消された損失
損失額が、367億円も消えていた。
金曜日の22時47分。東央証券本社のリスク統括部で、三崎直人は画面に顔を近づけた。
想定損失、61億円。
2時間前まで、そこには428億円と表示されていた。
「見間違える額じゃないな」
空調だけが答えた。広い執務室に残っているのは4人。離れた席の3人は、直人と目を合わせようともしない。窓の外では細い雨が東京の明かりを滲ませている。
直人はマウスから手を離し、紙のノートを開いた。
日付、参照価格、計算条件。検証した数字は手元にも残す。今どき紙かと笑われる癖だが、画面の数字が勝手に化けた夜には役に立つ。
青いペンで「42.8」。単位は10億円。
記憶違いでも、入力ミスでもなかった。
東央証券が新しい取引を持ちかけられている北辰キャピタルは創業者一族の資産だけを運用する会社だ。外部の投資家を募らないため、一般の投資信託ほど詳しい情報開示を求められない。
見えないこと自体は違反ではない。
だが、見えない相手へ1,200億円規模の信用を与えるなら、見えない部分ほど厳しく測らなければならない。
北辰が東央証券へ差し入れる当初担保は180億円。投資先は大型株3銘柄が中心だが、他社との取引まで含めれば十分に分散していると申告している。
直人は、その説明を信じなかった。
3銘柄には半年ほど前から、決まった時間帯に大口の買いが入っていた。株価が下がりかけると買いが増え、終値を押し上げる。それだけの株を買っているはずなのに、大量保有者の名簿に北辰の名前はない。
名前を出さずに株価の上げ下げだけを引き受ける方法がある。
株式連動スワップだ。
北辰は金融機関へ担保と手数料を渡し、株が上がれば利益を受け取る。下がれば損失を払う。金融機関は自分の危険を減らすため、代わりに現物株を買う。
北辰の名は表へ出ない。少ない元手で、大きな投資ができる。
1社とだけなら、東央証券にも全体像が見える。
だが北辰が同じ説明を使い、何社もの金融機関から金を引き出していたら。
それぞれの会社には小さく見える取引が、市場全体では逃げ道のない巨大な賭けになる。
直人は計算条件の変更履歴を開いた。
最初に株価の下落率が変えられていた。
30%から12%。
次は、暴落時に1日で売れる株数。普段の売買高の20%しか処分できない想定が、普段と同じだけ売れることになっている。
最後は、北辰から回収できない損失の割合。40%が5%へ変わっていた。
株は少ししか下がらない。暴落しても普段どおり売れる。破綻した相手からも、ほとんど全額を回収できる。
そんな都合のいい危機なら、損失は61億円まで縮む。
「危機じゃない日の数字で、危機を計ってどうする」
直人の声が、今度は思ったより大きく響いた。
離れた席の1人が肩を揺らしたが、振り返らなかった。
皆が同じ株を持ち、同じ日に逃げようとすれば、売りたい量だけが増えて買い手は消える。売るほど値は下がり、その下落で追加担保を求められる。北辰が払えなければ、別の金融機関も回収のために売り始める。
損失は消えたのではない。
計算の外へ追い出されただけだ。
直人は眼鏡を外し、眉間を押さえた。
5年前、アルケゴス・キャピタルという投資会社が、よく似た仕組みで破綻した。
複数の金融機関が同じ相手と取引し、どの会社も自分の見える範囲では担保が足りていると思っていた。相手が少数の株へどれほど集中しているか、誰も全体を知らなかった。
追加担保が払えなくなった瞬間、各社は一斉に同じ株を売った。先に逃げた会社と、顧客を信じて交渉を続けた会社。その数時間が、損失を分けた。
直人は当時の検証資料を作った。
研修では何度も使われた。「同じ失敗を繰り返さないために」と、立派な表紙までつけられた。
その会社が今、同じ穴の前で、儲かりそうだから目を閉じようとしている。
内線電話が鳴った。
2度目の呼び出し音が、静かな室内を切り裂く。画面にはリスク統括部長室の番号が表示されていた。
「三崎です」
『まだいるな。来てくれ』
黒田統括部長は、それだけ言って切った。
* * *
部長室のブラインドは半分下りていた。
黒田は上着を椅子の背へ掛け、白いシャツの袖を捲っている。机には空の栄養飲料と、北辰案件の分厚い資料が並んでいた。
「座れ。再計算は見たか」
声は平静だったが、人差し指が机を一定の間隔で叩いていた。直人が新人の頃から、黒田が追い詰められたときにする癖だ。
「見ました。私が設定した条件が3つとも変わっています」
「営業と相談して、現実的な数字に直した。30%下落なんて厳しすぎる。大型株3銘柄が、全部そこまで落ちると思うのか」
