リヴィアの休日
リヴィアの休暇届には、理由が書かれていなかった。
王国暦317年春2月7日の朝、直人は昨夜自分が承認した紙を彼女へ返した。休むのは今日の午前だけ。代行者には、第三会計室の若い書記ミナの名がある。
「それで、何をするんだ?」
「まだ決めてない」
リヴィアは濃紺の実務服ではなく、茶色の外套を着ていた。いつも低く束ねている栗色の髪も、今日は少し緩い。
「理由を書かないから、何か秘密があるのかと思った」
「休むのに立派な理由が必要?」
直人は答えに詰まった。休暇は働けない事情を証明してもらうものではない。休むために取るものだ。それくらいは現代にいた頃から知っている。
それなのに、リヴィアが何もしない時間を過ごす姿を想像できなかった。
「直人も来る?」
「私が?」
「一緒に休むなら。護衛と緊急時の連絡だけ決めて、仕事の書類は持たないこと」
彼女は小さく笑った。
「市場へ出てから帳簿を開いたら、置いて帰るからね」
直人は机の上の書類へ視線を落とした。ガザール区の監督、国内債権の審査、ヴェスパーとの共同監査。終わっていない仕事なら、いくらでもある。
だが終わるまで休まない国王の下では、誰も安心して休めない。
「分かった。半日だけ、何もしない」
「何もしないことを、そんな決意の顔で言う人は初めて」
リヴィアの肩が揺れた。笑われても、直人には難しい仕事だった。
* * *
直人は灰色の上着を着て、リヴィアは茶色の外套の頭巾を上げた。
ガレンには、王都内を正午まで歩くとだけ伝えた。近衛兵2人が離れて付く。予定時刻を過ぎた場合だけ行き先を書いた封書を開けることにした。
「休日にも書類を作るんだね」
「これは、私たちが戻らなかったときに探してもらうための紙だよ。報告書じゃない」
「その違いが分かるなら合格」
王都の朝市は、視察のときより色が多く見えた。
籠から転がりそうな赤い林檎。湯気を上げる焼き麦。古着を頭上で振って客を呼ぶ男。いつもなら値段や客の列を見てしまう直人も、今日はリヴィアに先を歩かせた。
ところが果物屋の前で、彼女の足が止まる。
「今、小麦袋の重さを数えてたでしょ」
「数えてない。少し見ただけだ」
リヴィアは確かめるように小麦袋の列へ目を向けた。
「何袋あった?」
「……18袋」
リヴィアは呆れた顔をしたあと、こらえきれずに笑った。
「それは視察と言うの」
彼女は果物屋へ銅貨3枚を置き、小さな林檎を2個買った。直人は受け取る前に、思わず自分の上着を探る。
財布を開いても、この国では使えない日本の硬貨しか入っていない。王としての給与も、自由に使える私費もまだ決まっていない。
「私が食べる分まで、リヴィアに払わせるのはまずいな」
「これは私の休暇の費用。林檎1個で国王を買収したと疑われたら、もう1個も私が食べる」
リヴィアが林檎を引っ込めるふりをしたので、直人は慌てて受け取った。
「いただきます」
「素直でよろしい」
かじると、甘さより先に強い酸味が広がった。直人が眉を寄せると、リヴィアも同じ顔をしている。
2人は顔を見合わせ、同時に吹き出した。
「選ぶのを失敗したな」
「休暇だから、損失報告は受け付けない」
酸っぱい林檎でも、帳簿に載せなければただの失敗で終わる。それが妙に心地よかった。
* * *
大通りを外れたところで、布屋の女がリヴィアに気づいた。
「ファルクさん、税の受領証なんだけど」
リヴィアの表情が一瞬で仕事の顔へ戻る。外套から手帳を出そうとした手を、直人はそっと止めた。
「今日は休みだ。相談は財務局の北窓口へ頼む」
布屋は直人を見て、それからリヴィアの普段と違う外套を見た。
「あら、ごめんなさい。明日にするよ」
「急ぐならミナが代行しているから、今日でも大丈夫」
リヴィアが窓口を案内すると、女は礼を言って立ち去った。
次は靴直しの老人が、息子を徴税人にしてほしいと声をかけた。その次は薬草売りが、共同浴場の薬湯を売り込みに来る。
リヴィアは誰にも冷たくしなかった。だが採用は公開募集、薬湯は医務室の確認が必要だと伝え、判断はしない。直人も横から約束しなかった。
3人目を見送ったあと、彼女は深く息を吐いた。
「頭巾をかぶっても、分かるものね」
「王様より有名だ」
直人は頭巾の奥で苦笑した。即位して日が浅いとはいえ、少し複雑ではある。
「それ、悔しくないの?」
「少しだけ。でも今日は助かる」
直人が答えると、リヴィアはまた笑った。即位した国王が顔を知られていないことまで、今日は問題にしなくてよいらしい。
川沿いの石段へ座ると、荷船がゆっくり橋の下を通った。船頭の掛け声も、水が石へ当たる音も、王宮の窓からは聞こえない。
