最初に支払う相手
近衛兵の給与は、3か月払われていなかった。
王宮の清掃人には2か月、御者と厩番には4か月分の賃金が支払われていなかった。
「それでも、全員が働いている?」
三崎直人が尋ねると、近衛隊副長ガレン・ローディスは不快そうに眉を寄せた。
「先王陛下が亡くなられた翌朝に、持ち場を離れる兵士がおりますか」
32歳。短く刈った黒髪と、古い傷の走る顎。評議会で扉を守っていた男だった。
「忠誠心を疑っているんじゃない。食事や家賃をどうしているのか聞いています」
「家族に借りる者も、夜警の後で荷運びをする者もおります」
ガレンは部下の名を口にしなかった。代わりに、擦り切れた自分の革手袋を握り込んだ。
「辞めた者は?」
「おります。責めるおつもりなら、私が代わりに――」
ガレンが顎を上げる。直人は最後まで言わせず、首を横に振った。
「責めない。4か月も払わなかった国のほうが、先に責められるべきです」
直人は未払賃金簿をめくった。
兵士、清掃人、洗濯人、御者、厩番、厨房の下働き。147人。未払総額は金貨換算で236枚と銀貨11枚。
国庫の現金をすべて使っても足りない。
「役職が高い者は?」
「将校と宮廷官には、ひと月分の俸給が支払われていない」
「なぜ差がある」
リヴィアが別の帳面を示した。
「高位職の俸給は宮内局、下級職員は財務局から支払われます。宮内局は、王室行事費から一部を回しました」
「金のある財布が、地位の高い者だけを先に払った」
ガレンの顔が険しくなった。
「将校が部下の金を奪ったわけではない」
「そうは言っていない。仕組みの結果です」
直人は筆を置いた。
結果に責任を持つ者がいない仕組みは、同じ結果を何度でも作る。
「宮内局の現金残高を見ます」
* * *
宮内局の金庫には、国庫より多くの金があった。
金貨80枚。
銀貨164枚。
用途欄には、即位式用の敷物、宴席の葡萄酒、来賓用手袋、王冠を運ぶ新しい馬車とある。
「王が決まっていないのに、即位式の費用はある」
直人が言うと、宮内局の官吏は胸を張った。
「国家の威信に関わる支出でございます」
「給料を払わない国の威信を、その赤い敷物で守れるんですか」
官吏が言葉を失った。
ボルガン侯爵の許可がなければ使えない、と次に主張したが、侯爵はすでに宮内長官ではない。先王の死去によって職務権限は停止し、評議会が暫定管理者になっていた。
直人は評議会の承認文書を求めた。
宰相は、即位式準備金から金貨64枚と銀貨12枚を緊急賃金へ振り替える決定へ署名した。
「全部は払えない」
直人は集められた職員たちへ言った。
王宮の中庭。夜勤を終えた者と、これから働く者が、石壁の前へ列を作っている。
「今回は、1人につき銀貨を8枚まで。未払額が8枚より少ない人には、全額を払います」
ざわめきが起きた。
「兵士も清掃人も同じですか」
誰かが尋ねた。
「同じ未払賃金なら、同じ上限です。役職ではなく、明日の暮らしが危ない人から払います」
「なぜ全員へ同じ割合で払わない」
今度はガレンだった。
「給料の3割ずつなら、計算の上では公平に見える」
「でも金貨10枚を受け取る人の3割と、銀貨1枚で暮らす人の3割では、明日の食事への意味が違う」
直人は列の先頭にいた清掃人を見た。
白髪の女性で、両手が洗剤に荒れている。
「まず、明日の食事と家賃を失う人を減らす。その後で、残りを払う順番を全員へ見せます」
「日付を約束できるのですか」
「まだできない」
期待がしぼむのが見えた。
「だから、できない日付は約束しない。その代わり、国が誰にいくら借りているか、次に金が入ったら誰へ払うかを今日中に公開します」
直人は支払簿の写しを掲示板へ貼らせた。
個人名ではなく、職種、人数、未払総額、今回支払額、残額。字が読めない者のため、リヴィアが1項目ずつ読み上げる。
清掃人の女性が最初に銀貨を受け取った。
彼女は8枚を掌へ載せ、何度も数えた。
「本物でしょうか」
「国庫の銀貨です」
「あとで返せと言われないか」
金額が正しいと答えるだけでは足りない。賃金を受け取るだけで返還を恐れるほど、国の信用は壊れていた。
「返さなくていいよう、受領証を2枚作ります。1枚はあなたが持ってください」
「字を書けない方には、立会人の前で指印をいただきましょう」
リヴィアがこの国で通用する本人確認を加え、その場で書式を整えた。
支払額、未払残高、支払日。財務局と受取人が1枚ずつ持つ。
列はゆっくり進んだ。
怒鳴る者はいなかった。
それが直人には、かえって重かった。
最後の銀貨が渡ると、リヴィアが支払簿を確かめた。
