空っぽではない国庫
国庫の扉を開けるのに、鍵が3本必要だった。
三崎直人は、鉄の錠前へ順番に差し込まれる鍵を見ていた。1本目は財務局、2本目は国璽院、3本目は近衛隊が保管する。3人が同時に立ち会わなければ、扉は開かない仕組みらしい。
厳重なのは結構だ。
ただし、金が入っていればの話だった。
最後の鍵が回り、厚い扉が内側へ開く。
灯火を掲げたリヴィアの向こうに、空の棚が並んでいた。
「……金貨46枚と、銀貨7枚です」
彼女は先ほどと同じ数字を繰り返した。
部屋の中央に、小さな鉄箱が1つだけ置かれている。国庫という言葉から想像する宝の山はない。箱の蓋を開けると、底に金貨が6列と少し、銀貨が7枚並べられていた。
直人は数えた。
46枚と7枚。申告どおりだった。
「この部屋にない現金は?」
「地方の徴税所に保管されている分があります。ただ、今日の残高は分からない」
リヴィアは帳面を抱え直した。答えにくい数字ほど、声を小さくせずに告げる。
「王宮の各部署が手元に置いている金は」
「あります。厨房、厩舎、近衛隊、医務室などに、小口の支払金が残っています」
直人がわずかに身を乗り出すと、彼女も意図を察したように顔を上げた。
「では、国庫残高は46枚ではない」
リヴィアが表情を硬くした。
「隠したつもりはない。各部署の金を集めても――」
「責めていない。どこまでを国庫と呼ぶのか、範囲を確かめているだけです」
直人は鉄箱へ視線を戻した。
現金が少ないことは事実だ。だが、目の前の箱だけを見て国家が空だと判断するのも、61億円だけを見せて危険が小さいと言うのと同じだった。
「この46枚は、自由に使えますか」
「いいえ」
鍵を持ってきた財務局の老書記が答えた。
痩せた男は、帳面を胸に抱えたまま一礼した。
「金貨20枚を、明朝に王宮のパンと薪を買う代金に使います。12枚は宮廷医務室の薬代、残る14枚は先王陛下の葬儀準備金として取り置いております」
「銀貨は?」
「使者の馬を替える費用でございます」
つまり、残高はあるが余剰はない。
パン代をヴェスパー商会へ渡せば、朝から王宮で働く者が食べられない。薬代を渡せば、病人が薬を失う。葬儀を縮小する余地はあっても、全額を使えるとは限らなかった。
「箱の金を集めても、返済額の半分にも――いえ、100分の1にも届かない」
リヴィアが言った。
「そうですね」
直人は扉のそばに積まれた空箱を見た。
「じゃあ次は、空箱ではないものを見せてください」
「空箱ではないもの?」
「国は硬貨だけを持っているわけじゃない。税を受け取る権利も、土地も倉庫もあるはずです」
リヴィアは少し考え、老書記の帳面へ目を向けた。
「歳入台帳をお持ちしました。ですが、今年の税はまだ――」
「台帳だけでなく、税を受け取る権利、土地、建物、水路、倉庫。国の所有物と、国へ支払われる約束を全部です」
老書記が困った顔をした。
「それらは国庫ではない」
「現金を置く部屋ではない、という意味ならそのとおりです」
直人は鉄箱の蓋を閉じた。
「でも、国の財政を判断するなら必要です。金がないことと、価値のあるものが何もないことは違う」
* * *
地下の国庫より、財務局の記録庫のほうが乱雑だった。
壁一面の棚に帳簿が詰め込まれ、入りきらない巻物が床の籠へ立てられている。紙、革、乾いた墨の匂いが混じっていた。
リヴィアは迷わず1冊を抜き、長机へ置いた。
「今年度の歳入予定です」
直人には文字が読めた。契約魔法が働いているらしい。ただし、数字の並び方も会計の区分も、日本のものとは違う。
「徴収済みと未徴収の区別は?」
「右端の印です。黒が納付済み、赤が未納、空欄は徴税請負人から報告待ちです」
赤と空欄が、頁の半分近くを占めている。
直人は未納額を足した。途中で貨幣単位を確かめ、もう1度計算する。
「額面では、金貨2,840枚」
「はい。ただし、全額は入らない」
リヴィアは即座に言った。
「北部2村は春の洪水で納期限を延ばされています。西部では昨年の不作が続き、徴収命令そのものを出していない。それに、徴税請負人が集めたまま送っていない分と、本当に集められていない分が混ざっています」
「その区別ができているなら話は早い」
直人がうなずくと、リヴィアは褒め言葉を受け取りかねるように眉を寄せた。
「褒められることでは……」
「払えない人からも取ればいい、と言われるよりずっといい。直すべきなのは村じゃない。集めた税を止めている場所です」
額面2,840枚は、金貨2,840枚の現金ではない。
回収できない税、回収すべきでない税、すでに誰かが回収して隠している税。その3つを分けなければならない。
「徴税請負人との契約書はありますか」
「別の記録庫です」
「全部、所在の一覧を作ってください」
リヴィアは紙へ書き留めた。
直人は次の台帳を開いた。王領から納められる小麦、羊毛、木材。硬貨でなく現物の欄が多い。
「王領は3か所だけですか」
「7か所です。3か所がヴェスパー商会への担保です」
リヴィアは地図の上へ、担保の3か所を示す小石を置いた。
「残り4か所は」
「2か所は洪水で水路が壊れ、収穫が落ちています。1か所はボルガン侯爵家が王宮の馬を育てる名目で管理しています。最後の1か所は、先王陛下の弟君の死後、管理者が決まっていない」
