帰還の門
王都リーゼンは、滅びかけた国の首都には見えなかった。
朝の市場には野菜が並び、パン窯から煙が上がっている。荷車は石畳を軋ませ、織物工房の窓から機織りの音が流れていた。
三崎直人は、破綻国家ならもっと静かだと想像していた。
「国庫が空でも、市場は動いているんですね」
隣を歩くリヴィアが言った。
「国と国民の財布は別ですから」
「ですが、国が街道を失えば、この市場も止まります」
そのとおりだった。
東門近くの穀物市場には、王領から届いた小麦袋が積まれている。今は荷がある。だが街道の通行料徴収権をヴェスパー商会が得れば、料金をいくらにするかは商会が決める。運賃が上がれば、最初に消えるのは利益の薄い食料だった。
直人たちは、監査2日目を王宮の外で過ごしていた。
洪水で水路が壊れた王領の管理人、倉庫を借りる商人、街道を使う御者。帳簿の数字が現場と合うか確かめるためだ。
王都西の水路では、石組みが10歩ほど崩れていた。
「全部を造り直す必要はない」
村の石工が断面を示した。
「上流を2日止めて、この区間を積み直せば水は戻る。石は崩れたものを使えます」
「人手と賃金は?」
「12人で6日。食事を別にして、銀貨72枚」
金貨4枚にも届かない。
水が戻れば、次の収穫で小麦100袋以上の差が出るという。
国は、修理する金貨4枚を惜しみ、何倍もの収入を失っていた。
倉庫も同じだった。
屋根の穴から雨が入り、床の半分が使えない。木工職人は銀貨120枚で直せると言った。修理すれば穀物を長く保管でき、収穫期に安く売り急ぐ必要がなくなる。
「直せるものばかりですね」
リヴィアが、壊れた屋根を見上げた。
「だから厄介なんです。壊れた国なら諦められる。でも、これは直せる」
「なぜ?」
「直せば価値が出る。でも、直す前に期限が来る」
6日後に金貨12,000枚。
水路も倉庫も、今日の支払いには使えない。けれど、国を解散して安値で売れば、修理後の価値を買い手へ渡すことになる。
直人は帳面へ書いた。
現金不足。国全体の支払能力は、まだ不明。
「国庫が空でも、まだ破産とは言えないんですか」
リヴィアが文字をのぞき込んだ。
「今日払う金がないことと、持っている物を全部売っても借金を返せないことは別です。今のエルディアは、まず金の流れが止まっている」
直人は、壊れた水路の見積りを指した。
「水路を直せば、次の小麦が増える。倉庫を直せば、安売りせずに済む。その価値まで数えたうえで、借金より多いか少ないかを調べます」
「では、今は?」
「財布は空です。ただ、この国そのものが空かどうかは、まだ分からない」
リヴィアはその言葉を、帳面の余白へ書き加えた。
* * *
王宮へ戻ると、オルドが地下契約室で待っていた。
「監査人殿。契約に変化がございます」
黒い鏡に、白い輪が浮かんでいる。
直人が近づくと、金色の文字が現れた。
『監査人は、選択を終えぬまま辞退できる』
『帰還を望むとき、門へ触れよ』
白い輪が脈打つたび、東京の駅らしい光が少しずつ鮮明になる。
「7日後でなくても帰れる?」
「そのようです」
オルドは杖を胸元へ引き寄せた。答えを知っている者の態度ではなかった。
「帰った先は」
「やはり、分からない」
鏡の白い輪の向こうに、ぼんやりと光景が映った。
白い床。広告看板。駆け寄る人影。
東京の地下鉄駅だった。
床に、誰かが倒れている。
顔は見えない。黒いスーツと、転がったスマートフォンだけが見えた。
映像が今なのか、直人が消えた直後なのかも分からない。
「触れれば、戻れるのですね」
リヴィアの声が背後からした。
「契約を信じるなら」
「帰ってください」
直人は振り返った。
彼女は両手で、1冊の薄い帳面を抱えていた。
「引き留めないのですか」
「引き留める資格はない。無断で呼んだのはわたしです。帰れるなら、選ぶ権利は三崎様にあります」
リヴィアは帳面を抱く腕へ力を込めた。言葉とは反対に、その場へ縫い止めたい何かを堪えているように見えた。
「国はどうする」
「評議会へ、確認できた事実を渡します。新王を選ぶか、ヴェスパー商会へ条件変更を求めます」
直人が振り返ると、彼女は鏡ではなく床を見ていた。
「成功すると思いますか」
「思わない」
リヴィアは正直だった。
「でも、それを三崎様が残る理由にしてはいけない」
彼女は帳面を差し出した。
