銀貨が消えた朝
約束した回答は、届かなかった。
朝の鐘が2つ鳴ったころ、回答を受け取りに行った財務局書記が王宮へ駆け戻ってきた。息を切らし、握ったままの照会書を直人へ差し出す。
「銀行が開かない。扉に、払戻し停止の紙が張られています」
直人は椅子を引いた。
「リヴィア、行こう。ガレンには馬車と近衛を頼む」
王宮は王都北側の低い丘にあり、リーゼン銀行は約1.5キロ離れた中央広場の東端にある。歩けば25分ほど、急ぎの馬車なら10分だった。
王宮上階の窓から中央広場は見えるが、銀行の扉に張られた紙までは読めない。馬車が丘を下るにつれ、預り証を持った人々が同じ方向へ走っているのが見えた。
直人たちが中央広場へ着いたとき、朝の3つ目の鐘が鳴っていた。
約束した回答の代わりに、リーゼン銀行の扉は閉じていた。
王国暦317年春2月9日。王都最大の銀行の前には、開店を待っていた人々が取り残されていた。
直人が前日に求めた窓口現金も、南倉庫へ運んだ3箱の目的も、何ひとつ説明されていない。
扉に打ち付けられた白い紙には、『本日、銀貨の払戻しを一時停止する。預り証は無効としない』とある。
「無効じゃないなら、どうして返さないの!」
パン屋の女が預り証を握り締めていた。粉屋への銀貨7枚を明朝までに払えなければ、小麦粉を渡してもらえないという。
「粉が来なければ、いつ窯が止まるの?」
リヴィアが尋ねると、女は唇を震わせた。
「明日の昼です。今ある分で朝のパンまでは焼けます。でも粉屋は、支払いがなければ次の荷を別の店へ回すと言っています」
リヴィアの手が一瞬固く握られた。父の店が火を落とした8日間より、この女に残された時間は短い。
「相談票に銀貨7枚と明日の朝、と書いて。順番を約束はできない。でも、その期限を数字の外には置かない」
女は何度もうなずき、預り証を抱えたまま受付机へ向かった。
仕立屋は、今日中に布を引き取れなければ職人を遊ばせることになる。薬草売りは薬の仕入れ代を下ろしたい。扉の前で押し合う人々には、それぞれ別の期限があった。
近衛兵を連れたガレンが、直人へ低く尋ねた。
「列を解散させるか?」
「追い払わない。入口と荷車を守って、押し合いだけ止めてくれ」
直人は銀行の扉ではなく、列へ向き直った。
「番号札を配ります。預金額ではなく、次の支払日と、払えなければ何が止まるかを書いてください。怒鳴った順にも、身分の順にもしない」
「紙を書けば銀貨が出てくるのか」
大きな預り証を持つ商人が声を上げた。
「出てくるとは約束できない。銀行に銀貨が何枚残り、どこへ動いたかもまだ分からない。でも、何も聞かず全員を待たせれば、先に店が止まる人から消えます」
リヴィアが財務局の書記を3人呼び、前日に作った相談票を配った。
次の支払日はいつか。
何が止まるか。
あと何日待てるか。
父のパン屋の跡地で決めた3つの問いだった。
列の怒りは消えない。それでも話を聞く机が開くと、押し合いは少しずつ収まった。
* * *
銀行の中では、細い眼鏡の男が支店長代理を名乗った。
「大口の引出しが重なっただけです。国王陛下が安全だと宣言し、国庫から一時的に銀貨を入れてくだされば、すぐ扉を開けられます」
「銀行が安全かどうか、まだ確認していない」
支店長代理は眼鏡を押し上げ、外の怒声へ耳を澄ませた。列の恐怖そのものを、国へ金を出させる材料にしている。
「陛下が疑えば、噂が本当になってしまいます」
「噂を止めるために、他人の金を入れるつもりはない」
直人は机の上へ4枚の札を置いた。
国庫の自由現金0枚。
国内債権者用銀貨9枚。
北倉庫契約用銀貨20枚。
王家遺産封印金、金貨412枚。
「9枚と20枚には、すでに待っている相手がいます。412枚も王家遺産として封印されています。銀行へ入れれば、別の人との約束を破って穴を隠すだけです」
支店長代理は412枚の札へ未練がましい視線を向けた。
「では、預金者を見捨てるのですか」
「国が金を入れることと、預金者を守ることを同じにしないでください」
直人は銀行の現金箱、預金原簿、貸付帳、担保証書、荷車記録、南倉庫の鍵を机へ出させた。
そのとき、若い銀行員が厚い帳簿を抱えて裏口へ向かった。ガレンが扉の前へ回り込み、進路を塞ぐ。
「日々の締めに使う帳簿です。支店へ運ぶだけです」
支店長代理が説明した。
「運ぶなとは言わない。何を、誰が、何時に持ち出すかを残し、同じ写しを財務局へ置いてからです」
直人が答えると、銀行員は帳簿を受付台へ戻した。普段の仕事を装えば記録を外へ出せる時間は、その場で終わった。
「まず、銀行の中に残っているものを守ります。株主や役員だけが先に持ち出せないようにする。帳簿を確かめる前に、国民の金では埋めない」
保全命令には、銀行、財務局、近衛隊が署名した。金庫と倉庫の鍵も3者が1本ずつ持つ。誰か1人では現金を動かせない。
支店長代理の顔から、国庫を当てにした余裕が消えた。
* * *
「銀行の扉を全部閉じる必要はない」
直人が告げると、支店長代理は驚いた。
