王様の持ち物
国王ナオト1世の私有財産は、眼鏡1本から始まった。
王国暦317年春1月10日の朝。ヴェスパー商会との共同監査が始まり、担保執行は30日だけ止まった。その代金は金貨120枚。2月9日正午には、借金が金貨12,120枚になる。
時間を買った直人は、まず王宮にある財産を調べた。
「眼鏡は白札。三崎直人個人の物、と」
リヴィアが細い札へ書き込み、直人の鼻先を見た。
「掛けてる物まで目録に入れるのか?」
「売らない理由を残すため。眼鏡を売って書類が読めなくなったら、監査どころじゃないでしょ」
「借金王の全財産が眼鏡1本に見えるんだけど」
直人が抗議すると、リヴィアは笑いをこらえながら白札をもう1枚取った。
机の上には4色の札がある。
税や国庫の金で買い、公務に使う国有財産には青札を付ける。先王が私費で買った王家私有財産には赤札、直人が東京から持ってきた私物には白札。持ち主を証明できない物には灰色の札を付けた。
王が座る椅子でも、公費で買ったなら青。先王が寝室に飾るため自分の金で買った絵なら赤。誰の金で買ったか分からない銀杯は灰色にして、分かるまで売らない。
「ずいぶん簡単に言うんだな」
立ち会っていたガレンが、4色の札を指先でつついた。
「簡単に言えない規則は、悪用する奴だけが得をする。まず色を決める。難しい話は、その後でいい」
直人は青札と赤札の間に手を置いた。
「王が使っている物と、王の物は違う。今日はそこをはっきりさせる」
王冠だけは、どの色にも入らなかった。最後の監査契約に属し、国王は使用者にすぎない。売却も担保設定もできないため、儀式以外は地下契約室の石箱へ戻す。鍵はオルド、国璽院、近衛隊が1本ずつ保管する。
「王様の物じゃない王冠か」
「王様を監査する王冠。直人にはちょうどいいよ」
リヴィアが売却不能の札を結ぶと、ガレンが喉の奥で笑った。
* * *
王宮北倉庫には、即位直後にボルガン侯爵邸から保全した品が並んでいた。
銀食器120点、絵画11点、絨毯7枚、宝飾品23点。
黒い上着のセヴランも、書記2人を連れて倉庫へ現れた。通信盤の中より背が高く、挨拶を終える前に銀器と絵画へ赤い保全印を置こうとする。
「共同監査中です。換金できる王宮財産も動かせないようにします」
「それは断る。契約の担保は王領3か所と東西街道の通行料徴収権だ。帳簿を全部見せる約束はしたが、担保を増やす約束はしてない」
直人は停止条件書の該当行を開き、赤い保全印の前へ置いた。セヴランの指が止まる。
「この品も所有者と購入財源は開示する。ただし、商会が保全印を付けられるのは元から契約にある担保と、その収入だけだ」
セヴランは条件書と直人を見比べ、保全印を革袋へ戻した。
「条文を読む債務者は手間がかかります」
「読まなければ、契約にない物まで失う。だから読む」
商会の書記2人が顔を伏せた。笑いを隠したようにも見えたが、セヴランは何も言わず、壁際で目録の写しを取り始めた。
侯爵自身が作った王宮財産管理規則には、贈与証書のない王宮財産は王室所有と推定するとある。その「王室」の2文字へ国と王家私有を押し込み、ボルガンは品々を自邸で管理していた。
だが購入伝票、贈答記録、赤い王家帳簿、青い財務局帳簿を重ねると、色は午前中だけで決まった。
青札は、銀食器84点、絵画6点、絨毯5枚、宝飾品7点。
赤札は、銀食器28点、絵画3点、絨毯1枚、宝飾品10点。計42点。
灰色の札は銀食器8点、絵画2点、絨毯1枚、宝飾品6点に付いた。
最後の赤札を結んだとき、倉庫の扉が大きく開いた。
「その分類は無効だ」
ボルガン侯爵が、宮内局の元書記を2人従えて入ってきた。いつもの香油の匂いより先に、杖の石突きが床を打つ音が響いた。
「王室財産は王宮財産管理官が一括して管理する。先王陛下から私が管理を任されていた。勝手に札を付け替えるな」
侯爵の声には、もう自分の品を取り戻したような余裕があった。倉庫の書記たちは手を止め、ガレンが直人の半歩前へ出る。
直人は止めなかった。代わりに、机の上から薄い規則書を取った。
「これは、あなたが作った規則で合ってるな」
「当然だ。王宮の財産を盗難から守るための規則だ」
