三冊の国家帳簿.
最初に青い革表紙の帳簿が運び込まれた。
次は赤。その次は、飾りのない灰色。
3冊が長机へ並ぶと、三崎直人は同じ国の帳簿だとは思えなかった。
「青が財務局の公式帳簿です」
リヴィアが言った。
「赤は宮内局が管理する王家帳簿。灰色がヴェスパー商会へ提出した債務報告書の控えです」
「同じ収入を、3つの方法で記録している?」
「……はい」
窓の外はまだ暗い。夜明け前の記録庫には、直人とリヴィア、鍵を開けた老書記の3人しかいなかった。
直人は青い帳簿を開いた。
東西街道の通行料は昨年度で金貨1,820枚。公式帳簿によれば、そのうち1,140枚が国庫へ納められている。差額680枚を徴収費用と街道補修費に使ったらしい。
「補修した区間は?」
「財務局には記録がない」
リヴィアの指が、空白の費用欄で止まった。
「費用の領収書は」
「宮内局にあると聞いています」
赤い帳簿を開く。
同じ通行料収入は、金貨1,560枚。国庫納付は980枚。残りは王宮警備費、使節接待費、街道管理費へ振り替えられている。
「青と入口から違いますね」
「徴収所から財務局へ来る報告と、宮内局へ来る報告が違います」
彼女は青と赤の帳簿を左右へ開き、同じ年の頁を直人へ向けた。
「どちらが元の記録ですか」
「徴収所の日誌を見なければ分からない」
灰色の報告書には、通行料収入として金貨920枚が記されていた。
費用の内訳はない。流行病と洪水によって交易量が減り、歳入が大幅に落ちたという説明だけが添えられている。
3つの数字。
1,820、1,560、920。
同じ街道の、同じ1年の収入だった。
「ヴェスパー商会へ少なく報告した理由は?」
直人が尋ねると、老書記が目を伏せた。
「借入限度を超えぬためでございます」
「収入が少ないほうが、借りにくくなるのでは」
「契約では、王国の定例収入の4割を超える返済を禁じております。ただし先王陛下の緊急救済借入は、別枠でございました」
直人は灰色の頁を読み直した。
直人は灰色の頁を指で叩いた。
「普段の収入を少なく見せておいて、洪水だから別に貸してくれ、と頼んだ?」
「はい。緊急借入だけは、4割の上限に含まれない」
リヴィアは灰色の帳簿を押さえたまま、苦いものを飲み込むように答えた。
「帳簿の上では貧しい国ほど、例外の借金を増やせる」
「そのように使われました」
面倒な契約を理解するのに、その4行で足りた。
「商会は、この数字を調べなかった?」
「調べる権利はありました」
リヴィアが答えた。
「ですが、商会の監査人が確認したのは灰色の帳簿と、宮内局が選んだ証書だけです」
「見落としたのか、見ないことを選んだのか」
「分からない」
高い利息に加え、王領と街道まで担保になる。商会が矛盾を見逃したのか、利用したのかは、まだ決められなかった。
直人は金額を紙へ写した。
「つまり、3冊とも嘘なんですか」
「いいえ」
リヴィアは首を振った。
「青には徴税所から財務局へ届いた数字が書かれています。赤には宮内局が王室の収入と費用だと認めた数字が、灰色には契約に従って商会へ提出した数字が」
「それぞれ、自分に都合のいい範囲だけなら正しい」
直人が3冊を順番に指すと、老書記は肩をすぼめた。
「はい」
「だから全員が『自分は嘘を書いていない』と言い逃れられる。でも、国全体の数字はどこにもない」
リヴィアは返事をしなかった。
直人は青い帳簿の末尾を開いた。記帳者の署名が並んでいる。
リヴィア・ファルク。
何度も、その名があった。
「あなたが作ったのですね」
「青い帳簿は、わたしの会計室がまとめました」
リヴィアは署名のある頁へ手を置いた。隠そうとする手ではなく、自分の名が逃げないよう押さえる手だった。
「赤と灰色は?」
「赤は宮内局です。灰色は、3年前まで財務局長が作成していました。局長が病に伏してからは……わたしが数字を移しました」
最後の言葉で、彼女の指先がわずかに震えた。
「数字が違うと知りながら、写した?」
「はい……知っていました」
言い訳を探す間はなかった。
その即答が、かえって重かった。
「誰の指示ですか」
「ボルガン侯爵です。先王陛下の宮内長官として、商会へ出す数字を決めていました」
その名を聞き、老書記が扉のほうを振り返った。誰もいないと分かっていても、長年の恐れは消えていない。
「命令書は」
「ない。毎月、侯爵か部下が口頭で数字を読み上げました」
直人は筆を止め、彼女の顔を見た。責めるより先に、記録が残らない仕組みを確認する。
「拒否しなかった」
「2度、財務局長へ意見書を出しました」
リヴィアの声に、初めて小さな抵抗の色が戻った。
「その後は」
