国家の貸借対照表
王国には金貨412枚がある。
だが、王国が今日使える金は0枚だった。
王国暦317年春2月3日の朝、直人が市場掲示板へその2行を張り出すと、市民たちの間から怒声が上がった。
「あるのか、ないのか、どっちなんだ!」
もっともな反応だった。直人が説明を始める前に、評議員の1人が大きな集計表を掲げた。
「ないなどと国王が弱気なことを言うから、皆が不安になるのです。王家競売の金貨412枚に、未回収の税が金貨2,840枚もある。国有地も倉庫もある。我が国には十分な財産があると発表すべきでしょう」
表の最上部には、太い字で『豊かな王国』と書かれていた。集まった人々から期待の声が上がる。
直人は表を取り上げなかった。
「それなら今日、この人へ払ってください」
国内債権者の列から、革職人を前へ呼ぶ。先王の命令で馬具を納め、まだ代金を受け取っていない男だった。
直人は評議員へ空の小箱を渡した。
「金貨412枚でも、未回収税でも、好きなほうから払っていいですよ」
評議員は箱を持ったまま動かなかった。王家競売の金は封印され、未回収税はまだ徴税請負人や村にある。どちらも、この場へ持ってくることはできない。
「帳簿の上にある金では、今日のパンは買えない」
直人が告げると、革職人は空箱をのぞき込んだ。
「なるほど。国が豊かだと書けば、俺の腹にこれが入るわけだ」
男が空箱を振る。からんという音すらしなかった。
期待の声が笑いへ変わり、評議員の顔が赤くなった。
* * *
市場の中央には、リヴィアが4枚の札を置いていた。
今日使える金。
後で入るかもしれない金。
土地と倉庫。
約束した支払いと仕事。
「難しい名前は、最後に1度だけ話します」
リヴィアは市民たちを見回し、最初の札の前を指した。そこには何も置かれていない。
「まずは今日、自由に使える金です。ここは0枚です」
「銀貨ならあるだろう。国内債権者用の9枚と、倉庫に残った20枚だ」
声を上げた男へ、直人はうなずいた。財務局の書記が3つの小箱を運んでくる。箱にはそれぞれ大きな札が結ばれていた。
国内債権者へ払う銀貨9枚。
二重進入料の争いが決まるまで残す銀貨8枚。
北倉庫を約束どおり使えるようにする銀貨12枚。
「合わせれば29枚です。ただし、どれも自由には使えない」
直人は9枚の箱を革職人の前へ置いた。
「この金は、あなたたち債権者へ受付順に払います。王宮の夕食には回さない」
次に8枚の箱を材木商の前へ置く。
「ここには、ガザール男爵に二重に取られたと疑われる進入料が入っています。誰が負担するか決まるまで動かさない」
最後の12枚は、北倉庫を予約した4人の商人の前へ置いた。
「これは屋根が壊れたときの修理や、契約を守るための予備です。使い切れば、荷物を180日預かる約束が危うくなる」
直人は3つの箱を離して並べた。
「金が入っている箱から札を外せば、使うことはできます。でも、その瞬間に別の誰かとの約束を破ります。それを使える金とは呼ばない」
革職人が太い腕を組み、評議員の表を見た。
「俺たちへ払う金を国王の自由な金に数えられたら、また後回しになる。分けてくれたほうがいい」
北倉庫を予約した香辛料商も、12枚の箱の封印を確かめてからうなずいた。
箱の中身は増えていない。それでも何のための金かが見えたことで、市民の声は落ち着いていった。
別の勘定には、未払賃金用の銀貨221枚と共同浴場の修繕用金貨1枚もあった。パン、薪、薬の箱は受領証との確認中である。直人はそれらを隠さなかったが、自由な金にも足さなかった。
「全部でいくらあるのです?」
年配の女性が尋ねた。
「まだ確定していない。分からない残高を勝手に0枚にもしないし、使える金にも数えない。ただ、今日新しく使っていいと確認できた金は0枚です」
女性は少し考え、空の札の前に置かれた小箱を見比べた。
「ない金を、あるふりはしないってことね」
「はい。その代わり、見つけた金も消さない」
直人が答えると、彼女は納得したように口元を緩めた。
* * *
2枚目の『後で入るかもしれない金』には、評議員が自慢した金貨2,840枚の紙を置いた。
未回収税の台帳額面である。だが中には、まだ納期限が来ていない分、支払いを延期した分、徴税請負人が送っていない分、回収できるか分からない分が混じっていた。
「これを全部、今日の金にすればよい」
評議員はまだ諦めていなかった。
