第26話 無色の聖女と、鉄の召喚状
コンウォール侯爵邸で「肉じゃが」の温かな湯気が揺れていたその頃。
王都、聖公会大聖堂の奥深く――。
色彩を剥ぎ取ったような白亜の広間には、一切の「匂い」が存在しなかった。磨き上げられた大理石の床、無機質な祭壇。そこにあるのは、清浄という名の拒絶だ。
「……あぁ、今日も皆、悩み、苦しんでいるのですね」
今や王都では聖女と崇められているエルゼ・フォン・マギトは、慈愛に満ちた微笑みを湛え、列をなす信者たちに銀の杯を差し出していた。
中に入っているのは、彼女が神聖力で生成した「聖水」である。
何の匂いもなく、味もないこの聖水を一口口にしただけで、不安や焦燥感、痛みは消え去り、多幸感に包まれ、安寧を得られた。
だが――
その安らぎは、魂の奥底を“空洞”にする代償と引き換えだった。
聖水を煽った貴族たちは、恍惚とした表情で彼女の足元に跪く。
その頬はこけ、人間らしい活力を失っているが、彼らはそれに気づかない。
ただ、彼女が与える無色透明な安らぎだけを求めていた。
(……もっと。もっと私を必要とすればいいのです)
エルゼの瞳の奥に、微かな狂気が揺れた。
聖水を配り終えたエルゼが向かったのは、大聖堂の奥に隣接する王太子の寝室だった。
かつて「王国の獅子」と謳われた勇猛な王太子が、青白い顔で虚ろに横たわっている。
「……あぁ、エルゼ……。また、あの『安らぎ』を……」
王太子は、まるで麻薬を求めるように手を伸ばす。
エルゼは慈愛に満ちた手つきで、彼の唇に聖水を一滴落とした。
瞬時に王太子の苦悶の表情は消え、穏やかな、しかし感情の抜け落ちた人形のような笑みが浮かぶ。
(……美しい。あなたは苦しんでいる方が、ずっと従順なのです)
「……陛下。王太子殿下の病(穢れ)の根源は、東部から流れてくる『不浄』にあります。かの少年を浄化せねば、殿下の真の快癒は望めませぬ」
国王は唯一の希望である彼女の言葉を盲信するしかなかった。
「……分かった。直ちに騎士団を差し向けよう。我が息子の命を脅かす不浄など、この国には不要だ」
エルゼの口元がわずかに歪む。
それは、勝利を確信した者の笑みだった。
場面は戻り、再び東部の侯爵邸。
食卓には、肉じゃがの甘辛い香りと、幸せな満足感が漂っていた。
「……ふぅ。じいちゃん、おかわりは?」
「……いらんと言っておる。検証は十分だ(※すでに三杯食べている)」
ゼノスは顔を背けながらも、満足げに髭を撫でていた。
アレックスとレオナードも、最後の汁までパンで拭い取り、穏やかな――この屋敷始まって以来の、平和な沈黙が流れている。
だが、その静寂を切り裂いたのは、地響きのような蹄の音だった。
「報告します! 王都より、王宮直属・重装騎士団が到着! 屋敷を完全に包囲しました!」
アレックスの表情から、瞬時に体温が消えた。
玄関先に現れたのは、先ほどの使者とは比較にならない、鉄の意志を纏った騎士たち。
その先頭に立つ近衛隊長が、冷徹に羊皮紙を広げた。
「東部侯爵アレックス・フォン・コンウォール。および、不浄の元凶、忍。……聖女エルゼ様の『最終神託』により、忍を不浄の拡散者として指定。直ちに王都へ連行し、聖堂の地下にて『永久浄化(幽閉)』に処す」
「永久……浄化……?」
忍の背中に、嫌な汗が流れる。
(……これ、絶対“帰ってこれないやつ”じゃん……!)
「……私の忍を、その女の生贄に差し出せと?」
カチリ、と硬質な音が響く。
アレックスが小皿を置き、剣の柄を親指で押し上げた。
その瞳は昏く燃え上がり、周囲の空気が物理的な圧力となって騎士たちを圧迫する。
(忍を奪われる? ……そんな未来、ありえない。忍がいない世界など、世界ではない)
「面白い。……ならば、その前に王都を血の海に沈めてやろう。私の忍に触れようとするその汚れた手を、一本残らず叩き斬ってからな」
アレックスの放つ、かつてない規模の殺気。
最大の対立が、いよいよ幕を開ける。