ボルガンは顎を上げた。直人は開いた頁をリヴィアへ渡す。
彼女は契印を確かめ集まった書記たちにも聞こえる声で読んだ。
「購入財源を確認できる品は、その財源を出した会計へ帰属する。管理官は所有者ではなく、保管責任者にとどまる。贈与を主張する者は、贈与証書または同等の記録を示さなければならない」
読み終えたリヴィアが顔を上げると、ボルガンの杖を握る指が固くなった。
「あなたの規則どおりだ。国庫が買った物は青。先王の私費なら赤。証拠がない物は灰色で保全する。どこにも『管理した侯爵の物になる』とは書いてない」
「私は所有権を主張しているのではない。管理権を主張している!」
ボルガンが杖を鳴らす。だが今度は誰も手を止めなかった。
「なら、管理記録を出してくれ。銀食器120点を自邸へ移した日、使った日、戻す予定日。その3つが書かれた記録だ」
「先王陛下の口頭命令だ。王宮の宴に備え、私が善意で保管した」
「口頭命令で移しても、移動記録は残す。それもあなたの規則だ」
直人が次の頁を開くと、侯爵の顔から余裕が消えた。
「記録がない以上、あなたは管理責任を果たしていない。しかも証拠提出の期限は2日前に切れてる」
王宮馬の育成名目でボルガン家が管理する王領から、3年間で金貨316枚相当の馬と飼料が出荷されていた。侯爵が期限までに出した支出台帳の一部は王宮厩舎の記録と一致したが、残りには領収書も受取人の署名もない。
金貨316枚をその場で横領と決めることはできない。だが証拠が欠けたまま、同じ人物へ金と財産を任せ続ける理由もなかった。
「陛下。王領には馬丁も農家もおります。管理を急に切れば、飼料の購入も賃金も止まりますぞ」
ボルガンは現場の混乱を盾にした。背後の元書記が、勝ち目を見つけたように息をつく。
直人はリヴィアを見た。
「現場を止めずに、侯爵の独占権限だけ外せるか?」
「できる。馬丁と農家はそのまま働いてもらう。財務局の役人と村会代表を1人ずつ置いて、支払いは2人の確認制にする。現地の人へ今日中に説明を出せば、侯爵家への処罰だと誤解もされにくい」
彼女は迷わず答え、すぐ書記へ伝令の手配を命じた。直人が金の流れを止め、リヴィアが暮らしの流れを止めない。その答えは、ボルガンが用意した脅しより速かった。
「それでいこう」
直人は管理停止命令書を机へ置いた。
「今日から、あなた1人で王領の売上を受け取り、支出を決める権限は停止する。王領の仕事も賃金も止めない。これからの収入は別口で保全し、財務局と村会代表が共同で確認する。残りの証拠を出せば、支出として公平に調べる」
「国王になって数日の男、この私から王領を取り上げるのか」
ボルガンの頬が赤くなった。直人は規則書を閉じ、その表紙を侯爵へ向けた。
「取り上げてない。国の物を国の管理へ戻すだけだ。それに俺が作った規則じゃない」
倉庫中の視線が、規則書に刻まれた制定者の名へ集まった。
「ボルガン侯爵。あなたが作った規則をあなたにも適用した」
侯爵の杖が床から浮き、落ちた。
乾いた音の後、ガレンが倉庫と王領管理所の鍵、受領印、未使用の支払証書を引き取る。元書記2人には記録整理の仕事を続けさせ、侯爵の家族や使用人には触れなかった。
奪った権限だけが、誰の目にも分かる形で机の上へ積まれた。
「……この屈辱は忘れんぞ」
ボルガンが絞り出すと、直人は青札の付いた銀杯を持ち上げた。
「記録を出せばいい。数字は怒鳴っても変わらない」
侯爵は返す言葉を失い、外套を翻して倉庫を出ていった。扉が閉じた瞬間、息を詰めていた書記たちの肩が一斉に下がる。
ガレンは引き取った鍵を掌で転がし、初めて隠さず笑った。
「自分で作った鍵に、自分が締め出されたか」
「鍵は悪くない。持たせる相手を間違えてた」
* * *
日暮れまでに、北倉庫は青、赤、灰色の3区画へ分けられた。各扉を財務局、宮内局、近衛隊が封印する。原目録は財務局、認証写しは国璽院と北倉庫へ置き、品を動かすときは品番号、行先、目的、時刻を3通の記録へ残す。
売却候補には、赤札の42点だけを残した。
