王様、市場で値切る
王都の小麦は、王宮の帳簿より3割高かった。
王国暦317年春1月9日の朝、直人は王冠を置き、肘の擦れた外套を着て市場へ向かった。
「それなら、どこから見ても国王には見えないね」
王宮の裏門で、リヴィアが満足そうに言った。
彼女も濃紺の実務服ではなく、灰色のスカートに短い外套を合わせ、栗色の髪を布で覆っている。
「褒められてる気がしないな」
「褒めてるよ。さっき選んだ外套には、王宮の印が背中についてた。あれでお忍びのつもりなら心配だった」
リヴィアが背中の印を指で示す真似をした。
「先に言ってくれ」
「言ったら、直人がどこまで気づくか分からないでしょ」
涼しい顔で返され、直人は言葉に詰まった。昨日まで「三崎様」と呼んでいた人物と同じには見えない。
20歩後ろでは、荷運び人に扮したガレンが真顔でうなずいている。別の入口から私服の近衛兵2人も入る手はずだった。
「市場を見るだけなのに、護衛3人は多くないか?」
「国王が銅貨を値切って刺された、なんて記録を残したくない」
「まだ値切るとは言ってない」
直人が抗議すると、リヴィアは彼の手にある銀貨1枚を見た。
「そのために来た顔をしてる」
調査費は財務局の小口現金から借りた銀貨1枚だけだ。黒パンを1個買って価格と内訳を確認し、釣りと受領証は戻す。直人にはまだ、この世界で自由に使える給料がない。
「値切るんじゃない。高い理由を調べる」
「それを市場では、面倒な客と言うんだよ」
リヴィアが先に歩き出す。直人は笑いをこらえるガレンをひと睨みして、その背を追った。
* * *
朝の市場には、焼けた小麦と濡れた藁の匂いが満ちていた。
農家が野菜を籠へ並べ、荷運び人が穀物袋を肩に担ぐ。銀貨を持たない客は卵と豆を交換し、露店の女は銅貨を歯で噛んでから箱へ落とした。
王宮の帳簿では、小麦1袋が銀貨10枚。市場の3店はそれぞれ銀貨13枚、14枚、13枚を付けていた。薪1束は帳簿の銅貨7枚に対して3店とも銅貨9枚。灰石鹸1個は帳簿の銅貨4枚に対し、6枚、6枚、7枚。
「王宮だけ安いのか、市場全体が上がったのか。品の違い、まとめ買い、後払いの条件もある。値札だけでは決められない」
直人が記録を見せると、リヴィアは市場の北を指した。
「王宮の納入業者には、国有倉庫を使える特例があるかもしれない。安く売る代わりに、別の利益をもらってる可能性がある」
「じゃあ、買値だけじゃなく契約全体を見る。それから市場が高いか判断しよう」
直人は市場の商人を疑うだけでなく、王宮が何を見落としているかも調べることにした。
穀物商の女に小麦の値上がりを尋ねると、彼女は帳台の下から革紐を出した。色の違う木札が4枚通されている。
「東から来るだけで、街道、石橋、東門、市場入口の4か所だよ。小麦1荷車で銀貨6枚。春は徴収所で待つ間に馬の餌までかかる」
「1台に何袋?」
「うちは10袋」
女が両手を広げて、いつもの積み方を示した。
「銀貨6枚なら銅貨72枚。1袋につき銅貨7枚余りか」
直人がすぐ帳面へ書くと、リヴィアが横からのぞき込んだ。
「もう換算に慣れたんだ」
「数字だけはな。でも、この上乗せだけでは銀貨3枚の差を全部説明できない」
「仲買の利益、傷んだ小麦、売れ残りもあるからね」
穀物商の女は2人を見比べ、声を上げて笑った。
「細かい旦那さんだ。奥さんが横で止めないと、日暮れまで計算してそうだね」
「夫じゃない」
「妻じゃないよ」
ほとんど同時に答えた。
「なら、これからかい?」
リヴィアの頬が目に見えて赤くなった。直人は帳面へ視線を落とし、銅貨7枚という計算を必要以上に濃く囲む。
背後では、ガレンが小麦袋の品質を確かめるふりをしていた。肩が震えている。
「護衛を減らしたい理由ができた」
直人が小声で言うと、リヴィアは赤いまま答えた。