「いつも、ああやって相談を受けているのか?」
「全部を受けてはいないよ。窓口を教えているだけ」
「でも、みんなリヴィアに言えば何とかなると思っている」
リヴィアは食べ終えた林檎の芯を紙へ包んだ。
「何とかならなかったとき、誰へ話せばいいかも分からないよりはいいから」
「その窓口を、リヴィア1人で背負うことになったら?」
彼女の指が止まった。
直人は今朝の休暇届を思い出した。代行者の欄にはミナの名があった。それでも市場の人々は、リヴィアを見つければ直接声をかける。
「ミナに仕事は渡せる。でも、頼るのは難しい?」
「同じじゃないの?」
「仕事を渡しても、失敗したときに自分が全部直すつもりなら、まだ1人で抱えている」
言いながら、直人自身にも当てはまると思った。部下へ調査を命じても、最後は自分の計算だけを信じるなら、国は彼が倒れた日に止まる。
「今日は、ミナがどうするか待ってみよう。間違いがあっても、戻ってから一緒に直せばいい」
「国王が、間違えてもいいと言うの?」
「隠さず直せる間違いならね。休みをなくしてまで先回りするより安い」
リヴィアは川面を見たまま、ゆっくりうなずいた。
「そういう言い方は、ずるい。費用の話にされると反論しにくい」
「便利だろ?」
「少しだけ」
その声は、先ほどより軽かった。
* * *
正午まで少し時間があったので、2人は古書店へ入った。
直人が算術の棚へ向かうと、リヴィアは無言で彼の袖を引いた。代わりに、旅人が各地の町を歩いた記録を手渡した。
「宿代の比較には使わないで」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
店の隅に並んで座り、数頁だけ読んだ。
旅人は道を間違え、雨で靴をなくし、名も知らない村の老婆からスープを分けてもらう。役に立つ制度も、再建の数字も出てこない。
リヴィアは旅人が泥へ落ちる場面で、声を立てないよう口元を押さえた。直人は本よりも、その横顔を見ていた時間のほうが長かった。
「今、本を読んでなかったでしょう」
「読んでたよ」
「何が書いてあった?」
直人は慌てて開いている頁へ目を戻したが、文章はもう頭に入ってこなかった。
「旅人が泥に落ちた」
「そこ、3頁前」
ばれていた。直人が眼鏡を直すと、リヴィアは追及せず、少しだけ彼との距離を詰めて次の頁を開いた。
成果も結論もない時間だった。
それでも帰るために立ち上がったとき、直人の肩は朝より軽くなっていた。
* * *
王宮の門では、ミナが待っていた。
リヴィアが反射的に歩みを速める。だがミナの手にある整理票を見て、途中で足を緩めた。
「急ぎの問題はない。布屋さんには受領証の見本を渡しました。徴税人の採用希望は次回募集の案内へ、薬湯は医務室の確認箱へ入れました」
朝、市場で受けた3件が、それぞれ正しい窓口へ収まっている。
「私に確認しなくてよかったの?」
「決めてよいことは決めました。分からないことは、午後に確認すると伝えました」
ミナは緊張しながらも、整理票を抱き締めなかった。リヴィアへ渡す前に、自分で処理済みと未決を分けてある。
直人は横から口を出さず、リヴィアの返事を待った。
「よくできました。午後も、その順番でお願い」
リヴィアの声には、命令より安堵が混じっていた。彼女が半日いなくても窓口は動いた。間違いを恐れて全部を止めることも、勝手に大きな約束をすることもなかった。
休むことで仕事を失ったのではない。
自分がいなくても働ける仲間を、1人見つけたのだ。
「もう1件だけ支払いを止めています」
ミナは新しい請求書を出した。
料理長マルタは昨日まで、川魚1籠を銀貨4枚で注文していた。それが王宮向けだけ銀貨12枚へ書き換えられている。注文書に変更の署名はなく、魚はまだ受け取っていない。
リヴィアの手が伸びかけた。
だが彼女は請求書を取らず、ミナへ尋ねた。
「何を確認した?」
「元の注文書と昨日までの受領簿です。価格が決まるまで、代わりに豆と根菜を確保するよう厨房へ伝えました」
「それでいい。魚屋には午後に話を聞こう」
今度は仕事を奪わず、判断の続きを受け取った。
直人は朝の休暇届を未決箱へ入れず、処理済みの箱へ置いた。
最後まで理由の欄は空白だった。
それでも半日は無駄にならなかった。酸っぱい林檎を2人で食べ、役に立たない本を読み、リヴィアがいなくても国が止まらないと確かめた。
「休みの成果を数えてない?」
リヴィアに見抜かれ、直人は紙から手を離した。
「数えてない。少し考えただけだ」
「朝も同じことを言って、麦袋を18袋当てたよね」
直人は反論できなかった。
リヴィアの笑い声が、午後の財務局に明るく響いた。




