第30話 アイスの虜と剥がれゆく仮面
静まり返った王太子の寝室に、スプーンが器に当たるカチャカチャという音だけが虚しく響いていた。
王都の民が神のごとく崇める聖女エルゼが、あろうことか「不浄の少年」が作ったアイスクリームを、我を忘れて貪っている。
「……はぁ、はぁ……。なんて、なんてこと……。この、舌に絡みつくような甘みと、鼻を抜ける香ばしさは、一体……っ」
エルゼの頬は赤らみ、瞳は潤んでいる。
慈愛に満ちていたはずの顔は、今や「甘味」という快楽に溺れた一人の少女のそれだった。
「エルゼ……。毒味はどうしたのだ。まさか、本当に毒など入っていなかったのか?」
国王の困惑した問いに、エルゼはハッと我に返った。
口元には白いアイスの跡、そして手元には空っぽの器。
「……あ、あぁ……。これは……、そうです! この少年は、食べ物に『依存の魔術』をかけているのです! 私ですら、これほど抗いがたい……っ、これは極めて危険な……!」
「……まだ言うか、この女」
アレックスの冷徹な声が、エルゼの言葉を叩き斬った。
彼は忍の肩を抱き寄せ、冷ややかな視線でエルゼを見下ろす。
「依存しているのは、貴様の貧相な味覚だろう。忍の料理には魔術など一切含まれていない。……あるのは、食材への敬意と、最高の調味料だけだ」
「……そうです。父上、アレックス卿の言う通りです」
ベッドの上で体を起こした王太子が、力強い声で割って入った。
彼の目からは「聖水」による虚ろな光が消え、人間らしい意志の光が宿っている。
「エルゼ様の聖水は、確かに痛みを消してくれました。……ですが、それは『生きる意味』まで消し去るものでした。忍殿の料理を食べた今、私は……数ヶ月ぶりに、明日が来るのが楽しみだと感じているのです」
「殿下……っ!」
国王の目から涙が溢れる。
「……陛下! これこそが少年の罠なのです! 感情を昂らせ、王族を操ろうと……!」
エルゼが必死に叫ぶが、その声はもはや誰の心にも届かなかった。
彼女の衣服からは、かつてのような「清廉な香り」はせず、忍が持ち込んだ「醤油とキャラメルの甘い匂い」がプンプンと漂っているのだから。
その日の夜。忍たちは王宮の一室に「賓客」として軟禁されることになった。
形式上は調査のためだが、実際は王太子が「忍の料理をもっと食べたい」と熱望したためだ。
一方、大聖堂の地下深く。
恥をかかされたエルゼの前に、黒い法衣を纏った聖公会の高官たちが集まっていた。
「……エルゼよ。失態だな。『味』という不純物に、民衆の心が奪われ始めている」
「……申し訳ございません。ですが、あの少年の醤油……あれは、魔法ではありません。あれは……『文化』という名の、もっと恐ろしい毒です……」
(……舌がまだ……甘い……)
エルゼは、まだ舌に残る醤油の余韻に震えながら言った。
「……よかろう。もはや『不浄』という言葉だけでは、あの少年を排除できぬ。……聖公会の禁忌、第一級異端指定を行う。……あの少年の『醤油』を、この国の歴史から完全に抹消せよ」
第一級異端――それは、魔王級の脅威にのみ下される、国家最高位の死刑宣告だった。
聖公会は、忍を「毒殺犯」としてではなく、王国の信仰を根底から破壊する「異端の魔術師」として、火刑に処す準備を始めた。
「……うーん。アイス、あんなに喜んでくれるとは思わなかったな」
部屋の外には常に二人の近衛が立ち、自由はほとんどなかった。
王宮の豪華な部屋で、忍は窓の外を見つめていた。
隣では、アレックスが剣の手入れをしながら、忍を片時も離さないという無言の圧力を放っている。
(……忍を奪う者は、誰であろうと斬る)
「忍、明日は何を作るつもりだ? ……王都の連中は、君を奪おうと必死だ。……君は、私のそばにいろ。それだけでいい」
「……アレックスさん。俺、わかったんだ。……あの聖女や聖公会の連中を黙らせるには、小細工じゃダメだ。……王都中の人の鼻を、強制的にこっちに向けさせるような、最強の『飯テロ』を仕掛けるしかない」
(……怖い。でも、逃げたくない)
忍の瞳に、料理人としての闘志が宿る。
「……やるよ、アレックスさん。……王都まるごと、醤油の香りで『浄化』してやる」




