信用を売らなかった男
午前0時まで、あと41分。
三崎直人が最初に保存したのは、428億円という結論ではなかった。
計算に使った株価、売買高、北辰キャピタルの申告資料。どの情報から、どの条件を選び、その結果へ至ったのか。後から同じ手順をたどれるよう、1つずつ保存していく。
数字だけ残しても、根拠を消されれば意味がない。
根拠だけ残しても、誰が変更したか分からなければ、操作ミスとして処理される。
直人は変更履歴を開いた。
20時32分。株価下落率が30%から12%へ変更。
20時35分。1日当たりの売却可能量が、平均売買量の20%から100%へ変更。
20時39分。北辰からの未回収率が40%から5%へ変更。
3つの操作履歴すべてに、黒田統括部長の利用者名が残っていた。
直人は変更前後の記録を、監査用の保全領域へ複製した。保存した時刻と元データの識別番号が自動的に記録され、本人を含めて上書きできない領域だ。
通常の業務で使う場所ではない。重大な不正や事故の疑いがあるとき、内部監査部へ調査を依頼するために設けられている。
登録理由の入力欄で、直人の指が止まった。
不正と断定する証拠はない。
黒田には、計算条件を変更する権限がある。案件の見方が違うだけだと主張するだろう。厳しすぎる条件を現実的なものへ直した、と。
直人は「損失想定の重要条件が、作成責任者への事前確認なく変更されたため」と入力した。
事実だけでいい。
判断するのは監査部だ。
保存ボタンを押す。
画面に小さな円が回り始めた。
10秒。
20秒。
やがて、赤い文字が表示された。
権限がない。
「数字を消すより先に、俺の手を止めたか」
直人は時刻を見た。23時22分。
さきほどまで利用できた保全領域への書き込み権限が停止されている。偶然の保守作業とは考えにくかった。
黒田は午前0時まで待つと言った。
直人が考え直すのを、ただ待っていたわけではない。
内線が鳴った。
表示は部長室ではなく、情報管理部だった。
「三崎です」
『情報管理の荻野です。いま監査保全領域へ、大容量の登録をかけましたか』
受話器の向こうでは、複数のキーボード音が重なっていた。荻野も誰かに見張られながら話しているように、声を潜めている。
「はい。北辰案件の変更記録です」
『黒田部長から、作業中のデータに破損の疑いがあると連絡がありました。1度、端末をネットワークから切り離します』
「破損ではない。損失条件を変更した履歴です。調査が必要なので、保全を――」
画面が暗くなった。
数秒後、中央に「接続が失われました」と表示される。
『三崎さん?』
「端末が切断されました」
『こちらで止めました。端末には触らず、そのままお待ちください』
電話の向こうで、荻野は命じられた作業をしているだけだ。直人の説明が正しいかどうかを、その場で判断できる立場でもない。
「分かりました。ただし、この通話記録と、私がデータ保全を依頼した時刻を残してください」
『……承知しました』
電話が切れた。
直人は暗くなった画面へ自分の顔が映っていることに気づいた。目の下に濃い影がある。昼に買ったサンドイッチは半分残ったまま、机の端で乾いていた。
端末に触れるなと言われた以上、操作はできない。
だが、直人が紙のノートへ記録することまでは止められなかった。
23時22分、監査保全領域への登録を拒否。
23時24分、情報管理部の荻野から連絡。黒田部長の指示により端末を切断。
直人は青いペンで書き、そのページをスマートフォンで撮影した。
会社の資料を私物の端末へ移すことはできない。だから数字の詳細は撮らない。直人は、自分で書いた時刻と、誰からどのような連絡を受けたかだけを撮影した。
次に、社用携帯から内部監査部の緊急窓口へ電話をかけた。
4回目の呼び出し音で、自動音声へ切り替わる。
『受付内容を録音してください。重大な法令違反または顧客資産への影響が疑われる場合は、冒頭でその旨を――』
「リスク統括部の三崎直人です。北辰キャピタル案件について、損失想定の重要条件が私の承認なく変更されました。変更後の数字で、私を作成責任者とする報告書への承認を求められています」
直人は、確認できた事実だけを話した。
北辰が虚偽の申告をしたとは断定しない。黒田が会社へ損害を与えようとしたとも言わない。
