七日後に滅びる国
目を開けると、見知らぬ女性が自分の手を握っていた。
三崎直人は、もう1度目を閉じた。
呼吸はできる。胸の圧迫感も、先ほどより弱い。背中に触れているのは固い寝台で、鼻には薬草のような匂いが届いている。
少なくとも、駅の床ではない。
救護室だろうか。
だが、手を握っている女性は、紺色の古風な服を着ていた。栗色の髪を低い位置で束ね、疲れた灰緑色の目で直人を見つめている。
「……お気づきですか」
聞いたことのない言葉だった。
なのに、意味が分かった。
直人はゆっくり上半身を起こした。
「ここは、どこですか」
自分の口から出たのも、日本語ではない。
喉と舌が、知っているはずのない音を作っている。
女性が安堵したように息を吐いた。
「エルディア王国、リーゼン王宮の地下契約室です」
答えの中に、知っている地名は1つもなかった。
直人は周囲を見た。
石壁。油の匂いがする灯り。脇に立つ灰色の長衣の老人。壁際には黒い鏡と、王冠を載せた石台がある。
撮影用の設備には見えない。
自分は黒いスーツのままで、シャツの胸元だけが緩められていた。鞄もスマートフォンもない。腕時計は午後11時56分を指したまま止まっている。
直人は右手の指を折った。
親指から順に1本、2本、3本。動く。
両腕を前へ出す。左右に目立った差はない。短い言葉を口に出しても、呂律は回っている。
「胸が苦しいですか」
老人が尋ねた。
「少し。私は駅で倒れたはずです。救急車で運ばれたのですか」
「駅と救急車が何を指すのか、私には分からない」
老人はごまかさなかった。
「私はオルド・セレイン。この王宮の魔術師です。そして、こちらは――」
「リヴィア・ファルクと申します。財務局の書記官です」
女性が直人の手を離し、寝台のそばで深く頭を下げた。
「わたしがあなたをこちらへ呼びました」
直人は2人を見比べた。
「誘拐、という意味ですか」
リヴィアの顔が強張る。
「結果としては、否定できない」
「ファルク主任」
オルドが咎めるように呼んだ。
「事実です」
彼女は直人から目をそらさなかった。
「あなたの意思を尋ねることなく、契約によってお呼びしました。申し訳ないです」
直人は、再び部屋を見回した。
夢だと考えるのが、1番簡単だった。
倒れたときに頭を打ち、病院で意識を失っている。異世界への召喚など、脳が作った荒唐無稽な物語にすぎない。
「証明できますか」
「何をでしょう」
「ここが、私のいた世界ではないことを」
リヴィアとオルドが顔を見合わせた。
オルドは壁際の黒い鏡へ近づき、杖の先を触れさせる。鏡の表面に、青い光が水面のように広がった。
夜の町が映し出された。
石造りの建物。細い路地を照らす橙色の灯火。遠くの城壁と、その向こうに広がる暗い畑。空には、直人が知る月よりわずかに大きい白い月と、その脇に青い小さな月が浮かんでいる。
「外の景色を映しています」
「映像を用意した可能性はあります」
直人が鏡から視線を外さず答えると、リヴィアは困ったように眉尻を下げた。
「では、直接ご覧になりますか」
「その前に、説明を聞かせてください」
直人は寝台から足を下ろした。靴は脱がされ、床には厚い毛織物が敷かれている。
立ち上がると軽い眩暈がした。
リヴィアが腕を差し出しかけ、途中で止める。直人は石台へ手をつき、自分で身体を支えた。
「なぜ、私を呼んだのですか」
「国の会計を監査していただくためです」
直人は聞き間違いを疑った。
「会計監査?」
「はい」
リヴィアは冗談を言った様子もなく、膝の上で濃紺の服の皺を伸ばしている。
「勇者や、魔王を倒す人間ではなく?」
「魔王というものは、少なくともこの国にはいない」
リヴィアは真面目に答えた。
「戦争の予定もない。戦うために呼んだのではない」
「では、何と戦えと?」
「返済期限です」
直人は額へ手を当てた。
夢にしては、ずいぶん仕事から離れてくれない。
オルドが石台の前へ立ち、王冠の下に置かれた薄い石板を持ち上げた。
「最後の監査契約が、あなたを選びました。触れていただけますか」
直人は警戒したが、まず情報が必要だった。
石板の端へ指を触れる。
金色の文字が浮かんだ。
文字の形は見たことがない。それでも、視線を向けると意味が頭へ入ってくる。
『監査人、三崎直人』
『監査期間、7日』
『監査に必要な王国文書の閲覧、関係者への質問、保管庫への立ち入りを認める』
『監査終了時、次の1つを選択せよ』
『1、王国を解散し、資産と債務を整理する』
『2、国内より新王を推薦する』
『3、自ら王位と債務を引き受ける』
『いずれも選ばず辞退するとき、監査人を元の世界へ返還する』
直人は3度読み返した。
