最初の黒字
王国は初めて、銀貨9枚の黒字を確かめた。
それでも直人が自由に使える金は1枚もない。
王国暦317年春2月4日の朝、直人は市場掲示板へ大きく数字を書いた。
入った金、銀貨360枚。
使った金、銀貨351枚。
残った金、銀貨9枚。
「引き算は合っている。でも、その9枚には行き先がある」
直人は国内債権者用と書かれた箱を掲示板の下へ置いた。財務局、国璽院、近衛隊の3つの封印は切られていない。
「馬具や種麦を納めたのに、まだ代金を受け取っていない人へ払います。だから国王が新しい事業へ使える金は0枚です」
昨日から来ていた革職人が、人垣の前で腕を組んだ。
「黒字と言って俺たちの金を祝宴に使わないなら、それでいい」
「祝宴には使わない。それに、国全体が黒字になったわけでもない」
今回は、受領証がすべてそろった税制改革と北倉庫の試行分だけを締めた。
村の会計を手伝う26人へ、旅費と食事と最初の手当で銀貨195枚。正しい枡を作り、検査する仕組みに144枚。北倉庫を直す前の排水と測量へ12枚。合計351枚である。
「入った360枚から使った351枚を引いて、残りは9枚。これ以上難しい計算はない」
直人が言うと、集まった人々の肩から少し力が抜けた。
リヴィアは9枚の箱へ手を置いた。
「この黒字でごちそうは買わない。ずっと待たされてきた人へ、ようやく最初の9枚を払えます」
革職人が封印箱を見つめる。まだ自分の番が来るとは限らない。それでも、誰のための9枚かはもう隠されていなかった。
小さな黒字だった。
だが、誰かから余計に取った金まで黒字に混ぜれば、この9枚の意味も消える。
直人は掲示板の隣へ、ガザール男爵の報告書を張った。
「だから今日は、偽物の黒字を返してもらいます」
* * *
財務局の公開室へ、ガザールは真紅の上着で現れた。
「偽物とは穏やかではないな。徴税の現場を知らない異国人が、言葉尻だけでわたしを盗人にするつもりか」
男爵は椅子へ座らず、長机の上の書類を見下ろした。傍聴席にはハルン村の会計補助員、北倉庫へ材木を運んだ商人、徴税人たちがいる。
直人は、まず銀貨18枚と書かれた札を置いた。
「ハルン村は本税と手数料を合わせて銀貨198枚払う契約でした。実際には216枚払っています」
「橋の見回りと筆記に必要な費用だ。村も納得して払った」
「では、なぜ国への報告から消したんです?」
直人は、ガザール側の現金引渡書を示した。
現地徴収人は村から216枚を受け取り、そのうち18枚を男爵家の区会計へ渡したと記録している。徴収人と会計係の署名に加え、ガザールの徴税印もあった。
ところが国へ出した週次報告は198枚。橋の見回り費という項目も、村から余分に受け取った記録もない。
「会計係が勝手に処理しただけだ。わたしは確認していない」
ガザールが吐き捨てると、傍聴席の徴税人たちが互いの顔を見た。
「それなら部下を調べればよいでしょう。ただし、あなたの印と会計で集めた金は、あなたが先に返す。これはあなた自身が結んだ徴税請負契約です」
直人は返還条項へ指を置いた。請負人の印を使って契約外の金を集めた場合、命令した者が誰かにかかわらず、請負人が納税者へ返還する。
部下へ責任を押しつければ逃げられるような契約を、ガザール自身が作るはずもなかった。
「知らなかった」という逃げ道は、自分の条項で塞がれた。
リヴィアがハルン村の会計補助員へ尋ねた。
「村では、この18枚を何に使う予定だったの?」
「共同倉庫の床板です。今は穀物袋の下へ石を置いて、湿気を避けています」
若い補助員は緊張で指を組みながらも、ガザールから目をそらさなかった。
「返ってきたら、石ではなく板の上へ置けます」
18枚は帳簿の数字ではない。次の雨から穀物を守る床になる。
* * *
「たったそれだけで、わたしを呼びつけたのか」
ガザールは鼻で笑った。
「いいえ。ここからが本題です」
直人が合図すると、ガレンが16枚の木札を長机へ並べた。
上の列に8枚。下の列にも8枚。
上は石橋料の受領札。下は北倉庫進入料の受領札である。
「橋と倉庫では場所が違う。別々の仕事に金がかかるのは当然だ」
ガザールは木札へ触れようとしたが、ガレンが太い腕を机へ置いて止めた。
「触らなくても読めるように、陛下が大きく書いてある」
ガレンの言葉に傍聴席から笑いが漏れた。直人は木札の下へ、荷車番号を1番から8番まで書いていた。
「上と下を見比べてください」
同じ荷車番号。同じ日付。同じ材木。同じ徴税人印。そして、同じ許可書番号。