王領、水路、倉庫、工房、人口、未払賃金。今日確認した事実が、短く整理されている。
最後の頁には、選択肢ごとの影響が書かれていた。
王国解散。担保と王領を売却し債権者へ分配。行政と近衛隊は解散。近隣国との受入交渉が必要。
新王推薦。候補者なし。個人保証条項の変更が必要。
直人の即位。法的には可能。本人が債務と統治責任を負う。
帰還。
その欄だけ、利点も欠点も空白だった。
「なぜ何も書かない」
「わたしには、三崎様が戻る世界のことを評価できない」
正しい判断だった。
知らないものへ、都合のよい数字を置かない。
直人は鏡へ向き直った。
東京には仕事がある。家族がいる。内部監査部へ残した記録も、結果を確かめていない。
ここには、6日後の請求書と、嘘の混じった帳簿と、会ったばかりの人々しかいない。
帰るべきだった。
手を伸ばせば、白い輪へ届く。
鏡の中で、救急隊員らしい人影が、倒れた男の胸へ手を当てた。
直人の指が止まる。
帰還後の自分が助かる保証はない。
だが、それは残る理由にもならない。
「リヴィアさん」
「はい」
呼ばれたリヴィアは顔を上げた。直人の指が門から離れたことを確かめても、安堵した表情は見せない。
「私は正しい政策なら説明すれば通じると思う癖があります」
「急に何のお話ですか」
戸惑って眉を寄せながらも、彼女は続きを遮らなかった。
「今日賃金を払った人たちは、受領証があっても返せと言われるのを恐れた。私は帳簿へ書けば信用が戻ると思っていた」
直人は手を下ろした。
「数字は読めても、1人ではこの国を運営できない。今日だって、賃金を受け取る人の怖さを、私はリヴィアさんに言われるまで十分に見ていなかった」
「王になると?」
リヴィアの抱えた帳面が、胸元でかすかに傾いた。
「まだ言っていない」
「そこははっきりなさらないのですね」
緊張を隠すような皮肉に、直人もようやく口元を緩めた。
「監査人なので」
リヴィアの口元にかすかな笑みが浮かんだ。
直人は黒い鏡へ背を向けた。
「期限までは残ります。逃げ道があると知ったうえで、最後まで調べる。帰るかどうかは、王国をどうするかと同時に決めます」
白い輪がゆっくり消えた。
帰還の門が閉じる直前、東京の白い床だけが細く残った。
直人はそれを見送った。
選ばなかったのではない。
6日後まで、選択の責任を先送りしたのだ。
直人は東京の自宅を思い出した。玄関脇の読みかけの本、洗濯を後回しにしたシャツ、日曜が賞味期限の牛乳。壮大な使命ではない生活が、向こう側にはある。
母には忙しいと短い連絡をしたきりだった。父とは正月以来まともに話していない。倒れた自分が病院にいるなら、家族はすでに呼ばれているかもしれない。
鏡に映った男が自分なら、身体は今も駅の床にある。戻った瞬間に意識を取り戻せるのか、同じ時刻へ帰れるのか、それとも病院の寝台で何日も経ったあとに目を開けるのか。契約の文字は、帰還できるとしか約束していなかった。
会社に残した記録も同じだった。内部監査部へ届いているかもしれないし、端末を止められた時点で握り潰されているかもしれない。帰れば確かめられる。だが、帰るという行為そのものが、失った時間や身体を元へ戻す保証にはならない。
ここで1日を使うたび、向こうで何を失うのか分からない。
「ご家族がいらっしゃるのですか」
リヴィアが尋ねた。
「います。あなたにも?」
「母が王都に。父は別のパン屋で働いています」
どちらの家族が重いかは比べなかった。比べれば、必ず誰かを残るための道具にする。
「私が最後に王国解散を選んでも、受け入れますか」
「受け入れます。ただし、民の移住先も、雇用も、預けた金も、土地の権利も整理してください。国名を消しただけで、解散の仕事を終えたとは認めない」
リヴィアは一語ずつ確かめるように告げた。引き留める代わりに、選択の重さを彼の前へ置いている。
「厳しいですね」
「すべてを見るよう求めたのは三崎様です」
鏡へ触れなかった理由を彼女のためだとは言いたくなかった。2日間調べた結果を、自分の目で結論まで確かめたい。その職業的な執着が大半だった。
それでも、1度見た危険を知らなかったことにはできない。
契約室を出る前、直人はオルドへ、門が再び開く条件を調べるよう頼んだ。
残ることと、帰る道を捨てることは同じではない。出口を確認したうえで残る。それが今できる唯一の選択だった。




