地下の契約室
国を救うための契約が、本当に国を救うとは限らない。
王宮地下の石扉を前にして、リヴィア・ファルクは今さら、その当然のことに気づいていた。
扉には鍵穴がない。
建国王の冠をかたどった浮き彫りと、その下に古い文字が刻まれている。
身分と血を問わず、債務と民への約束を正しく量り、信用を守るために自ら損を負える者を招く。
財務局の記録庫で初めて文言を見つけたとき、リヴィアは伝説だと思った。
王統が絶えたとき、国を導く賢者が現れる。
子ども向けの物語には、そう書かれている。賢者は決まって白い髭の老人で、金貨の湧く杖を振り、国庫を満たしてくれる。
現実の契約文には、金貨が湧くとも、国が救われるとも書かれていなかった。
招く。
ただ、それだけだった。
「まだ戻れます」
背後から、オルド・セレインの声がした。
王宮魔術師は68歳だった。灰色の長衣をまとい、片手に小さな灯火石を持っている。青白い光が、深く刻まれた顔の皺を照らしていた。
「評議会の許可なく王統契約へ触れれば、よくて終身投獄。悪ければ国家反逆罪です」
「評議会は、新王を選べましたか」
オルドは答えなかった。
日暮れの鐘が鳴る少し前、先王アルベルト四世が倒れた。
執務室で大臣と話している最中、胸を押さえ、そのまま床へ崩れた。宮廷医が駆けつけたときには呼吸が止まっていたという。
先王に子はいない。弟と甥は3年前の流行病で亡くなっている。
血筋の近い貴族が3人、王宮へ呼ばれた。
3人とも、評議会の聞き取りでは王位を拒み、暫定辞退届へ署名した。
国を見捨てたからではない。
少なくとも、彼らはそう主張した。
先王がヴェスパー商会から借りた金には、新たに王位へ就く者が国家債務を個人でも保証するという条項がある。王になった瞬間、王室だけでなく自分の領地と一族の財産まで、商会へ差し出す危険があった。
春1月10日の正午までに、金貨12,000枚。
支払えなければ、ヴェスパー商会は王領3か所と、東西街道の通行料徴収権を接収する。
期限まで7日。
リヴィアが最後に確認した国庫の金は、金貨46枚と銀貨7枚しかなかった。
「評議会は明日の朝、もう1度協議するそうです」
オルドが言った。
「同じ方々が、朝になれば金貨12,000枚と国家債務を引き受けるのですか」
「ほかの方法を探す時間はあります」
「今夜の分だけ減りました」
リヴィアの声は、思ったより冷たく響いた。
石造りの地下通路は寒い。手の指先が震えているのは、そのためだと思いたかった。
先王は善良な人物だった。
少なくとも、飢饉の村から税を取り立てることを嫌い、洪水で家を失った者へ王領の木材を与える人だった。
だが、善良であることと、国を運営できることは同じではない。
先王は不足する金を借金で補った。税が足りなければ借り、洪水が起これば借り、流行病が広がれば、また借りた。
借りた金で救われた人はいる。
同時に、返済のために苦しんでいる人もいる。
誰も、その2つを同じ帳簿へ書こうとしなかった。
「ファルク主任書記」
オルドが役職で呼んだ。
「あなたが契約を発動したと知られれば、私はかばえない」
「かばってもらうつもりはない」
リヴィアは胸元で両手を組んだ。指先は白くなるほど強く握られているのに、視線だけはそらさなかった。
「ならば、なぜ私を連れてきたのです」
「わたしには古代文字を正しく読めない。間違った手順で国を滅ぼすくらいなら、罪人が1人増えるほうがましです」
オルドは目を閉じた。
「ひどい誘い方ですな」
「ごめんなさい。でも、ほかに頼める人がいない」
「謝るくらいなら、もう少し言葉を選びなさい」
叱りながらも、オルドは帰ろうとしなかった。
長衣の内側から、黒い石の板を取り出す。建国王の国璽を押し当てると、石扉の文字が淡く光った。
『王統が絶えしことを証せ』
石を擦るような音が、扉の向こうから聞こえた。
オルドが先王の死亡証明と、王族名簿を床へ置く。2枚の文書には宮廷医、国璽官、神殿長の契印があった。
扉の光が1度、脈打った。
『債務不履行が迫ることを証せ』