8台の荷車は石橋で料金を払い、その受領札を持ったまま北倉庫へ向かった。ところが倉庫入口でも、同じ許可書を理由に銀貨1枚ずつ取られた。
「名目は進入料だ」
「あなたの契約では、許可書1件につき1回だけ取れます。場所ではなく、この番号で数える」
直人は上下1組の札を重ねた。窓から差す光の中で、2つの徴税印がぴたりと重なる。続く7組も同じだった。
「8台の荷車を16台に見せても、材木は増えない。1回の通行から2度取った銀貨8枚は、収入ではない」
材木商が椅子から立ち上がった。
「俺は国の工事だから黙って払ったんだ。あんたの小遣いだと知っていたら、荷車を止めていた」
「無礼だぞ」
ガザールが声を荒らげても、今度は誰も身をすくめなかった。16枚の木札が、どちらの言葉が正しいかを示している。
18枚は報告から消した。
8枚は同じ荷車を2度数えた。
一方では金を隠し、もう一方では同じ金を増やして見せた。都合に合わせて数字を消したり増やしたりしていたのである。
「これを黒字とは呼ばない。返すべき金と呼びます」
直人は返還命令書をガザールの前へ置いた。
* * *
ハルン村へ銀貨18枚。
材木商へ銀貨8枚。
返還額は合計26枚。期限は春2月7日正午とした。
「署名すれば、わたしが横領を認めたことになる」
ガザールは羽根ペンを押し返した。
「故意に盗んだかはこれから調べます。でもあなたの印で契約外の金を取った事実はもう確定しています。罪名を争うことと、被害者へ金を返すことは別です」
直人はガザールの徴税業務用現金箱を運ばせた。最新の報告書に、手元現金として本人が記載した箱である。
「国の金、あなたの家族の金も下働きの賃金も使わない。この箱から26枚を分けます」
「わたしの許可なく、請負金を動かせると思うのか」
「あなた自身が返還条項に書いた。契約外徴収が見つかれば、財務局と国璽院が保全できると」
リヴィアが契約書を裏返し、ガザール本人の署名を見せた。
男爵の口が止まる。
直人は銀貨を26枚数え、2つの箱へ分けた。財務局と国璽院が封印し、返還先の名札を付ける。
さらにガザール本人の徴税請負権を30日間停止した。無関係な徴税人や荷車引きの仕事は止めず、財務局の監督下で続けさせる。男爵の失敗を、末端の賃金で埋めさせるつもりはなかった。
「わたしがいなければ、税は集まらんぞ」
「あなたがいなくても、受領札は3枚そろいます」
直人が答えると徴税人の1人が吹き出した。すぐ口元を押さえたが、もう遅い。公開室に笑いが広がり、ガザールは真紅の上着を翻して出ていった。
机には、本人の印で封じられた返還箱だけが残った。
* * *
春2月6日。期限より1日早く、銀貨26枚は持ち主のもとへ戻った。
ハルン村の18枚は、会計補助員と共同倉庫の管理人が受け取った。若い補助員は受領証へ署名すると、銀貨の箱を両腕で抱える。
「これで床板を買えます。次の雨では、袋の下に石を積まなくて済みます」
材木商は8枚を受け取り、その場で1枚ずつ数えた。
「やっと運賃の帳尻が合った。次の荷も、同じ道を走らせられる」
返還受領証は3通ずつ作り、受取人、ガザール側、財務局が持った。現金引渡書、16枚の木札、返還命令の正本は財務局へ収め、認証写しを国璽院へ置いた。
国家が留保していた銀貨8枚は、材木商へ払う必要がなくなった。利益にはせず、北倉庫の履行予備12枚へ加える。倉庫を約束どおり使わせるための制約金は20枚になった。
返された26枚は、国の収入には入らない。
村の床板と、商人の運賃へ戻って、初めて正しい場所へ収まった。
市場掲示板には、黒字9枚、自由現金0枚と並べて書いた。その下へ、契約外徴収26枚返還済み、ガザール男爵の請負権30日停止、と赤い札を張る。
「最初の黒字なのに、派手なお祝いはないんだね」
財務局へ戻る道で、リヴィアが少し笑った。
「村に床ができて、商人の荷車が走る。十分派手だろ」
「そうね。金貨を空へ投げるより、ずっといい」
彼女の灰緑色の目は、返還箱を抱えて帰る会計補助員を追っていた。直人もつられて振り返る。若者の足取りは、来たときより明らかに軽かった。
財務局へ戻ると、次の帳簿が机を埋めていた。
国王用。来客用。毒見用。儀礼用。
4冊の帳簿に、昨日の夕食で使った同じ鶏が並んでいる。
リヴィアが帳簿の束を直人の前へ押した。
「次は王宮の食卓ね」
直人は黒字の紙を閉じ、4冊の同じ行を見比べた。
偽物の黒字を片づけると、4羽に増えた鶏が直人を待っていた。