「1度目は返されました。2度目は、灰色の帳簿へ挟んだ翌日に消えていました」
彼女は空になった両手を見下ろした。残しておくべき紙を失った記憶が、そこにあるようだった。
「控えは?」
「ない」
直人は息を吐いた。
証拠を残さず、口頭の命令に従い、提出用の数字を書いた。
東京で直人が拒んだことを、リヴィアはすでにしている。
「それで、諦めたんですか」
声が硬くなったのが、自分でも分かった。
リヴィアの指が、濃紺の袖を握った。
「いいえ。税の猶予記録と、王領の収穫記録を別に残しました」
「どこに」
「第3会計室の床下です」
老書記が顔を上げた。
「主任、それは――」
「監査条件に従います」
リヴィアは直人を見た。
「公式の証拠にはならない。わたしが後から書いたと言われれば、それまでです。ただ、誰が、いつ、どの数字を持ってきたか。分かる範囲で記録しました」
「なぜ最初から言わなかったのですか」
直人が声を抑えて尋ねると、リヴィアは背後の同僚たちが働く部屋へ目を向けた。
「それを出せば、同僚も調べられます。家族を養っている者もいます」
「昨日、回答した者を処罰しない条件を求めた理由は、自分のためではなかった?」
「自分のためでもあります」
リヴィアは逃げずに答えた。
「怖かったのです。職を失うことも、牢へ入ることも。意見書を2度出したことで、責任を果たしたと思おうとしました。わたしがこの手で数字を写しました」
直人は、青い帳簿の署名を見た。
直人は東京で拒み、リヴィアはここで従った。
だが彼女は、床下へ数字の足跡を残した。今は彼女を善人か悪人かに分けるより、その記録が誰の嘘を示すのか確かめる。
「床下の記録を確認します」
「はい」
リヴィアは小さく息を吐いた。許された安心ではなく、調べられる覚悟を整える息だった。
「正直に話したから責任が消える、とは言わない」
「承知しています」
彼女は直人の目を正面から受け止めた。
「同僚も同じです。でも、命令した人、逆らえず従った人、それで利益を得た人を同じには扱わない。責任は、権限と利益の大きさに合わせて分けます」
リヴィアの袖を握る力が、少しだけ緩んだ。
* * *
第3会計室の床板は、机を動かさなければ外せなかった。
下から油紙に包まれた薄い帳面が4冊出てきた。
リヴィアの字で、日付、口頭指示を伝えた者、元の報告額、書き換え後の提出額が記されている。頁ごとに、同席した書記の小さな印もあった。
「契印は?」
「ない。契印官へ持ち込めば、存在を知られます」
これだけでは、本物だという保証にならない。
「徴収所の日誌と同じ数字があれば、証拠になりますか」
リヴィアが尋ねた。
「1冊だけなら弱い。でも徴収所の日誌、青、赤、灰、それにこの4冊で同じ数字を追えれば、どこで変えられたかが見える。後から作った話では、全部の順番まで一致させられない」
「では、最初の数字から追います」
「これを記録庫へ移します」
リヴィアの顔が強張った。
「移動を禁じたのでは?」
「保全のため、立会人と移動記録を残してです。ここは隠すには良くても、燃やすにも盗むにも簡単すぎる」
直人は老書記へ、国璽院と近衛隊から1人ずつ呼ぶよう頼んだ。
「それから、3冊すべてを封印してください。今日から、写しを作るにも記録を残します」
「まだ評議会の許可がない」
「最後の監査契約に文書保全権がある。異議があるなら、朝の評議会で私に言ってもらいます」
老書記は迷った末、頭を下げて部屋を出た。
リヴィアが床下の暗がりを見つめている。
「三崎様は、元の世界でも同じことを?」
「しようとして、止められました」
直人が乾いた笑みを浮かべると、リヴィアの張りつめた表情が少しだけほどけた。
「では、怖くなかったのですか」
「怖かったですよ」
直人は床板を元へ戻した。
「正しいから拒んだというより、私の名前で嘘を出されるのが怖かった。立派な理由だけではない」
リヴィアは少し驚いた顔をした。
やがて、ほんのわずかに笑った。
「それでも、止められた後に拒んだのですね」
「1度だけです。でも、次も同じことができるかは分からない」
「わたしは、次は拒みます。今度は意見書を挟むだけで終わらせない」
朝の鐘が鳴った。
その音に重なるように、廊下を急ぐ靴音が近づいてくる。
開いた扉の向こうで、近衛兵が膝をついた。
「監査人殿。評議会がお呼びです」
兵士は言いにくそうに続けた。
「王冠をお持ちせよ、とのことでございます」
直人は封印された3冊を振り返った。どれか1冊を正しいと決めるのではない。徴収所の最初の記録から、金が移るたびに足跡を追う必要があった。
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