「確認させてください。私は7日間、この国の会計を調べる。その後、国を畳むか、誰かを王にするか、自分が王になるかを選ぶ」
「はい」
リヴィアの返事は短かったが、握り合わせた両手に力が入った。
「辞退すれば帰れる」
「契約には、そう記されています」
リヴィアの言い方に引っかかった。
「実際に帰った例は?」
「この契約が発動した記録そのものがない」
「帰還後、私がどのような状態になるかは……」
オルドが答えた。
「分からない。あなたの肉体ごと移動したのか、魂のみを招いたのかも、私には断定できない」
直人は石板から手を離した。
都合の悪い点も隠さない。それが誠実さの証明になるとは限らないが、少なくとも話を作り込んだ詐欺師の説明には聞こえなかった。
「7日というのは、契約の都合ですか。それとも、支払期限が7日後だからですか」
「両方です」
リヴィアは革の書類入れから、1枚の文書を出した。
「王国暦317年、春1月10日の正午までに、ヴェスパー商会へ金貨12,000枚を払う必要があります」
「金貨1枚の価値は?」
「銀貨20枚です。王都では日雇いで働くと、1日に銀貨1枚ほどになります」
単純換算なら、240,000日分の賃金。
人口や税収を知らなければ大きさは判断できないが、すぐ用意できる額ではなさそうだった。
「国庫には、いくらありますか」
リヴィアが答えるまでに、わずかな間があった。
「金貨46枚と、銀貨7枚です」
口にしたリヴィア自身が耐えるように唇を結んだ。
「12,000枚必要で、46枚?」
「はい」
直人は指先で石台を2度叩き、頭の中の換算を確かめた。
「不足は11,953枚と銀貨13枚相当」
リヴィアが目を見開いた。
直人は反射的に計算してから、自分でも嫌になった。
「失礼しました。確認です。支払えなければ、どうなりますか」
「王領3か所と、東西街道の通行料徴収権が20年間、ヴェスパー商会へ移ります」
オルドが杖を握り直した。リヴィアは老人へ目を向けたが、説明を引き取る者はいなかった。
「国の主要収入ですか」
直人の問いに、リヴィアは一度だけ目を伏せてから答えた。
「王領からの収入は国庫歳入のおよそ1割。東西街道からの収入が帳簿上では1割5分です」
「帳簿上では?」
リヴィアの唇が固く結ばれた。
「街道の実際の収入を、財務局は把握できていない」
「徴収記録がない?」
「記録はあります。ですが、王宮へ届く前の数字と、財務局へ報告される数字が一致しない」
リヴィアは膝の上で両手を握り、爪が食い込むほど指へ力を込めた。帳簿の不一致を口にすることが、彼女にとってただの報告ではないと直人にも分かった。
「なら、国に金がないと決めるのはまだ早い。税が足りないのか、集めた後で止まっているのかを分ける必要があります」
直人がそう言うと、リヴィアの指からわずかに力が抜けた。
直人は天井を見上げた。
石の天井には、天秤と王冠が彫られている。
異世界へ呼ばれた。
言葉は魔法で理解できる。
国の財政は破綻寸前で、支払期限まで7日。帳簿の数字も信用できない。
夢でないとすれば、悪夢より悪い。
「先ほど、王国を解散できると言いましたね」
「はい」
「私がそう決めた場合、あなたは従うのですか」
リヴィアは1度、目を伏せた。
その横顔には、眠れていない疲れと、消せない恐怖があった。
「従います」
「あなたが私を呼んだのに?」
「救ってくれる人を呼ぶ契約ではない。国に何が残り、何を諦めるのか、嘘をつかずに決められる人を呼ぶ契約です」
彼女はまっすぐ直人を見た。
「ただし、決める前に、すべてを見てください」
直人は返事をしなかった。
帰れる可能性はある。
ならば、7日後に辞退すればいい。ここで見たものが夢なのか現実なのか、それまでに確かめればいい。
だが監査をするなら、条件がある。
「まず、国庫を見せてください」
「今からですか」
リヴィアは窓のない地下室を見回した。休ませたい気持ちと、時間を失えない焦りが、その逡巡に同居していた。
「7日のうち、もう何時間か使ったのでしょう」
「召喚から、まだ1時間も経っていない」
直人は止まった腕時計へ目を落とした。東京では動かない針が、ここでは期限だけを進めている。
「では、残りは6日と23時間です」
絶望するには短い。だが、数字を確かめるには使える時間だ。
直人は床に置かれていた靴へ足を入れた。
「それと、見せる帳簿をそちらで1冊に決めないでください。存在する帳簿も契約書も、倉庫の鍵も、全部見せてもらいます」
リヴィアの顔に、初めて驚き以外の表情が浮かんだ。
ほんのわずかな、安堵だった。
「承知しました、監査人様」
「三崎で結構です。まだ、引き受けたとは言っていない」
「はい。三崎様」
彼女は訂正した。
その声は、先ほどまでより少しだけ強かった。




