第17話 いざ、出発
南西部への出発当日。
朝靄の残るコンウォール侯爵邸の玄関前には、視察という言葉では到底説明がつかないほどの重装備な一行が整列していた。
鎧の擦れる音、馬の鼻息、魔導馬車の魔力灯が淡く揺らめく光。
使用人たちは緊張した面持ちで荷物を運び、まるで王族の行幸でも始まるかのような騒がしさだった。
特に忍の乗る馬車は、アレックスが寝る間も惜しんで魔導技師に作らせた特注品。
揺れを完全に吸収するサスペンション、温度調整機能、さらには簡易的な調理台まで備えた――
「走る贅沢な保育室」……もとい、移動式居室である。
忍はその馬車を見上げ、思わず呟いた。
(……これ、絶対に“旅”じゃなくて“監禁”の方向に進化してるよね?)
そんな忍の心の声など知る由もなく、アレックスは満足げに馬車の外観を確認していた。
使用人や衛士たちがあわただしく準備をしているそこへクリスティナが、いつものようにどこからともなく現れた。
「あ、おばあちゃん。おばあちゃんも一緒に行くんだよね」
「そうじゃ。領主殿だけでは、ちと不安でな」
「おばば様!」
「ひゃひゃ。領主、いやアレックス殿、歯止めがきくかぇ?」
「なっ、」
「ひゃひゃひゃ、若いのぅ……それと忍よ。南の領主は、アレックスとはまた違った意味で『食』にうるさい男でな、いや、食にうるさいどころか“狂っておる”と言ってもよい男じゃ。あやつ、香辛料のために領主の宝蔵を空にしかけたこともあるほどじゃ」
「えっ、そんな人いるの……?」
「おるとも。お主の料理が王都に届く前に、南で一騒動起こしてくるのも面白いかもしれんのう。
……のう、救世主候補どの?」
「救世主?いやいや、僕はただの胃袋至上主義者だよ?」
「そうじゃの……」
クリスティナの目は、どこか優しい光を帯びて忍を見つめていた。
忍は一度屋敷に戻り、ボリスに声をかけた。
「ボリス、例のやつ、できてる?」
「へい、忍先生。旅用の調味料セットと、予備の塩と砂糖、それから乾燥ハーブも入れておきましたぜ」
「ありがとう!これで道中も安心だ」
荷物を受け取った忍は、軽く息を弾ませながら馬車の前へ戻ってきた。
「よし、準備万端! アレックスさん、これ、道中で食べるお弁当ね」
忍が差し出したのは、竹の皮(に似た清潔な葉)で包まれた、まだ温かい包みだった。
中には、朝炊いた米を握り、中には塩を振った焼き魚のほぐし身を詰めた**「おむすび」**と、冷めても美味しいように味を濃いめにした甘めの卵焼きが入っていた。
「……忍、これは?」
「おむすび。片手で食べられるし、旅の定番お弁当だよ」
アレックスは包みを受け取り、しばし見つめた。
(……忍が自分のために作ってくれたものだ。これだけで旅の価値がある)
馬車が動き出すと、アレックスとクリスティナはさっそく包みを開く。
一口食べた瞬間、車内に衝撃が走った。
「……っ。冷めているのに、米の甘みが際立っている。それにこの卵の……じゅわっと溢れる旨み。忍、君は……」
「ひゃひゃ、これは美味い! 旅の疲れが吹き飛ぶようじゃ。……やはり忍、アレックスのところより儂のところに来ぬか?」
クリスティナが卵焼きを頬張りながら、悪戯っぽく忍を覗き込んだ。
「クリスティナ様!!」
アレックスが即座に気色ばむ。その手には、おむすびが大事そうに握られている。
「何を仰るのです。忍は私が保護すると決めたのです。貴女のような自由人に、この繊細な天使を任せられるはずがない!」
「ひゃひゃ、相変わらず余裕がない男じゃのう。忍よ、こんな束縛の強い男の側にいては、お主も疲れるじゃろう? 儂の隠居所なら、もっと自由に料理ができるぞえ」
忍は、血相を変えて自分を抱き寄せようとするアレックスと、それを楽しそうに煽るクリスティナを見比べ、思わず吹き出した。
「あはははっ! ……あー、確かに。アレックスさんの過保護は、たまに肩が凝るかもね」
「忍……っ! 君までそんなことを……!」
アレックスが本気でショックを受けた顔をして、シュンと項垂れる。その姿は、国を守る侯爵というよりは、飼い主に冷たくされた大型犬そのものだ。
忍は苦笑しながら、フォローを入れる。
「冗談だよ。魔力供給(添い寝)してもらわないと、僕、すぐ縮んじゃうし。……さあ、食べて。南に着いたら、もの凄く美味しいお味噌汁もセットにしてあげるから」
「……。ああ、約束だぞ」
忍のフォローに現金にも機嫌を直したアレックスだったが、その腕が忍の腰を抱きしめる力は、さらに強まっていた。
窓の外には、のどかな東部の景色が広がっている。
黄金色の麦畑、ゆっくりと流れる小川、旅人たちが驚いたように馬車を見送る姿。
忍は胸を高鳴らせながら外を眺めた。
(南にはどんな食材があるんだろう……?豆、香辛料、未知の調味料……全部、全部見てみたい)
アレックスはそんな忍の横顔を見つめ、胸の奥に甘くて苦い感情を抱いていた。
(……この子の“好き”が、いつか私以外のものに向くのが怖い)
しかし、その不安を押し隠すように、アレックスは忍の肩をそっと抱き寄せた。
目指すは南西部。
忍の胃袋革命は、今、本格的に領地を跨ぐ旅へと発展しようとしていた。




