第25章 閑話:橋本の助言――それ、全部ミュートでいいの?
小林美咲は、その日の研修が終わったあとも、しばらく会議室に残っていた。
机の上には、秋山昭人の演習メモが置き忘れられている。ページの端には、小さな電気スタンドの絵が描かれていた。
尋問のライトではなく、机の上をそっと照らす灯り。前の演習で秋山がたどり着いた気づきだ。
小林は、その絵を見て少し笑った。秋山は不器用だ。すぐに正論を出すし、質問は詰問に聞こえるし、平成の引き出しは妙なタイミングで開く。
けれど、変わろうとしていることも、たしかに伝わってくる。
問題は、その変わり方だった。
秋山の古いところを止めるのは、比較的分かりやすい。否定から入らない。問い詰めすぎない。夜遅くに返信しない。急に電話しない。飲み会を当然のように全員参加にしない。そこまでは、小林にも言葉にしやすかった。
だが、止めてばかりいると、秋山の良さまで一緒に消してしまう気がした。
困っている人を放っておけないところ。最後まで粘るところ。相手のためなら自分の時間を使うことを惜しまないところ。論点を整理し、停滞した場を前に進める力。
それらは、たしかに昭和・平成型の仕事観と結びついている。けれど、全部が不要なものだとは思えなかった。
小林は、橋本令司の席を訪ねた。橋本はノートパソコンを閉じ、顔を上げた。
「少し、秋山さんのことで相談してもいいですか」
「もちろん。相談が早いのは、いいことです」
橋本は、わざとらしく時計を見なかった。その姿勢だけで、小林は少し話しやすくなった。相談しやすさは、こういう小さな所作にも出るのだと、秋山に伝えたいような気もした。
「秋山さん、少しずつ変わろうとしていると思います。でも、私は最近、止めることばかりしている気がしていて」
「止めること、というと」
「正論をすぐ言わないでください。質問を重ねすぎないでください。夜に返信しすぎないでください。そういう注意は必要なんですけど……それだけだと、秋山さんの熱量とか責任感まで、全部ミュートにしてしまっている気がするんです」
橋本は、少しだけ口元を緩めた。
「ミュート、ですか。いい表現ですね。通知が多すぎると困る。でも、完全に切ってしまうと、大事な連絡にも気づけない」
小林は、少しだけ肩の力を抜いた。自分が言いたかったことを、橋本が勝手に正解にせず、いったん受け取ってくれたからだ。相談される側の所作は、やはり細部に出る。
「秋山さんの古いやり方には、今の職場に合わない部分があります。そこは止める必要がある。けれど、古いからといって、全部が悪いわけではありません」
橋本は、机の上に置かれた付箋を三枚取り、横に並べた。
責任感。粘り強さ。面倒を見る力。
「この三つは、秋山さんの強みです。ただし、昔のまま出すと、責任感は過干渉に、粘り強さは長時間労働の圧に、面倒を見る力は相手の自立を奪う手取り足取りに変わることがあります」
小林は、思わずうなずいた。秋山の良さは、いつも悪さと隣り合わせに見える。だから扱いが難しい。強みとして残したいのに、出し方を間違えると、相手を疲れさせてしまう。
「では、どうすればいいんでしょう。注意しすぎると萎縮させそうですし、放っておくとまた昭和の最大音量になります」
「音量の調整です」
橋本は、付箋の下にもう一枚ずつ小さな付箋を置いた。
責任感は、相手の結果を背負うことではなく、相手が動ける条件を整えること。粘り強さは、自分が最後まで残ることではなく、途中で投げ出さずに一緒に確認し続けること。面倒を見る力は、代わりにやることではなく、相手が次に自分でできるように支えること。
「ミュートではなく、翻訳ですね」
小林が言うと、橋本は静かにうなずいた。
「その通りです。秋山さんの言葉や行動を、そのまま令和の職場に流すと、少し音が大きすぎる。でも、意味まで消す必要はない。背景にある意図を見つけて、今のメンバーが受け取れる形に変えていく。それが、小林さんの教育係としての大事な役割かもしれません」
小林は、秋山の姿を思い出した。夜のチャットに即返信する秋山。誰よりも早く資料の誤字に気づく秋山。困っている城山の話を、うまく待てずに前のめりになる秋山。どれも、表面だけ見れば少し困る。でも、その奥には、誰かを見捨てたくないという思いがある。
「たとえば、秋山さんが夜に返信したくなるのは、相手を待たせたくないからかもしれません。でも、それをそのままやると、相手も夜に反応しなければいけない気持ちになる。だから、“見ました。明日一緒に確認しましょう”を翌朝送るとか、予約送信にするとか、熱量の置き場所を変えるんです」
「質問も同じですか」
「ええ。原因を明らかにしたいという姿勢は大切です。ただし、入口で目的を伝える。相手が答えやすい順番にする。沈黙を待つ。そうすれば、同じ確認でも、相手を追い込む尋問ではなく、一緒に状況を見る対話になります」
小林は、橋本の言葉を聞きながら、自分の役割が少し変わるのを感じていた。秋山を止める人ではなく、秋山の強みが相手に届く形を一緒に探す人。古い音を全部消すのではなく、必要な音だけ、必要な大きさで鳴らせるようにする人。
「でも、秋山さんにそれをどう伝えればいいでしょう。強みです、と言いながら注意すると、結局どっちなんだと言われそうで」
橋本は少し考え、付箋の一枚を小林の方へ滑らせた。
「“やめてください”だけではなく、“その力を別の形で使ってください”と伝えるといいと思います。たとえば、“秋山さんの確認力は助かっています。ただ、最初に全部聞くと相手が固まるので、目的を伝えてから一つずつ聞いてもらえると、もっと活きます”というように」
小林は、その言い方を心の中で何度か繰り返した。否定ではなく、転用。停止ではなく、再配置。たしかに、それなら秋山も受け取りやすいかもしれない。
橋本は、最後に少しだけ表情をやわらげた。
「古いものは、全部捨てなくてもいいんです。ただ、そのまま職場の真ん中に置くと、場所を取りすぎることがある。棚の位置を変えたり、使い方を変えたりすれば、まだ役に立つものもあります」
小林は、少し笑った。
「秋山さんの平成の引き出しも、棚の位置を変えれば使えますか」
「たまに勝手に開くので、チャイルドロックくらいは必要かもしれません」
二人は小さく笑った。秋山が聞いていたら、きっと不本意そうな顔をしただろう。それでも、笑いの中に悪意はなかった。困った人を笑いものにするのではなく、困ったところも含めて、どう一緒に扱っていくかを考えるための笑いだった。
会議室に戻る途中、小林は秋山のメモを手に取った。小さな電気スタンドの絵。その横に、余白が残っている。小林は少し迷ってから、付箋に一言だけ書いて貼った。
全部消さずに、照らし方を変える。
翌朝、その付箋を見つけた秋山は、しばらく意味を考え込むだろう。きっと最初は、誰が自分を照明係にしたのかと首をひねるに違いない。
だが、少し考えれば気づくはずだ。自分の熱量も、正論も、確認力も、消すべきものではない。ただ、相手の目をつぶらせるほど近くから当ててはいけないのだ。
小林は、部屋の明かりを消して廊下に出た。完全な暗闇ではなく、足元灯だけが静かに残っている。
そのくらいの明るさなら、人は自分の足で歩けるはずだ。