「聞こえてるから、後で勤務評価に書く」
「国王の評価もするのか?」
「監査する約束でしょ」
女の笑い声は、しばらく止まらなかった。
* * *
黒パンの露店では、小さな丸パン1個が銅貨6枚だった。王宮の帳簿では4枚である。
「2個なら、少し安くなる?」
直人が尋ねると、腕に白い粉をつけた店主は鼻を鳴らした。
「粉と薪で4枚、塩と店代で1枚。残り1枚から売れ残りを引く。2個を10枚にしたら、あんたたちの昼飯のために、うちの夕飯を削ることになるよ」
値切れる利益など、ほとんど残っていなかった。
「悪かった。1個ください」
「暮らしの内訳を聞く値切りだったね」
リヴィアがからかうと、店主の目も少し和らいだ。
銀貨1枚を渡し、銅貨6枚の釣りを受け取る。店主は字が書けないため、隣の乾物商を立会人にして、リヴィアが2通の受領証を作った。店主が指印を押し、1通は店へ、もう1通は調査袋へ入れる。
「ところで、これも値段に入ってるの?」
リヴィアが荷車の横を指した。
4枚の木札とは別に、赤く塗られた小さな札が1枚ぶら下がっている。札には「春季衛生検査、銀貨1枚」とある。
穀物商の女が急に口を閉じた。
「市場へ入る前に払うんだよ」
「さっきは4か所と言ったよね」
「それは通行料さ。こっちは検査だから、別だって」
声が小さい。リヴィアは市場入口へ目を向けた。赤い腕章の男たちが荷車を止め、車輪を見るふりをして銀貨を受け取っている。
「みんな、おかしいと思ってる。でも逆らえば、荷を調べると言って昼まで止められる。野菜も魚も傷むから、銀貨1枚を払うほうが安い」
直人は赤札を手に取った。
前年春の疫病対策令が発行根拠になっていた。王都へ入る食料を30日間検査するための臨時命令だった。札の端に、開始日と終了日が刻まれている。
終了日は、王国暦316年春2月12日。
もう1年近く前に切れていた。
「検査は、本当にしてる?」
店主は乾いた笑いを漏らした。
「車輪を蹴って、荷台をのぞいて終わりさ。病気の見分け方を知ってる男なんて、1人もいないよ」
直人の中で、数字が1本につながった。
値段が高い理由を商人の強欲にすれば、この銀貨は見えない。正規の4徴収へ紛れ込ませ、別名をつけた期限切れの5つ目だ。
「リヴィア、去年の臨時命令は、延長されてる?」
「されてない。延長には財務局と医務室の署名が必要だけど、見たことがない」
彼女の表情から、先ほどまでの照れが消えた。代わりに、市場の人々がなぜ黙って払ったかを理解した怒りが浮かぶ。
「でも、直人が国王だと明かして命じるだけでは駄目。あとで『知らなかった』と言って、別の名前で始める」
「なら、言い逃れできない形にしよう」
直人はガレンへ目を向けた。
「入口を押さえてくれ。今朝集めた札と銀貨を、荷車ごとに照合する。誰も逃がさなくていい」
ガレンは荷運び人の帽子を脱ぎ、近衛隊の徽章を見せた。
「近衛隊だ。徴収箱から手を離せ」
市場の空気が一変した。
* * *
赤い腕章の責任者は、徴収箱を抱えたまま声を張った。
「王都の衛生を守る正当な費用だ! 市場管理人の許可もある!」
「許可書を見せて」
直人が手を出すと、男は擦り切れた命令書を突きつけた。
「ここに王命がある!」
「あるな。終了日も書いてある」
直人は命令書と赤札を、集まった商人たちへ向けた。
「この検査命令は、去年の春に30日で終わってる。延長の署名もない。期限切れの命令で金を取り続けたなら、これは手数料じゃない。ただの無断徴収だ」
「異国人に何が分かる!」
「期限なら読める。それと――」
直人は古い外套の内側から国璽印の入った身分札を出した。
「異国人ではあるけど、今はこの国の王だ」
責任者の顔から血の気が引いた。周囲の商人たちがどよめき、少し遅れて膝をつこうとする。
