半分だけ甘い菓子
蜂蜜菓子は、1個で銀貨2枚した。
「買わないよ」
リヴィアは、直人が口を開くより先に言った。
王国暦317年春1月9日の日暮れ前。2人は市場価格調査の記録を財務局へ収め、翌日から始まるヴェスパー商会との共同監査質問書を、市場前の掲示板へ出しに来ていた。
朝から2人で、調査用に買った黒パンを半分ずつ口にしただけだ。掲示板の向かいから、焼いた穀粉と蜂蜜の匂いが漂ってくる。
「まだ欲しいとは言ってない」
「値札を3回見た」
リヴィアは指を3本立てた。
「午前中の市場調査で、国王の給料は決めてないと分かっただろ」
「だから買わない。直人の財布にある東京のお金は、この市場じゃ使えないんだから」
調査費の銀貨1枚は、釣りまで財務局へ戻した。食事と寝床は王宮から現物で与えられているが、国王の俸給も私費の範囲もまだ決まっていない。
見知らぬ国の王になった男が、菓子1個を買えない。冗談としては出来すぎていた。
菓子屋の老婆は、盆へ丸い焼き菓子を並べながら笑った。
「奥さんの財布は固いね」
「妻じゃない」
「午前中にも聞いたよ、その答え」
リヴィアが小声で言った。直人は否定を続けるほど怪しくなる気がして、口を閉じた。
「見るだけなら無料だよ」
老婆が盆の端から、半分に割れた菓子を持ち上げる。
「焼き台から落とした。半分なら銀貨1枚。味は同じさ」
隣で金属音がした。
リヴィアが自分の財布から銀貨1枚を出している。
「個人の買い物。調査費にはしない」
「俺が見てたから買うなら、給料が決まったら返す」
「利息は?」
リヴィアが銀貨を指先でつまみ、楽しそうに首を傾げた。
「国王相手に取るのか?」
「借金王でしょ」
真顔で返され、老婆が声を上げて笑った。
彼女は銀貨を受け取り、半分の菓子を薄い紙へ載せた。さらに小刀でもう2つに割る。
「2人で食べるんだろ?」
今度は、リヴィアも否定しなかった。
* * *
菓子の表面は甘かったが、中は固く、麦の味しかしなかった。
蜂蜜は上から指1本ほどまでしか染みていない。噛んだ瞬間は甘いのに、すぐに味が消える。
「半分だけ甘いな」
「銀貨1枚分だから」
リヴィアは自分の欠片を小さくかじった。
「東京の菓子は、もっと甘い?」
「もっと甘くて、もっと安い物もある。砂糖を袋で買えた」
「砂糖を袋で?」
老婆が聞き返した。
この国では、砂糖を薬や香辛料と同じ棚に置く。白砂糖は小壺1つで銀貨15枚。同じ重さの蜂蜜なら銀貨3枚だ。
「白砂糖を使ったら、この半分で銀貨4枚になるよ」
老婆は仕入れ札と、小さな契約書を見せてくれた。
白砂糖は東の港湾国家サルディア共和国から来る。港で荷役料を払い、ヴェスパー商会の倉庫で積み替え、東西街道を西へ進む。護衛代、正規4か所の通行料、湿気や壺割れの損失が、残った砂糖の値段へ載る。
逆向きには王国の織物が港へ向かう。街道を失えば、甘い物だけでなく、塩、薬、鉄が入りにくくなり、工房の布は売り先を失う。
「通行料の収入だけ見ても、街道の価値は分からないな」
「道が止まったときに困る人は、国庫の帳簿には載ってないからね」
リヴィアの言葉に、直人はうなずいた。
そこで、仕入れ札の末尾にある銀貨2枚が目に入った。
「この『破損備え金』は?」
「砂糖壺が割れたときのためだって、東方甘味組合に毎回払ってる」
「割れた壺は交換してくれる?」
老婆は鼻を鳴らした。
「まさか。門を越えた後の破損は買い手持ちだよ。先月も1つ割れて、中身ごと捨てた」
直人は契約書を開いた。
第6項。王都東門を通過した時点で商品を引き渡し、以後の破損と品質低下は買い手が負担する。
それなのに、組合は壺1つにつき銀貨2枚の「破損備え金」を買い手から取っている。
「壺が割れた損失を店が負うなら、この銀貨2枚は何に備えてる?」
「知らないよ。払わなければ砂糖を卸さないと言われるだけさ」
「壺の破損は買い手負担。それとは別に、売り手の破損へ備える金も買い手が払う。どちらに転んでも組合は損をしない」
直人は仕入れ札と契約書を並べた。
「これは保険じゃない。補償しないのに保険料の名前で取ってるだけだ」
老婆の目つきが変わった。
「取り返せるのかい?」
「少なくとも、今日の分は」
東方甘味組合の出張所は、市場の香辛料区画にあった。
* * *
組合の代理人は、契約書を突き返した。
「破損備え金は古くからの商慣習です。国王でも口を挟めない」
「商慣習なら、何を補償するか説明して」
直人は老婆の契約書を机へ戻した。
「第6項では、東門を越えた後の破損は買い手負担になってる。港から東門までに割れた壺は?」
「届かなかった商品を売るわけにはいかない。当然、組合の負担です」
「なら、その損失は販売できた砂糖の価格へ含めればいい。別に銀貨2枚を取るなら、誰が、いつ、いくら受け取れるのか契約に書く必要がある。でも、どこにも書いてない」
代理人の指が、契約書の端で止まった。
「この金は、何に使った?」
「組合の共同準備金です」
代理人は椅子へ深く座り直し、直人との間に距離を作った。
「残高と支払実績は?」
「それは組合内部の――」
代理人は帳簿を腕の下へ隠そうとした。直人はその動きを見逃さなかった。
「客から目的を示して集めた金だ。内部の金じゃない」
