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異世界転移した金融マン、国庫金貨46枚の王国を帳簿と現代金融で立て直します  作者: rorenji


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9/17

帰還の門

 王都リーゼンは、滅びかけた国の首都には見えなかった。


 朝の市場には野菜が並び、パン窯から煙が上がっている。荷車は石畳を軋ませ、織物工房の窓から機織りの音が流れていた。


 三崎直人は、破綻国家ならもっと静かだと想像していた。


「国庫が空でも、市場は動いているんですね」


 隣を歩くリヴィアが言った。


「国と国民の財布は別ですから」


「ですが、国が街道を失えば、この市場も止まります」


 そのとおりだった。


 東門近くの穀物市場には、王領から届いた小麦袋が積まれている。今は荷がある。だが街道の通行料徴収権をヴェスパー商会が得れば、料金をいくらにするかは商会が決める。運賃が上がれば、最初に消えるのは利益の薄い食料だった。


 直人たちは、監査2日目を王宮の外で過ごしていた。


 洪水で水路が壊れた王領の管理人、倉庫を借りる商人、街道を使う御者。帳簿の数字が現場と合うか確かめるためだ。


 王都西の水路では、石組みが10歩ほど崩れていた。


「全部を造り直す必要はない」


 村の石工が断面を示した。


「上流を2日止めて、この区間を積み直せば水は戻る。石は崩れたものを使えます」


「人手と賃金は?」


「12人で6日。食事を別にして、銀貨72枚」


 金貨4枚にも届かない。


 水が戻れば、次の収穫で小麦100袋以上の差が出るという。


 国は、修理する金貨4枚を惜しみ、何倍もの収入を失っていた。


 倉庫も同じだった。


 屋根の穴から雨が入り、床の半分が使えない。木工職人は銀貨120枚で直せると言った。修理すれば穀物を長く保管でき、収穫期に安く売り急ぐ必要がなくなる。


「直せるものばかりですね」


 リヴィアが、壊れた屋根を見上げた。


「だから厄介なんです。壊れた国なら諦められる。でも、これは直せる」


「なぜ?」


「直せば価値が出る。でも、直す前に期限が来る」


 6日後に金貨12,000枚。


 水路も倉庫も、今日の支払いには使えない。けれど、国を解散して安値で売れば、修理後の価値を買い手へ渡すことになる。


 直人は帳面へ書いた。


 現金不足。国全体の支払能力は、まだ不明。


「国庫が空でも、まだ破産とは言えないんですか」


 リヴィアが文字をのぞき込んだ。


「今日払う金がないことと、持っている物を全部売っても借金を返せないことは別です。今のエルディアは、まず金の流れが止まっている」


 直人は、壊れた水路の見積りを指した。


「水路を直せば、次の小麦が増える。倉庫を直せば、安売りせずに済む。その価値まで数えたうえで、借金より多いか少ないかを調べます」


「では、今は?」


「財布は空です。ただ、この国そのものが空かどうかは、まだ分からない」


 リヴィアはその言葉を、帳面の余白へ書き加えた。


* * *


 王宮へ戻ると、オルドが地下契約室で待っていた。


「監査人殿。契約に変化がございます」


 黒い鏡に、白い輪が浮かんでいる。


 直人が近づくと、金色の文字が現れた。


『監査人は、選択を終えぬまま辞退できる』


『帰還を望むとき、門へ触れよ』


 白い輪が脈打つたび、東京の駅らしい光が少しずつ鮮明になる。


「7日後でなくても帰れる?」


「そのようです」


 オルドは杖を胸元へ引き寄せた。答えを知っている者の態度ではなかった。


「帰った先は」


「やはり、分からない」


 鏡の白い輪の向こうに、ぼんやりと光景が映った。


 白い床。広告看板。駆け寄る人影。


 東京の地下鉄駅だった。


 床に、誰かが倒れている。


 顔は見えない。黒いスーツと、転がったスマートフォンだけが見えた。


 映像が今なのか、直人が消えた直後なのかも分からない。


「触れれば、戻れるのですね」


 リヴィアの声が背後からした。


「契約を信じるなら」


「帰ってください」


 直人は振り返った。


 彼女は両手で、1冊の薄い帳面を抱えていた。


「引き留めないのですか」


「引き留める資格はない。無断で呼んだのはわたしです。帰れるなら、選ぶ権利は三崎様にあります」


 リヴィアは帳面を抱く腕へ力を込めた。言葉とは反対に、その場へ縫い止めたい何かを堪えているように見えた。


「国はどうする」


「評議会へ、確認できた事実を渡します。新王を選ぶか、ヴェスパー商会へ条件変更を求めます」


 直人が振り返ると、彼女は鏡ではなく床を見ていた。


「成功すると思いますか」


「思わない」