「これで39人へ完済できました。残る108人へ8枚ずつで864枚。完済分の207枚と合わせて、今日は銀貨1,071枚を払いました」
「振り替えた金は?」
「銀貨に直して1,292枚ですから、221枚残ります」
直人は、開いた支払箱を指した。
「残りも宴には戻さない。未払賃金だけに使う箱へ入れてください」
「財務局、宮内局、近衛隊。3者の封印にします」
リヴィアは新しい封印紙へ金額を書いた。まだ払えていない賃金は、金貨183枚。数字が減っても、借金が消えたわけではなかった。
財務局側の受領証は記録庫へ収め、本人が持つ1枚と後で照合できるようにした。国の帳簿だけを書き換えても、支払いを増減できない。
全体の未払額から見れば、小さな支払いだった。
だが39人にとっては、国が約束を1つ守ったことになる。
* * *
最後の1人が去った後、ガレンは掲示板の前に残っていた。
「副長の分は、今回はない」
直人が言うと、ガレンは鼻を鳴らした。
「求めていない」
「求める権利はあります」
「部下より先に受け取れば、隊へ戻れなくなる」
直人は、擦り切れた彼の靴を見た。
「あなたも荷運びを?」
「していない」
否定が早すぎた。直人が片眉を上げると、ガレンは露骨に視線をそらした。
「では、借金ですか」
「監査に必要な質問でしょうか」
今度はガレンが、探るように直人の顔を見返した。
「いいえ」
「ならば答えない」
初めて、ガレンの口元が少しだけ動いた。
笑ったらしい。
「異界の監査人殿。私は、あなたを信用していない」
「当然です」
直人がためらわず答えると、ガレンの眉間の皺がわずかに緩んだ。
「王冠を被れば、借金を理由に増税するかもしれない。王国を解散して、兵を隣国へ売るかもしれない」
「その可能性を調べるのが、あなたの仕事です」
ガレンは驚いたように目を細めた。忠誠を求められると思っていたのだろう。
「だが、今日、我々より先に外国商会へ金を渡さなかったことは覚えておきます」
ガレンは右拳を胸へ当てた。
「帳簿と倉庫を守る兵が必要なら、私へ命じてください。王への忠誠ではない。未払賃金を盗ませないためです」
直人もうなずいた。
「それで十分です。王への忠誠より、箱の中の賃金を守ってください」
中庭の向こうで、清掃人の女性が銀貨を握り、門を出ていく。
その背を、リヴィアが見送っていた。
「最初に払う相手を、間違えなかったと思いますか」
彼女が尋ねた。
「まだ分からない」
「また、それですか」
リヴィアは呆れた口調だったが、責めるより先に続きを待っていた。
「ヴェスパー商会は、この支払いを契約違反だと言うかもしれない。即位式の業者も、注文を失います。正しい順番だったかは、結果まで見ないと」
「それでも、決めました」
彼女の視線が、門を出ていく清掃人の背へ移る。
「決めずに待てば、今夜の食事を失う人がいる。何もしないことにも損失があるからです」
直人は空になった支払箱を閉じた。
残された期限は、6日。
国が守るべき約束は、金貨12,000枚だけではなかった。
支払いの途中には、若い御者が列から外れた。熱を出した父の分も受け取りたいが、本人以外へ払えない規則を恐れていた。
直人なら、本人確認ができないとして止めていたかもしれない。
リヴィアは同じ厩舎の2人を立会人とし、翌日までに父の指印を受領証へ加える案を出した。虚偽なら3人の証言が食い違う。完全ではないが、病人を列へ呼ぶよりよい。
「それで払いましょう」
御者は父の銀貨を別の布袋へ入れた。
制度を守ることと、制度の目的を守ることは同じではない。直人は、その違いを帳面の余白へ書いた。
「もう1つ、宮内局に残した金貨16枚と銀貨152枚はどうしますか」
リヴィアが尋ねた。
「パンと薪と薬のために残します。賃金の221枚とは別の箱へ。王が決まっても宴には使わない」
その用途も掲示板へ書き、別々に封印した。
「では、葡萄酒は出ないのですか」
厨房の下働きが残念そうに尋ねた。
「未払賃金より先には買わない」
「王様が決まっても?」
厨房の下働きは、冗談半分、期待半分の顔で身を乗り出した。
「王様が自分で払うなら別です」
「王様は金持ちでは?」
直人は答えに困った。リヴィアが横から言った。
「候補の方には、この世界で差し押さえられる資産がない」
列から小さな笑いが起きた。
恐怖でも諦めでもない声を、直人は王宮で初めて聞いた。
だが笑いが消えた後も、掲示板には未払残高が残る。今日の銀貨は解決ではなく、国が債務者だと認めた最初の支払いにすぎなかった。