「膝はいい。赤札を持っている人は、ここへ並んでくれ。今日払った分は、今ここで返す」
責任者が徴収箱を抱きしめた。
「すでに管理人へ納める金だ!」
「誰へ納める予定だったかは、帳簿を見れば分かる。まず、取る根拠のない金を持ち主へ戻す」
箱には銀貨18枚が入っていた。赤札の番号と荷車を照合し、ガレンの兵が1台ずつ返していく。
穀物商の女も銀貨1枚を受け取った。手の中の銀貨を何度も確かめ、それから直人を見た。
「本当に、返していいのかい?」
「もともと、あなたの金だ」
女は笑わなかった。代わりに、ぎゅっと銀貨を握り、深く頭を下げた。
黒パンの店主は、返ってきた銀貨を粉のついた手で掲げた。
「次の小麦から、パンを1個だけ値下げできるかもしれない。全部じゃないよ。粉屋にも返ったか確かめてからだ」
「それでいい。無理に安くしなくていい。誰が取り、誰へ返したかを見えるようにする」
直人は責任者へ、徴収箱、赤札の控え、集金簿を市場管理所へ運ばせた。リヴィアが商人たちの前で、臨時徴収の停止と、過去分の返還窓口を翌朝までに掲示すると読み上げる。
彼女は難しい条文を使わなかった。
「今日から、この赤札には払わなくていい。荷を止められたら、近衛隊へ知らせて。払ってしまった人も、札が残っていれば返還を申し出られる」
商人たちの顔から、ようやく警戒がほどけた。
直人が仕組みを止め、リヴィアが「明日からどうすればいいか」を民へ渡す。2人でなければ、命令だけ出して市場を置き去りにしていただろう。
* * *
市場北側の国有倉庫では、もう1つの価格差が見つかった。
王宮納入業者は黒パンを1個銅貨4枚で納める代わりに、倉庫1区画を無償で使い、市場入口の正規搬入料も免除されていた。同じ区画を一般商人へ貸せば月金貨3枚。月600個を納めるなら、パン代だけを比べて「王宮は安く買った」とは言えない。
「市場が高いんじゃない」
直人は宮内局命令書の認証写しを受け取った。
「王宮が、帳簿に書かない倉庫代で差額を払ってたんだ」
「しかも国の倉庫を、王家の財布みたいに使ってる」
リヴィアの声には、もう遠慮がなかった。
ただし、直人は納入業者をすぐ倉庫から追い出さなかった。明日からパンが止まれば、王宮職員が困る。無償使用分を含めた契約全体を公開し、継続するか競争にかけるかを決めればいい。
帰り道、直人は調査用に買った黒パンを差し出した。
「価格と受領証は残った。パンは傷む前に処理しよう」
「陛下が全部どうぞ」
「今、2人しかいない」
リヴィアはわざとらしく周囲を見回した。
「じゃあ、直人が全部どうぞ」
「半分ずつにしよう。今日の共同調査の報酬」
彼女はパンを割り、大きいほうを直人へ渡した。
「夫婦には見えないね」
「まだ気にしてたのか?」
「勤務評価に必要だから」
リヴィアは真面目な顔を作ったが、目元は笑っていた。
「何点だった?」
リヴィアは固いパンをひとかけら噛み、考えるふりをした。
「赤札を止めたから、今日は合格」
乾いたパンは固かったが、朝より少しだけうまく感じた。
財務局へ戻ると、調査費の釣り銅貨6枚と黒パンの受領証を出納簿で照合した。価格記録、4徴収の木札を写した調書、国有倉庫の命令書の認証写しも、市場価格調査綴りへ収める。赤札、期限切れ命令書、集金簿、徴収箱は市場管理所で近衛隊と市場書記が封印した。
4つの正規徴収はまだ残っている。農家の受取価格も、仲買の利益も、国庫へ届く金額も分からない。だが、期限切れの5つ目は止め、銀貨18枚を持ち主へ返した。
次に追うべきは税率ではない。
税を集めた後、誰の手元へ残るのか。
その答えは、翌日の共同監査で隠せなくなる。
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