「別々に持っているなら、同時には落ちにくい。でも北辰を通じてつながっているなら、一緒に売られます」
直人は持参した照合表を、黒田の前で開いた。
「東央に申告された残高では、市場に出ている買いの量を説明できない。北辰は他社とも同じ取引をしている可能性が高い。他社分を確認しないまま、分散しているとは判断できない」
「可能性で案件を止めるのか」
黒田は表へ目を落とした。読み始めたと思った直後、紙を閉じる。
「止めるんじゃない。総取引額と、銘柄別の実質保有額を出させる。それで本当に分散しているなら、条件を戻せます」
「北辰は今年度最大の案件だ。手数料だけで年間20億。追加資料を求めて時間をかければ、競合へ行く」
20億と口にしたときだけ、黒田の目に熱が戻った。
「急ぐ理由にはなります。でも、危険を小さくする理由にはならない」
「三崎」
机を叩く指が止まった。
「お前は昔から、100年に1度の危機を毎年心配する。そんなことをしていたら、何もできん」
直人は奥歯を噛んだ。
何度も聞いた言葉だった。
世界恐慌、アジア通貨危機、LTCM、リーマン・ショック。過去の破綻をもとに条件を厳しくするたび、営業は「そんな事件が何度も起きるか」と笑った。
17歳の秋、父の会社は海外取引先の倒産で注文を失った。
父は投資家ではない。自動車部品を作る技術者だった。それでも冬の賞与は消え、母が食卓で家計簿を開く時間が増えた。直人は志望していた私立大学を受験先から外した。
金融危機は、金融を知らない人の家にも請求書を送ってくる。
「100年に1度でも、明日起きるかもしれない。それにこれは想像だけの話じゃない。市場の数字が、もう北辰の申告と合っていない」
「理屈を聞きたいんじゃない」
黒田は資料の表紙を直人へ向けた。
「取締役会へ出す損失額は61億でいく。お前の報告書も、その数字に合わせて直せ」
作成責任者の欄には、三崎直人と印字されていた。
まだ承認していない。黒田もそれを知っている。それでも報告書は、すでに直人の判断という顔をして机に載っていた。
「この名前は使わせない」
直人が表紙を押し返すと、黒田の眉間に深い線が入った。
「なら今夜中に承認しろ。午前0時まで待つ」
「元の428億円を主要シナリオへ戻し、変更した条件と理由を併記してください。北辰の全体像が確認できるまでは、それが最低条件です」
「命令だ」
短い声だった。
窓を流れる雨粒の向こうで、東京の光が歪んでいる。直人は黒田の顔を見た。怒っているというより、焦っていた。
案件が流れたら、営業以外にも困る人間がいる。年間20億の収益は、もう社内の計画に組み込まれているのだろう。
だからこそ、61億円という答えが先に必要だった。
「承認できない」
「……もう1度言え」
黒田が身を乗り出し、ネクタイの結び目を乱暴に緩めた。
「危機が起きない前提で作った損失額を、私の報告書としては出せない。428億円が間違いだと言うなら、資料を集めて計算で崩してください。数字を消すだけでは、損失は消えない」
「20億の利益を逃したら、責任を取れるのか」
「危険を隠して1,200億円の取引を始めるよりは、取れます」
黒田は直人を睨んだ。
やがて視線を外し、別の資料を乱暴に開いた。
「午前0時までだ。席へ戻って、よく考えろ」
「考えても結論は変わらない」
直人が立ち上がっても、黒田はもう顔を上げなかった。
* * *
部長室を出ると、残っていた3人はいつの間にか帰っていた。
直人の机だけが、白い照明の下に浮かんでいる。
報告書を開く。
作成者、三崎直人。
想定損失、61億円。
承認欄には、空白の四角が1つ。
押せば今夜の仕事は終わる。北辰が破綻しなければ、会社は20億円を稼ぎ、黒田も直人を評価する。来年には部下を持てるかもしれない。
破綻したら、想定外だったと言えばいい。
他社にも分からなかったと説明すればいい。
それで失うのは、自分の金ではない。
直人は承認欄へカーソルを重ねた。
隣の画面には、削除された計算条件の履歴が残っている。誰が、いつ、どの数字を変えたか。通常画面から消されても、記録そのものがすぐに消えるわけではない。
時刻は23時06分。
午前0時まで、あと54分。
直人は承認欄からカーソルを外した。
「俺の名前で、誰かの損失を消させるものか」
新しい保存領域を開く。
428億円が消された証拠を、直人は1つずつ集め始めた。
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