直人は声を荒らげなかった。相手が逃げようとするたび、契約書の同じ2行へ指を戻す。
リヴィアは出張所の外に集まった菓子屋や薬種商を見た。皆、同じ札を持っているのに、代理人の顔色をうかがって黙っている。
「砂糖を卸してもらえなくなるのが怖いんだ」
彼女が直人へ小声で伝えた。
「じゃあ、店を1軒ずつ戦わせない」
直人は身分札を机へ置いた。
「明日から、破損備え金の徴収を停止する。砂糖の本体価格と正規費用は払うから、これを理由に出荷を止めることも禁止する。異議があるなら、明日の共同監査へ残高と支払記録を持ってきて説明してくれ」
「外国商会との取引へ、勝手な――」
「これはエルディアの市場で、エルディアの店から集めた金だ。それに、ヴェスパー商会は明日から帳簿を開く。ちょうどいい。どこまでが商会の費用で、どこからが組合の上乗せか、全部分けよう」
代理人は唇を噛んだ。
その日の徴収箱には、銀貨12枚が入っていた。砂糖を受け取った6店から銀貨2枚ずつ集めた分で、まだ組合本部へ送られていない。
直人は仕入れ札と照合し、6店へ返させた。
6枚の仕入れ札と返還受領証はリヴィアが照合し、破損備え金の徴収簿と残高帳は出張所で封印した。契約書の認証写しは、翌日の共同監査資料へ加える。
老婆は戻ってきた銀貨2枚を掌へ載せ、しばらく動かなかった。
「これで、砂糖が安くなる?」
「次の仕入れからは小壺銀貨13枚になる計算だ。でも、店が抱えた古い在庫まで無理に値下げしなくていい」
「分かってるよ。安くするなら、次の壺からだ」
老婆は銀貨をしまい、盆の端から小さな菓子の欠片を2つ取った。
「これは試食だ。売り物にならない端だから、賄賂じゃないよ」
「国王は菓子をもらっていいのかな」
「そこまで監査したら、甘い物が冷めるよ」
リヴィアが1つ受け取り、もう1つを直人へ渡した。
今度の欠片も、半分だけ甘かった。
それでも、最初より少しだけ胸がすく味がした。
* * *
掲示板の脇で、仕事帰りの母親が菓子の値札を見て首を振った。子どもは焼いた栗を渡され、1度だけ菓子を振り返ってから笑った。
「リヴィアは、子どもの頃に甘い物を食べた?」
「父の店で、売れ残った干し果物入りのパンを」
「パン屋だったんだな」
リヴィアの指が、紙包みの端をゆっくり折った。
12年前、彼女が15歳のとき、王都の銀行で取り付けが起きた。
最初は大商人が預金を引き出したという噂だった。翌朝には店主たちが銀行前へ並び、昼には扉が閉まった。リヴィアの父も列にいたが、順番が来る前に払い戻しは止まった。
「預金は、ただの蓄えじゃなかった。翌週に買う小麦粉、職人2人の賃金、冬の薪。店を動かす金が全部、銀行の中にあった」
粉屋は付け払いを断った。粉屋自身も現金を集めなければ、仕入れを続けられなかったからだ。父は道具を売り、親類から借りた。それでも足りず、銀行の扉が閉まって8日後に窯の火を落とした。
「銀行が再開した後、預金は?」
「一部だけ戻った。でも、その頃には店も仕入れ先の信用も失ってた」
父は手元の銅貨を職人2人の賃金へ回した。母は縫い物で食事をつなぎ、リヴィアは神殿学校の給費生になった。父は別のパン屋に雇われたが、自分の店を再び持つことはなかった。
「8日だけでも、店には長すぎたんだな」
「銀行に資産が残っていたかどうかなんて、15歳のわたしには分からなかった。支払日に使えない金なんて、店にはないのと同じだった」
直人はすぐに制度の話をしなかった。
預金保護、緊急融資、資産査定。知っている言葉を並べても、12年前の窯へ火は戻らない。
「だから、銀行と金融に詳しい俺も信用できなかった?」
「最初はね」
「今は?」
リヴィアは直人の顔を見て、少し考えるふりをした。
「期限切れの徴収を止めて、補償しない保険料も返させた。少なくとも、人のお金を数字だけで見てはいないと思ってる」
「ずいぶん条件つきだな」
「監査だから」
彼女は笑ったが、すぐ真剣な目へ戻った。
「失った店は戻らない。でも、次に同じことが起きたとき、次の店を失わない仕組みは考えて」
「分かった。銀行だけを救って、預けた人を置き去りにする制度にはしない」
リヴィアは、その言葉が軽い慰めでないか確かめるように直人を見た。
「約束?」
「国王として。それから、監査される側として」
リヴィアは、今度こそ迷わずうなずいた。
* * *
王宮へ戻るころには、東の空に細い月が出ていた。
財務局の長机には、明日の共同監査資料と、侯爵邸から回収した王室財産の仮目録が積まれている。
銀食器120点、絵画11点、絨毯7枚、宝飾品23点。
国王が使う物、国家の公務に使う物、売却できる物。その境界を決めなければ、国有倉庫の無償使用と同じ帳簿外利益をまた作る。
「次は、王様の持ち物を決めよう」
直人が言うと、リヴィアは空になった紙包みを畳んだ。
「直人の私費も、やっと決められるね」
「菓子代を返せる程度には頼む」
「まず、銀貨1枚と利息」
リヴィアは紙包みを帳簿のように丁寧に畳み、直人の前へ置いた。
「利息を取るのか?」
「借金王だから」
半分だけ甘い菓子の味が、まだ舌に残っていた。
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