「では、レムナ村から今すぐ取り立てますか」
直人が尋ねると、見物人の中にいたレムナ村の女性が息をのんだ。病人と子どもだけの家から労役税を取り消し、銀貨72枚の納付を90日延期したばかりである。
「それは陛下が延期を認めた税です。別の村や請負人から集めればよいでしょう」
「どこから、いつ、いくら届くか分からない。なのに全部届いたことにする。あなたの表は、金ではなく願い事を足しています」
直人は2,840枚の紙を破らず、札の下へ戻した。権利まで消す必要はない。額面は残し、実際に国庫へ届いた分だけを現金へ移す。
北倉庫の一般区画240袋から得られる月銀貨40枚も、同じ札の下だった。満杯になった場合の最大額であり、まだ1枚も受け取っていない。
「空いている床から、銀貨は落ちてこない」
リヴィアが北倉庫の小さな模型を持ち上げた。
「でも小さな農家がここを使えば、穀物は雨に濡れず、国には利用料が入ります。これは嘘の収入ではなく、これから働かせる場所です」
リヴィアの言葉に、北倉庫へ最初の小麦袋を置いた女性が笑顔で手を振った。難しい数字だったものが、乾いた床と次の収入へ戻っていく。
3枚目の『土地と倉庫』には、王領と国有倉庫の木札を置いた。
売れば金になるかもしれない。しかし王領7か所のうち3か所はヴェスパー商会の担保で、残る土地にも壊れた水路や境界未確定の場所がある。値段を決めずに急いで売れば、事情を知る者に安く奪われるだけだった。
評議員は国有地の札を取り、空だった最初の場所へ動かそうとした。
直人は無言で革職人へ視線を向ける。
「土地をひとつもらっても困るぞ。俺が欲しいのは馬具の代金だ」
市場にまた笑いが起きた。評議員は木札を元の場所へ戻すしかなかった。
「土地には価値があります。でも今日の支払いに使える現金とは別です」
直人は壊れた王領を満額で載せることも認めなかった。境界、収益、修繕費を確かめ、実際に売れる額が分かるまで『値段は調査中』とする。
あるはずの価値を0にしない。高く見せるための値段も付けない。それだけで、評議員の表から作り物の黒字が消えた。
* * *
最後の札には、太い文字が2つ並んだ。
ヴェスパー商会へ金貨12,120枚。
北倉庫で360袋を180日預かる。
市場の空気が重くなる。資産だけを書いた評議員の表には、どちらも載っていなかった。
「借金を隠せば、国が豊かに見える。先にもらった倉庫代をもう1度収入にすれば、もっと豊かに見える。でも、見た目を変えても支払日は消えない」
直人は王領3か所の木札とヴェスパー債務の札をひもで結んだ。担保に入った土地を、自由に売れる財産としてもう1度数えないためである。
北倉庫の模型には、予約した360袋分の小さな札を差し込んだ。銀貨360枚の前払金はすでに受け取り、工事などへ使った。これから6か月間場所を提供して、ようやく約束を果たせる。
「財産と借金、現金と約束を同じ紙に載せます。正式には国家の貸借対照表と呼びます。でも覚えるのは名前ではなく、この4つの違いだけで十分です」
リヴィアが4枚の札を順に指すと、革職人が評議員の『豊かな王国』という表を裏返した。
「こっちのほうがいい。空箱を満杯だと言う王より、空だと見せてくれる王のほうが、まだ待てる」
拍手は大きくなかった。借金が減ったわけでも、代金がすぐ払われたわけでもない。
それでも評議員が作った黒字は、その場で消えた。王家の金、まだ来ない税、担保付きの土地、仕事の残る前払金を勝手に混ぜる逃げ道も、市民の目の前で塞がれた。
貸借対照表の正本には、財務局、国璽院、市民立会人が署名した。認証写しは国璽院へ置き、要約は4枚の札と同じ並びで12の市場と19の村へ送られる。訂正するときは古い数字を消さず、理由と根拠を横へ加えることにした。
直人は最後に、税制改革と北倉庫だけの収支を締め始めた。国全体はまだ無理でも、受領証がそろった範囲なら、入った金と使った金を比べられる。
そこへ、提出期限を過ぎたガザール男爵の報告書が届いた。
北倉庫の進入料は、石橋の見回り費の一部だと書かれている。
だが石橋料の報告にも、同じ8台の荷車が載っていた。
直人は2枚の報告書を日の光へ透かした。どちらにも同じ徴税印が浮かぶ。
「次に、同じ金を2回数えた人を呼ぼう」
空箱を豊かに見せる表は消えた。
今度は、1枚の銀貨を2枚に見せた帳簿が残っていた。