残る4か所へ置かれた小石は、どれも収入につながる線から外れていた。
「収入は?」
「財務局へは、ほとんど」
語尾を濁したリヴィアに、直人は責める視線を向けず、次の事実だけを尋ねた。
「所有権を失ったのですか」
「いいえ」
直人は頁の余白へ指を置いた。
所有している。だが収入が届かない。修繕すれば生産が戻る土地と、誰かが収益を使っているかもしれない土地がある。
すぐ売って借金を返せる資産ではない。
それでも、空ではなかった。
「倉庫は?」
リヴィアが別の棚から、薄い台帳を持ってきた。
「王都に2棟、東西街道沿いに4棟あります。王都の1棟は屋根が崩れ、街道沿いの2棟は商会へ貸しています」
「賃料はどこへ入りますか」
「宮内局です。王室の収入として扱われています」
老書記が気まずそうに喉を鳴らした。国と王家の財布が混ざっていることを、誰も珍しいとは思ってこなかったらしい。
「国の倉庫なのに?」
リヴィアは答えなかった。
代わりに、唇を固く結んだ。
王家と国家の財布が混ざっている。
直人はようやく、空の棚が別の形で見え始めた。
金がないのではない。金になる前の権利が記録庫へ散らばり、金になった後の収入が別の財布へ流れている。
しかも、そのすべてが回収できるとは限らない。倉庫を売れば物流が止まり、水路を放置すれば来年の税収が減る。未納税を急いで取り立てれば、国を救う前に村が壊れる。
資産があることは、支払えることと同じではなかった。
「この国は、空っぽなんじゃない」
直人は未納税の台帳、王領の地図、倉庫の記録を1列に並べた。
「金になる前の権利が放置され、金になった後の収入が別の財布へ流れている。足りないものを数える前に、流れをつなぎ直す必要があります」
リヴィアは3つの記録を順に見た。暗かった灰緑色の目に、初めて「調べれば何かが変わるかもしれない」という光が宿った。
「三崎様」
リヴィアが慎重に呼んだ。
「王国は、救えるのでしょうか」
「まだ分からない」
直人は答えた。
期待だけを与えるのも、危険を小さく見せることになる。
「でも、国庫は空っぽじゃない。今すぐ使える現金が、ほとんどないだけです」
リヴィアが息を止めた。
「違いがあるのですか」
「大きな違いです。土地も倉庫も収入を生める。ただし、7日後の支払いには間に合わない資産ばかりかもしれない」
リヴィアは急いで喜ぶことを自分へ禁じるように、胸の前で帳面を抱き直した。
「では、希望があると?」
「希望じゃなく、調べる価値があるということです。期待で数字を軽くするつもりはない。でも、空の箱だけを見て国を諦めるつもりもない」
リヴィアは唇を引き結び、何度もうなずく代わりに、歳入台帳を直人の正面へ押し出した。
直人は押し出された歳入台帳へ手を置いた。
「だから、監査を引き受けるなら条件があります」
夜明け前の鐘が、遠くで1度鳴った。
残り時間を削る音に聞こえた。
「第1に、王家と国家を問わず、すべての帳簿、契約書、資産、保管場所を私へ開示すること。見せる資料を先に選ばないでください」
「承知しました」
リヴィアは即答し、老書記は驚いたように彼女の横顔を見た。
「第2に、帳簿や契約書を移動、廃棄、書き換えないこと。必要なら、この部屋を封鎖します」
「はい」
今度は老書記も、遅れてうなずいた。
「第3に、私の質問へ答えた者を、その内容だけを理由に処罰しないこと。身分に関係なくです」
そこで、リヴィアは返事を止めた。
「わたしには、貴族や大臣へ命令する権限がない」
「では、権限を持つ人に認めさせてください」
直人の声が硬くなる。リヴィアはその条件の重さを量るように、机上の帳簿へ目を落とした。
「評議会が拒めば?」
「監査は引き受けない。見せたい数字だけで、国を残すか畳むかは決められない」
直人は自分の言葉に、数時間前の東京を思い出した。
計算条件を変え、都合の悪い記録を遠ざけ、それでも作成者の名前だけを残す。
場所が変わっても、信用を壊すやり方はよく似ている。
リヴィアは長机の上の帳簿を見つめた。
「もう1つ、頼んでもいいですか」
「何でしょう」
「その条件を、わたしにも適用してください」
直人は彼女を見た。
「隠したことがあれば話します。わたしが関わった帳簿もあります。でも、告白しただけで正しい側に立てるとは思っていない。わたしも、ほかの人と同じように調べてください」
逃げない言葉だった。
直人は、返事の代わりに右手を差し出した。
「三崎直人。7日間の監査を引き受けます」
リヴィアはその手を見て、一瞬だけ戸惑った。やがて意味を察し、右手を重ねる。
「リヴィア・ファルク。監査に必要な事実を、知る限りすべてお渡しします」
握った手は冷たかった。
けれど、地下契約室で触れたときのようには震えていなかった。
直人が手を離すと、老書記が遠慮がちに咳払いした。
「では、監査人殿。最初に、どの帳簿をご覧になりますか」
「存在する帳簿の一覧からです」
老書記とリヴィアが、同時に黙った。
その沈黙だけで、直人には答えの一部が分かった。
帳簿は、1冊ではない。
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