぐっ、薄くでいいのか?」
「うん。お肉と玉ねぎと……。まずは、玉ねぎを出汁で煮て…お酒ある?」
「ワインならあるが?」
「……ないよりは…まし…?」
砂糖、特性醤油、牛肉もどきと次々に鍋に入れる。
「……ふん。ワインで煮るだと? なんの冗談だ」
ゼノスは毒づきながらも、忍が調合した「出汁」の香りが立ち上ると、無意識に鼻をひくつかせた。醤油の香ばしさと、鰹の深い香りが、湿った地下の空気を一変させていく。
一方、王太子の寝室では、エルゼが「仕上げ」に入っていた。
「……さあ、殿下。この聖水を。これで、あなたの魂を縛る『味』という不純物は、永遠に消え去るでしょう……」
エルゼが差し出す杯。王太子は抵抗する気力もなく、虚ろな目でそれを受け取ろうとする。
だがその時、寝室の床下から、そして通気口から、あり得ないはずの『匂い』が染み出してきた。
――ふわり
煮込まれた、猛烈に食欲をそそる匂い。
そして、醤油と砂糖が熱せられ、出汁と溶け合う「あの」黄金の香り。
「……胸が……熱い……。これ……生きてる匂いだ……」
「……な、何です、この……この、穢らわしい匂いは……っ!?」
(……また“味”に奪われる……! 私の世界が……!)
エルゼが狼狽し、窓を開け放つ。だが、匂いは建物の隙間から、まるで生き物のように王太子の鼻腔へと滑り込んでいった。
「……あ……。……この、匂い……。……腹が、減った…………」
王太子の指が、ピクリと動く。
地下の厨房では、忍が揚げたてのカツをザクザクと切り、黄金色の卵でとじようとしていた。
「じいちゃん、準備して! ……これから、王都で一番『熱い』晩餐会を始めるよ!」




