王宮の食卓は赤字です
王宮厨房の帳簿では、2羽の鶏が4羽に増えていた。
王国暦317年春2月6日の朝、直人は国王用、来客用、毒見用、儀礼用の4冊を机へ並べた。どの帳簿にも、昨日の夕食として鶏1羽が記されている。
その前に置いた納品札は、2枚しかなかった。
「鶏が帳簿の中で卵を産んだのか?」
直人が尋ねると、厨房書記は青ざめた顔で首を振った。
「実際に届いたのは2羽です。ですが国王用の料理には毒見が必要で、来客や儀礼の予備も欠かせない。それぞれの帳簿へ費用を載せる決まりです」
「昨日、来客は?」
「いない」
書記の声は、叱られる前の子どものように小さくなった。直人は責める代わりに、来客簿を開いて空白の日付を見せる。
「儀礼は?」
「ないでした」
直人は4冊を日付の行で重ねた。納入時刻も、納入者も、鶏の重さも同じである。違うのは帳簿の表紙だけだった。
1羽は国王用の皿と毒見の小皿に分けられた。もう1羽は豆と煮込み、夜勤の書記と近衛兵が食べている。4種類の料理を作ったのではない。
「必要な食事は2羽分です。でも帳簿を別々に合計すれば、4羽分使ったことになる」
厨房書記は唇をかんだ。
「昔から、この書き方です」
「昔の人が4羽食べた証拠にはならないよ」
直人は納品札2枚を、正しい2行へ置いた。来客用と儀礼用の2行には、赤い重複札を載せる。
「食事は減らさない。帳簿から、存在しない2羽を消します」
だが、帳簿の数字を消すだけでは金は止まらない。
厨房書記の机には、同じ鶏肉店へ出す支払札が4枚用意されていた。どれも鶏1羽分で、同じ日付、同じ納品番号が書かれている。1枚は支払済みで、残り3枚は午後に財務局へ回る予定だった。
直人は鶏肉店の請求書を確かめた。店は、実際に届けた2羽分しか請求していない。王宮の内側で支払札を4枚へ増やしていた。
「店は2羽しか請求していない。なら、残り3枚のうち必要なのは1枚だけです」
「来客用と儀礼用の予算を使わなければ、次の月に減らされます」
宮内局の納入係が、困ったように4冊を抱えた。
「予算は使い切った人が勝つ競争じゃないよ。来なかった客の鶏を買ったことにしても、来月の客は食べられない」
直人は正しい1枚だけに支払承認印を押した。残る2枚には、納品番号重複と大きく記して支払いを止める。鶏肉店へは2羽分が全額支払われ、存在しない鶏に国の金は1枚も出ない。
納入係は何か言いかけたが、2枚しかない店の請求書を見て肩を落とした。
「次から、来客が決まる前に鶏を帳簿へ入れないでください」
「客が急に来たら、どうするのです?」
「そのための予備費は残す。でも、予備の金と食べた鶏は分けて書く」
金を残すことと、物を買ったふりをすることは違う。直人が支払札2枚を抜くと、机の上でも鶏は正しい2羽へ戻った。
厨房書記は目を丸くした。食費を調べると聞き、まず料理と人員を削られると思っていたらしい。
直人は働く人の皿を守りながら、同じ鶏を何度も食べたことにする帳簿を止める。
* * *
厨房へ入ると、焼いた麦と香草の匂いが直人の腹を刺激した。
大鍋の前では、白髪をきつく結った料理長マルタが、長い柄杓を剣のように握っていた。王宮で28年働き、先王の葬儀には1,000人分の粥を煮たという。
「今度の王様は、鶏の次に匙の数まで減らすのかい」
「匙は減らさない。勝手に4本へ増える帳簿なら止める」
直人が答えると、若い料理人が吹き出した。マルタににらまれ、慌てて鍋へ顔を戻す。
リヴィアは笑いを隠すように人数札の木箱をのぞいた。
「早番42人、夜番31人、病人3人。来客予定はなし。マルタは毎朝、食べる人数を数えているのね」
「数えずに鍋を火へかけたら、足りないか余るかのどちらかだよ。帳簿の連中はこの札を見ない。国王用と言えば、底なしの鍋から料理が出ると思っている」
マルタは柄杓で4冊の帳簿を指した。怒っている相手は直人だけではないらしい。
「毒見には毎回、別の鶏が必要ですか?」
「同じ鍋から先に小皿へ取ればいい。焼き物なら国王の皿から切り分ける。毒見役を空腹にしておく気はないけど、4人分の料理を作る必要はない」
直人はうなずいた。食中毒や毒を防ぐ仕事は残す。毒見という名前で同じ納入を2度数えることだけを止めればよい。
「儀礼用はどう?」
直人がリヴィアを見ると、彼女は帳簿を閉じ、考えるように指先で表紙をなぞった。
「外国使節を迎える日は、食卓の格も交渉の一部になる。そこを急に粗末にすれば、相手を軽んじた意味になるわ。でも客がいない日に儀礼料理を食べたことにする必要はない」
「なら、来客の名前と人数が決まった日だけ別に注文する。普段は実際に食べる人数で作ろう」
金融上の無駄は直人が切る。この国で食卓が持つ意味は、リヴィアとマルタに教えてもらう。役割を分ければ、王国の信用を守りながら空の皿だけを消せる。