元の条件、変更後の条件、変更者名。監査保全領域へ記録しようとした後で権限を止められたこと。情報管理部から端末を切断されたこと。
「午前0時までに承認するよう指示されています。私は承認しない。原資料と変更履歴の保全を依頼します」
録音を終了した。
受付番号が読み上げられる。直人はノートへ書き留め、復唱した。
これで、少なくとも問題を報告した記録は残る。
部長室の扉が開いた。
黒田がゆっくり歩いてくる。その後ろには、情報管理部の社員と、警備員が1人ずついた。
「三崎。端末から離れろ」
「すでに切断されています」
「社用携帯も置け」
直人は机に携帯を置いた。
黒田は暗い画面を見てから、机のノートへ視線を落とした。
「会社の情報を持ち出したか」
戻ってきた黒田は扉を閉め、直人の机の脇に立った。座れとは言わない。
「持ち出していない。監査部へ事実を報告しました」
「勝手なことを」
「正式な手続です」
直人が画面の受付番号を示すと、黒田は一瞬だけそこへ目を落とし、すぐに顔をそむけた。
「お前が騒げば、北辰との関係だけで済まない。根拠のない疑いを外へ漏らしたと判断されれば、会社の信用に関わる」
「外へは漏らしていない」
黒田の顎が強張った。問題が外へ出たことではなく、社内で止められなくなったことを恐れている顔だった。
「同じことだ。監査が動けば、取締役会への提出が止まる」
黒田は声を荒らげなかった。
むしろ諭すような口調だった。
「いまなら間に合う。検証途中の誤登録だったと説明しろ。61億の報告書を承認すれば、俺が収める」
直人は黒田を見た。
黒田は悪意だけで動いているのではないのかもしれない。大きな案件を成立させ、会社の利益を守り、自分の部下も守る。それが責任だと本気で考えている可能性もある。
だからこそ、質が悪かった。
「北辰が破綻しなければ、黒田部長の賭けは当たります」
「そうだ」
「でも、賭けが当たることと、危険を隠していいことは別です」
黒田の表情が消えた。
「承認しない」
直人は続けた。
「私の名前で出すなら、428億の想定と変更理由を残してください」
警備員がわずかに身じろぎした。
黒田は、机に置かれた社用携帯を手に取った。画面を確認し、情報管理部の社員へ渡す。
「三崎の権限を全部止めろ。月曜まで自宅待機だ」
「承知しました」
「私物だけ持って帰れ。ノートは会社に置いていけ」
直人は一瞬だけ迷い、ノートを閉じた。
業務上の記録を含む以上、持ち出せない。だが受付番号と時刻は、自分のスマートフォンにも残っている。
鞄に財布、鍵、眼鏡のケースを入れた。乾いたサンドイッチは、ごみ箱へ捨てた。
社員証を警備員へ渡す。
23時48分だった。
* * *
雨は弱くなっていた。
直人は会社を出て、地下鉄の駅へ向かった。傘を開くほどではない。濡れた歩道へ、街灯と車の赤い光が細長く映っている。
監査部から折り返しはなかった。
金曜の深夜だ。月曜まで何も動かない可能性もある。その間に、北辰の案件が承認されるかもしれない。
端末も社員証も取り上げられた。それでも、黒田が消せない場所へ通報時刻と受付番号を残した。直人が自分の信用を守るために打てる手は、すべて打った。
駅の階段を下りたところで、胸の奥が重くなった。
痛みというより、内側から強く押される感覚だった。直人は足を止め、壁へ手をつく。
寝不足だ。
そう思った。
今週は3日、終電近くまで働いている。夕食も取っていない。呼吸を整えれば治るはずだった。
だが、吸い込んだ空気が途中で止まる。
視界の端から、駅の白い床が暗くなった。
「大丈夫ですか?」
誰かの声がした。
直人は返事をしようとしたが、言葉にならなかった。
膝が落ちる。
床へ倒れる寸前、スマートフォンが手から滑った。画面には、内部監査部へ通報した受付時刻が表示されている。
少なくとも、記録は残した。
それが最後の考えだった。
暗闇の中で、声が聞こえた。
『債務と約束を量る者』
男とも女とも分からない声だった。
『利益より信用を選び、自ら損を負う者』
遠くで、鐘が鳴っている。
1度。
2度。
東京の駅に、鐘などあるはずがなかった。
『汝に、7日の監査を求める』
意味を尋ねる前に、冷たい石の感触が直人の背中を打った。
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