 リヴィアは正直だった。


「でも、それを三崎様が残る理由にしてはいけない」


 彼女は帳面を差し出した。


 王領、水路、倉庫、工房、人口、未払賃金。今日確認した事実が、短く整理されている。


 最後の頁には、選択肢ごとの影響が書かれていた。


 王国解散。担保と王領を売却し債権者へ分配。行政と近衛隊は解散。近隣国との受入交渉が必要。


 新王推薦。候補者なし。個人保証条項の変更が必要。


 直人の即位。法的には可能。本人が債務と統治責任を負う。


 帰還。


 その欄だけ、利点も欠点も空白だった。


「なぜ何も書かない」


「わたしには、三崎様が戻る世界のことを評価できない」


 正しい判断だった。


 知らないものへ、都合のよい数字を置かない。


 直人は鏡へ向き直った。


 東京には仕事がある。家族がいる。内部監査部へ残した記録も、結果を確かめていない。


 ここには、6日後の請求書と、嘘の混じった帳簿と、会ったばかりの人々しかいない。


 帰るべきだった。


 手を伸ばせば、白い輪へ届く。


 鏡の中で、救急隊員らしい人影が、倒れた男の胸へ手を当てた。


 直人の指が止まる。


 帰還後の自分が助かる保証はない。


 だが、それは残る理由にもならない。


「リヴィアさん」


「はい」


 呼ばれたリヴィアは顔を上げた。直人の指が門から離れたことを確かめても、安堵した表情は見せない。


「私は正しい政策なら説明すれば通じると思う癖があります」


「急に何のお話ですか」


 戸惑って眉を寄せながらも、彼女は続きを遮らなかった。


「今日賃金を払った人たちは、受領証があっても返せと言われるのを恐れた。私は帳簿へ書けば信用が戻ると思っていた」


 直人は手を下ろした。


「数字は読めても、1人ではこの国を運営できない。今日だって、賃金を受け取る人の怖さを、私はリヴィアさんに言われるまで十分に見ていなかった」


「王になると?」


 リヴィアの抱えた帳面が、胸元でかすかに傾いた。


「まだ言っていない」


「そこははっきりなさらないのですね」


 緊張を隠すような皮肉に、直人もようやく口元を緩めた。


「監査人なので」


 リヴィアの口元にかすかな笑みが浮かんだ。


 直人は黒い鏡へ背を向けた。


「期限までは残ります。逃げ道があると知ったうえで、最後まで調べる。帰るかどうかは、王国をどうするかと同時に決めます」


 白い輪がゆっくり消えた。


 帰還の門が閉じる直前、東京の白い床だけが細く残った。


 直人はそれを見送った。


 選ばなかったのではない。


 6日後まで、選択の責任を先送りしたのだ。


 直人は東京の自宅を思い出した。玄関脇の読みかけの本、洗濯を後回しにしたシャツ、日曜が賞味期限の牛乳。壮大な使命ではない生活が、向こう側にはある。


 母には忙しいと短い連絡をしたきりだった。父とは正月以来まともに話していない。倒れた自分が病院にいるなら、家族はすでに呼ばれているかもしれない。


 鏡に映った男が自分なら、身体は今も駅の床にある。戻った瞬間に意識を取り戻せるのか、同じ時刻へ帰れるのか、それとも病院の寝台で何日も経ったあとに目を開けるのか。契約の文字は、帰還できるとしか約束していなかった。


 会社に残した記録も同じだった。内部監査部へ届いているかもしれないし、端末を止められた時点で握り潰されているかもしれない。帰れば確かめられる。だが、帰るという行為そのものが、失った時間や身体を元へ戻す保証にはならない。


 ここで1日を使うたび、向こうで何を失うのか分からない。


「ご家族がいらっしゃるのですか」


 リヴィアが尋ねた。


「います。あなたにも?」


「母が王都に。父は別のパン屋で働いています」


 どちらの家族が重いかは比べなかった。比べれば、必ず誰かを残るための道具にする。


「私が最後に王国解散を選んでも、受け入れますか」


「受け入れます。ただし、民の移住先も、雇用も、預けた金も、土地の権利も整理してください。国名を消しただけで、解散の仕事を終えたとは認めない」


 リヴィアは一語ずつ確かめるように告げた。引き留める代わりに、選択の重さを彼の前へ置いている。


「厳しいですね」


「すべてを見るよう求めたのは三崎様です」


 鏡へ触れなかった理由を彼女のためだとは言いたくなかった。2日間調べた結果を、自分の目で結論まで確かめたい。その職業的な執着が大半だった。


 それでも、1度見た危険を知らなかったことにはできない。


 契約室を出る前、直人はオルドへ、門が再び開く条件を調べるよう頼んだ。


 残ることと、帰る道を捨てることは同じではない。出口を確認したうえで残る。それが今できる唯一の選択だった。


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