だがマルタは、まだ柄杓を下ろさなかった。
「帳簿を1冊にして、全部あたしの責任にするつもりじゃないだろうね。品物が届かなかった日まで、料理長の盗みだと言われたらたまらないよ」
「納入した人、受け取った人、料理した人を分けて書く。届かなければ、届かなかったと残す。あなた1人の責任にはしない」
直人の返事を聞き、マルタはようやく柄杓の先を床へ下ろした。
「それなら厨房を見ていきな。紙の上の鶏より、鍋の中の豆のほうが正直だよ」
* * *
新しい帳簿は、厨房の長机で作った。
名前は王宮共同食受領簿。
届いた物と数、受け取った人、食べる人数、余った料理の行先だけを書く。国王用、毒見用、職員用と分けるときも、元の納品札は1枚から増やさない。
直人は昨日の鶏で試した。
納品、2羽。
国王と毒見、1羽。
夜勤の職員、1羽。
残り、0羽。
「これなら鶏が逃げる場所はないね」
マルタが言うと、今度は厨房全体に笑いが広がった。
4冊は捨てず、過去の用途を調べるために残す。ただし支出を合計するときは、共同食受領簿の納品数と結びついた行だけを数える。昨日の来客用と儀礼用には大きな重複印を押し、支払簿へ回らないよう止めた。
帳簿を直しただけでは、夜勤の者が廊下の隅で冷えたパンを食べる習慣までは変わらない。
マルタは、厨房隣の古い配膳室へ2人を案内した。物置になっているが、大鍋を運べる扉と、長机を置ける広さがある。
「ここなら料理が冷める前に出せる。でも、新しい食堂を建てる金なんてないだろう?」
「建てないよ。ここを使う」
直人は積まれた椅子を1脚引き出した。脚が揺れたが、座面はまだ使える。
新しい建物も、豪華な食器も買わない。使われていない長机を運び、壊れた椅子は王宮にある釘と端材で直す。厨房の人数札を入口へ掛ければ、作る量も分かる。
「王様と職員を同じ鍋で食べさせるの?」
マルタが眉を上げた。
「普段はね。客が来た日は別に作る。私だけ毎日、来てもいない客の料理を食べる必要はない」
「先王なら、国王の皿が夜勤と同じだと聞いただけで皿を投げたよ」
「私は腹に入れば、皿の身分までは気にしない」
マルタはしばらく直人を見つめ、やがて豪快に笑った。
「分かった。なら今夜、王様の舌で確かめてもらおうじゃないか」
そこへ配膳室を管理する宮内官が駆け込んできた。長机へ置かれた木の皿を見て、顔色を変える。
「国王陛下と下級書記を同じ食堂へ入れるなど、席次が乱れます」
「外交の宴では席次を守ります。でも今夜ここに外国使節はいない」
リヴィアが穏やかに答え、空の来客簿を宮内官へ向けた。
「席の格を守るために、夜勤の者へ冷えたパンを食べさせるの?」
マルタが柄杓を肩へ担ぐ。宮内官は彼女と直人を交互に見た。
「同じ鍋でも、仕事で呼ばれた者がすぐ立てる席を入口側にします。必要な違いは残す。誰も食べない上座のために、別の鶏は買わない」
直人は入口近くを夜勤席、奥を休憩中の者の席と決めた。身分ではなく、仕事へ戻る速さで分ける。宮内官は反論の言葉を探したが、来客簿の空白と2枚の納品札には勝てなかった。
* * *
その日の夕方、古い配膳室に湯気が満ちた。
入口の板には、早番42人、夜番31人、病人3人、国王1人と札が掛かっている。病人には豆を潰した薄粥を分け、ほかの者には根菜と鶏の煮込み、黒パンを出した。
近衛兵、厨房係、夜勤の書記が同じ長机へ座る。これまでは余り物をもらっていると思われたくなくて、人目を避けて食べる者もいた。今日は勤務中の食事として、最初から人数に入っている。
若い書記が湯気の立つ皿を前に、座ってよいのか迷うように立っていた。
「冷める前に食べな」
マルタが背中を押すと、書記は椅子へ腰を下ろした。
「夜番の食事まで削られると思っていました」
「削ったのは帳簿の鶏2羽だよ。鍋の鶏じゃない」
マルタの声に、長机のあちこちから笑いが起きる。
直人の前にも同じ煮込みが置かれた。毒見役が先に小皿を取り、安全を確かめている。儀礼を壊さず、別の鶏も使っていない。
「味を数字で評価したら、柄杓で追い出すよ」
腕を組んだマルタへ、直人は匙を上げた。
「帳簿には書かない。でもこれはおいしい」
「なら黙って食べな」
そう言いながら、マルタの口元は少し緩んでいた。
共同食受領簿の第1号には、食べた人数と鍋の数が記された。余った黒パン2個は夜の見回り所へ渡し、受け取った兵の名を残す。食べ物が消えたと疑われず、余りを分けた者が盗人にされないためだった。
食事を終えた夜勤の書記は、空の皿を自分で返した。
「王宮へ来て初めて、温かいうちに食べられました」
その一言に、マルタは照れたように皿を重ねた。
料理人の誇りも、毒見も、外交の食卓も削らなかった。
存在しない鶏2羽分の支出だけが消え、働く者の前には温かい皿が残った。




