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第24話 禁断のTKG

コンウォール侯爵邸の朝は、静寂ではなく、かつてない緊張感に包まれていた。

 厨房の中央には、数ヶ月間、忍がわが子のように慈しみ、温度管理を徹底してきた小樽が鎮座している。


「……よし。今日だ。今日、こいつを開ける」


 忍は、祈るような心地で樽の封を切った。

 その瞬間。


「っ……!? なんだ、この香りは」

 後ろで腕を組んで見守っていたアレックスが、驚きに目を見開いた。


 ふわりと立ち上がったのは、大豆が発酵し、熟成の時を経て生まれた琥珀色の芳香。それは、塩角が取れてまろやかになり、かつ強烈な「旨み」を予感させる、日本人なら魂が震えるようなあの香りだ。


「これが醤油……。忍、君が追い求めていた『故郷の味』なのか?」


「そうだよ、アレックスさん。……ボリス! 炊きたてのご飯と、今朝獲れたての卵を!」


 忍は、真っ白に輝く銀シャリを茶碗によそい、その中央に小さなくぼみを作った。そこに、ぷっくりと盛り上がった黄金色の生卵を落とす。

 仕上げに、樽から汲み上げたばかりの自家製醤油を、円を描くように一回し半――。


 「ジワッ」と、醤油の琥珀色が卵の縁から白米の隙間へと染み込んでいく。


「……い、いただくよ」


 忍は我慢できず、箸(※忍専用にボリスに作らせたもの)で卵黄を崩し、米と醤油をざっくりとかき混ぜた。

 一口、口へ運ぶ。


「あぁ……っ、これだ……! 日本人で……いや、俺でよかったぁぁ……!」


 噛みしめるほどに広がる米の甘み、卵のコク、そしてすべてを一つにまとめ上げる醤油の暴力的なまでの旨み。

 その様子を、涎を飲み込むような音を立てて見ていた二人の公爵が、耐えきれずに叫んだ。


「忍! 私の分は!? 私にもその、黄金の食事を!」

「おい坊主、俺を忘れてんじゃねえぞ! その黒い汁、俺の分もたっぷりかけろ!」


 アレックスとレオナードが、まるで雛鳥のように忍の前に器を突き出す。

 忍は苦笑しながら、二人にも特製TKGを差し出した。


「はいはい、しっかり混ぜて食べてね。……あ、味噌汁も忘れないで。こっちも今日が解禁だから」


 隣の鍋では、自家製味噌を溶き入れた「豚汁風の味噌汁」が湯気を立てている。

 一口啜ったレオナードが、あまりの滋味深さに「ぶふっ」と噴き出しそうになった。


「……なんだこれ。この汁……五臓六腑に染み渡りやがる。……おい、アレックス。俺、南に帰りたくねえ。一生この屋敷の食客でいい」


「……ふん。残念だったな、レオナード。忍は私の……」


第十六話(結末):焦がし醤油の誘惑と、百五十年の涙

 卵かけご飯(TKG)の熱狂が一段落したところで、忍は炊飯釜の底に残ったわずかなご飯に目を向けた。


「せっかくだから、もう一つの『醤油の魔法』も披露しなきゃね」


 忍は手慣れた手つきで小さめのおにぎりを握ると、網の上に乗せた。パチパチと炭が爆ぜる音とともに、米の表面が薄く焼き色を帯びていく。そこに、刷毛で自家製醤油をひと塗り。


 ――ジューッ!!


 その瞬間、厨房中に「香ばしさの暴力」が吹き荒れた。醤油が焼ける、あの独特の、甘辛くも力強い香り。


「なっ……なんだ、この匂いは!? 米を焼いただけではないのか!?」

 アレックスが驚愕し、レオナードの鼻が小刻みに震える。


「はい、お待たせ。醤油の焼きおにぎりだよ。お味噌汁も一緒にどうぞ」


 忍が差し出したのは、表面がカリッと琥珀色に輝くおにぎりと、具だくさんの豚汁だ。

 それまで静かに見守っていたクリスティナが、震える手でその一つを手に取った。


 一口、サクッと小気味よい音が響く。


「……っ……ふふ、ひゃひゃひゃ……」


 クリスティナが突然、喉を鳴らして笑い出した。その目からは、大粒の涙が溢れ、シワの刻まれた頬を伝い落ちる。


「おばあちゃん!? どこか痛い?」

「いや……違うんじゃ、忍。……これじゃ、この味じゃ。150年前、遠い故郷で最後に食べた、母の握り飯と同じ匂いがする……」


 彼女は愛おしそうにおにぎりを頬張り、味噌汁を一口啜って、深く、深く溜息をついた。


「醤油に味噌、そして米……。忍よ、お主は、儂が150年かけても叶えられなかった『奇跡』を、たった数ヶ月で成し遂げてしまったのう。……これでようやく、儂の心も安らげる気がするわ」


 屋敷の主、隣国の勇猛な大公、そして150歳を数える賢者。

 この世界の重鎮たちが、忍の作った「焼きおにぎり」一つに絆され、等しく幸せそうに目を細めている。


 だが、その温かな湯気の向こうから、冷たい鉄の響きが忍び寄っていた。


「報告します! 王都より使者が到着! 北部公爵ゼノス・ノースランド卿を伴っております!」


 その報告を聞いた瞬間、クリスティナは涙を拭い、鋭い賢者の目に戻った。

 アレックスの瞳からは体温が消えた。



「ゼノスか……。あやつ、これほど美味い匂いが漂っている時に来るとは、相変わらず食い意地が張っておるのう。……アレックス、レオナード。お主ら、口の周りの醤油を拭け。北の頑固じじいに、忍の料理を独り占めさせるでないぞえ」


「言われるまでもありません」

「へっ、そのじじいの分があるなら、俺が全部食ってやるよ」


 幸せな朝食の余韻を噛み締めながら、忍は次なる嵐――北からの老公爵を迎え撃つべく、再び包丁を握り直すのだった。


 アレックスが言いかけた、その時。

 屋敷の玄関先で、激しく鐘が打ち鳴らされた。

 平和な朝食の時間を引き裂くような、冷徹で威圧的な響き。

 

「……じじいめ。せっかくの朝食を邪魔しに来たか」

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