直人はまだ先王の遺産を相続していない。有利な品だけ受け取り、先王個人の借金を捨てることはできないため、42点は王家遺産管理人が条件付きで競売する。
先王個人への請求は30日間受け付ける。競売前に所有権や担保権の証拠が出れば、その品は審査が終わるまで売らない。競売後に正しい持ち主が現れた場合は、落札者から奪い返さず、品ごとに封印した代金から支払う。
「落札代金を、すぐ借金返済へ回せないのは惜しいね」
リヴィアは赤札42枚を数え直し、束の端をそろえた。
「でも、売った瞬間に国の金だと言い出したら、ボルガンと同じになる。誰の金か決まるまでは、触らない」
「今日の直人なら説得力がある」
リヴィアが赤札の束で口元を隠した。灰緑色の目だけが、楽しそうに細くなる。
「昨日までは?」
「菓子代銀貨1枚を借りてる人」
彼女の口元がいたずらっぽく上がり、張り詰めていた倉庫の空気がようやく緩んだ。
鑑定人3人は、42点を金貨280枚から360枚と仮評価した。3人分の鑑定料に金貨3枚、書記の追加賃金に銀貨12枚がかかった。費用は国庫ではなく、宮内局副金庫に残っていた王家私有現金、金貨5枚と銀貨18枚から全額前払いした。
残りの金貨2枚と銀貨6枚は赤札袋へ戻し、宮内局と財務局が封印する。契約書と受領証の正本は財務局記録庫の「王家遺産競売費綴り」、認証写しは国璽院契約庫へ収めた。
競売代金も品番号ごとの袋へ入れ、財務局、国璽院、近衛隊が封印する。落札も相続も済んでいない今、資金繰り表へ書ける収入は0枚だった。
「金貨12,120枚には遠いな」
「でも今日は金を増やす前に、漏れる穴を1つ塞いだ。王領の収入が侯爵の帳簿へ消えなくなるだけでも意味はある」
リヴィアは青札の区画を見渡した。公費で買われた銀器も絵も、もう王や侯爵の気分で持ち出せない。
「民に説明するときは、王様の宝を取り戻したとは言わないほうがいい。国の物を国へ戻した、と伝えよう。王が豊かになった話より、自分たちの税が守られた話のほうが、みんな安心するから」
「それは任せる。俺は金の道を作る。リヴィアは、その道が誰の生活を通るか教えてくれ」
彼女は一瞬だけ目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「うん。そういう王なら、監査しやすい」
* * *
目録の最後には、直人が東京から持ってきた物が並んだ。
眼鏡1本。黒いスーツ上下、白いシャツ、ネクタイ、革ベルト、革靴。23時56分で止まった腕時計。社員証。紙幣3枚と硬貨の入った財布。
すべて白札だった。
眼鏡と腕時計は身につけ、衣服は王宮衣装庫の白札棚へ置く。財布と社員証は財務局記録庫の個人保管箱へ入れ、鍵は直人が持つ。本人の承諾なく国庫へ入れず、担保にも数えない。
社員証には東央証券の社名と、自分の顔写真がある。6日前まで、それが三崎直人を証明していた。
ここでは紙幣も社員証も使えない。それでも無価値だからと捨てれば、東京へ戻れたときに困る。直人は白札の端を指でなぞり、自分が帰る可能性と、この国へ残る決意が、まだ同じ箱に入っていることを思い知った。
「それも売らない理由を残す?」
リヴィアが社員証を両手で持ち、読めない文字を傷つけないよう箱へ戻した。
「残してくれ。国王になる前の俺が、本当にいた証拠だから」
「分かった。わたしが証人になる」
何気ない声だった。だが直人には、白札よりずっと重く聞こえた。
直人は白札の私物目録、赤札の王家遺産仮目録、青札の国有財産目録へ別々に署名した。赤札への署名は遺産管理の確認であり、相続受諾ではないと末尾へ明記する。
所有権を分ける作業は、王の持ち物を増やす儀式ではなかった。
王でも売れない物。王だから預かる物。王になる前から、自分だけの物。
その境界を決めた日、直人の財産が増えたわけではなかった。
代わりにボルガンは、王領の金を1人で動かす権限を失った。
窓の外では、競売候補42点の告知を見た人々が王宮前へ集まり始めている。
次に直人が売るのは、王の権威ではない。
誰にも隠さず、値段を決める機会だった。
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