「銀貨を返せないのに、何を開けるのです?」
「現金の引出しと、商売の支払いは別です」
直人は2冊の預金帳を並べた。
朝市のスープ店が、野菜商へ代金を払おうとしている。どちらもリーゼン銀行に口座を持っていた。
「左の帳簿から野菜代を減らして、右の帳簿へ同じ額を足す。銀行が2人へ負っている合計は変わらず、銀貨箱も開けない」
支店長代理が帳簿をのぞき込む。
「払戻しを止めた以上、帳簿も動かせない」
「その決まりは誰を守るためです?」
直人は2冊の帳簿の間へ、銀貨を1枚も置かなかった。
「取り付けを広げないためです」
「帳簿の振替まで止めれば、野菜商は次の荷を渡さず、スープ店は鍋を止めます。銀行の現金を1枚も減らさずに通せる支払いまで止めるほうが、町の恐怖を広げます」
直人は不正送金を防ぐため、本人の預り証、元の注文書、受取人の口座を3つそろえた取引だけに限定した。役員、株主、その家族への振替は、調査が終わるまで止める。
スープ店の女と野菜商が、閉じた扉の内側へ呼ばれた。
「銀貨は受け取れないのですか」
野菜商が不安そうに尋ねた。
「今日は帳簿の中で受け取ります。増えた残高について、銀行と財務局が同じ受領証を出します」
「それなら、午後の野菜は渡せます」
野菜商が署名し、最初の小口決済が動いた。
扉の外へ戻ったスープ店の女が、待っていた荷車引きへ大きくうなずく。野菜の籠が市場へ向かって走り出した。
現金の払戻しは止まったままだ。
それでも町の鍋は、1つ動き出した。
さらに、銀行内で確認できた窓口現金から、生活費と当日決済に限り1人銀貨12枚までの仮受付を始めた。全員への支払保証は付けず、国の金も使わない。残高、用途、期限を確かめ、銀行自身の現金から払える分だけを同じ基準で処理する。
銀貨3枚の預り証を持つ老人が、最初に現金窓口へ呼ばれた。
「娘の家へ行く馬車賃です。今日の便を逃すと、次は5日後になる」
行員が口座残高と馬車宿の料金札を確かめる。直人は銀行の窓口箱から銀貨3枚を数えさせ、財務局書記と行員の2人で受領証へ印を押した。
老人は受け取った銀貨を何度も数えた。
「国王様がくれた金ですか?」
「預けていた本人の金です」
直人が答えると、老人は銀貨を小さな革袋へ戻した。
「自分の金なら、礼を言う相手を間違えずに済む」
老人は少しだけ背を伸ばし、馬車宿へ向かった。必要な日に、自分の預金を3枚だけ取り戻した。その事実を確かめるように、受取票を握っていた。
大口の全額払戻しと、理由のない役員送金は止めたままにした。
「少額だけを先にするのは不公平だ」
先ほどの大商人が抗議した。
「今日払わなければ薬や食事や仕事が止まる取引を、公開した同じ基準で先に通します。商売に今日の期限があるなら、同じ相談票へ書いてください」
商人は不満そうだったが、怒鳴って順番を買うことはできなくなった。
* * *
午後、直人たちは南倉庫へ向かった。
前日の夕方、銀行から運び込まれた銀貨箱が並んでいる。倉庫内には17箱あり、封印も外見も壊れていなかった。
だが帳簿と現物を数えると、銀貨240枚が足りない。
「封印は切られていない」
倉庫番が青ざめた。
「切っていない箱が17あることと、帳簿どおり全部あることは別です」
直人は床に残った箱跡を指した。並んだ17箱の横に、四角い埃の切れ目が3つある。
搬出記録では、消えた3箱へ銀貨80枚ずつ入っていた。合計で、ちょうど240枚だった。
荷車係は、震える手で昨夜の指図書を出した。頭取ハインツの署名があり、『緊急決済』とだけ書かれている。受取人の欄は空白だった。
「署名は本物です」
国璽院の書記が契印の光を確かめた。
「では、頭取の正しい命令では?」
「署名が本物だと分かっただけです。誰へ渡したか、何の代金か、返ってくる金かは空白のままです」
直人は荷車係へ向き直った。
「どこへ運んだ?」
「西門です。門の外で別の荷車へ積み替えました。受け取った男の名は知らない」
荷車係は顔を上げられず、空欄の受取人欄を見つめていた。
「箱は3つとも?」
「はい。日が変わる前でした」
頭取は病気で自宅にいると、支店長代理は説明していた。
その頭取の署名で、払戻しを止める数時間前に銀貨240枚が外へ出ている。
「銀貨は、預金者が押しかける前に運び出されていた」
リヴィアが、床の3つの跡を見つめた。
「列ができる前に、銀行の中から出ていった」
「そう見える。でも、まだ受取人と理由を確かめる」
直人は、怒りをそのまま罪名にはしなかった。指図書、荷車記録、箱番号、倉庫の現金数えを封じる。正本は銀行の保全箱へ置き、認証写しを財務局と国璽院へ回した。
南倉庫の扉には、銀行、財務局、近衛隊の3つの鍵を掛けた。
消えた銀貨240枚を追う責任は、リーゼン銀行にある。
預金者が店や賃金のために預けた金だった。
直人は西門へ向かう荷車の跡を見た。
「明日は、この240枚を受け取った相手を見つける」
銀行の扉は閉じたままだった。
だが、町の支払いを動かす小さな窓口と、消えた銀貨へ続く道は開いた。