リヴィアはヴェスパー商会の支払請求書を置いた。
金貨12,000枚。
春1月10日、正午。
契印が赤く光る。文書が本物であり、署名後に改竄されていないという印だった。
『国内に、責任を負う適格者なきことを証せ』
リヴィアの喉が詰まった。
これは、文書だけでは証明できない。
王位候補3人の暫定辞退届と、評議会の聞取記録を並べる。債務の全容を本人へ開示した後の最終意思確認は、まだ済んでいない。財務長官は先月から病気を理由に登庁していない。宰相も、王位を選ぶ権限は評議会にあると繰り返すだけだった。
それでも、国内に1人もいないと、どうして言い切れるのか。
リヴィア自身はどうなのか。
平民の書記官に王位資格はない。軍も領地も持たない。金貨12,000枚を用意する知恵もない。
だが、責任を負う資格がないことと、負うつもりがないことは違う。
リヴィアは右手を石扉へ当てた。
「わたし、リヴィア・ファルクは王国の帳簿を知りながら、破綻を止められなかった」
オルドが息を呑んだ。
「先王陛下が借金を増やしていると知っていました。財務局が3種類の帳簿を作っていることも知っていました。上官へ意見を出し、退けられ、それで責任を果たしたつもりになっていました」
扉は反応しない。
「わたしには、この国を救う方法がない。でも、国外の誰かへ責任を押しつけて、救われる結果だけを受け取るつもりもない。招かれた人が望むなら、すべての帳簿を開きます。処罰も負担も、わたしが一緒に受けます」
石の下で、何かが動いた。
淡い金色の線が、リヴィアの手のひらから文字へ広がっていく。
『証を受理した』
低い音とともに、扉が内側へ開いた。
部屋は円形だった。
中央の床に、天秤を囲む7つの輪が刻まれている。壁際には、王冠を載せた石台と、何も映していない黒い鏡があった。
オルドが灯火石を高く掲げる。
「ここから先は、記録にもない」
「発動方法は?」
「契約へ問いなさい。答えがなければ、今夜は諦めることです」
リヴィアは中央の天秤へ近づいた。
左の皿には、古びた金貨が1枚載っている。右の皿は空だった。
触れようとすると、文字が浮かんだ。
『信用を守るため、自ら損を負いし者を求むるか』
「求めます」
返事と同時に、リヴィアの肩が小さく揺れた。それでも、契約文から目を離さない。
『招かれし者へ、7日の監査権と帰還の選択を与えるか』
「与えます」
今度の声は先ほどより低かった。オルドが隣で息をのみ、石台の光を見守った。
『招かれし者が王国の解散を選ぶ可能性を受け入れるか』
リヴィアの指が止まった。
国を救う賢者が来るのではない。
呼ばれた人物は、帳簿を見て、救う価値がないと判断できる。
王領を売り、国を分割し、民を隣国へ委ねるかもしれない。
それでも、何も知らない人物を呼び、7日で決めさせるのか。
「……受け入れます」
自分の声が震えた。
「ただし、すべての事実を知らせます。救うことも、解散することも、嘘で選ばせない」
『契約は、汝の条件を受理した』
天秤の金貨が、ひとりでに持ち上がった。
黒い鏡へ亀裂のような光が走る。
風のない地下室で、リヴィアの髪が強くなびいた。床の7つの輪が順番に輝き、光が天井まで立ち上がる。
誰かの声がした。
聞いたことのない言葉だった。
苦しそうな呼吸。何かが床へ落ちる音。遠くから人々が叫んでいる。
次の瞬間、黒い鏡から人影が投げ出された。
リヴィアは反射的に両腕を伸ばした。
だが支えられる重さではなかった。
「きゃっ……!」
2人そろって石床へ倒れ込む。
現れたのは、白い髭の賢者ではなかった。
濡れた黒髪。見たことのない仕立ての服。細い銀色の縁の眼鏡をかけた、30代ほどの男だった。
顔色は青白く、呼吸をしていないように見えた。
「オルド様!」
老魔術師が男の首へ指を当てる。
「脈はある。弱いが、生きています」
リヴィアは、男の冷たい手を握った。
助けを求めて呼んだ相手が、助けなければ死にそうになっている。
契約の金色の文字が、男の胸元に浮かんだ。
『監査人を受理した』
リヴィアは自分が何をしてしまったのか、ようやく理解した。




