第9話:最適解という名の壁
その男は、地下二階に似合わなかった。
仕立てのいいスーツ。皺一つない。手にはタブレット端末。涼しげな目元には、感情の起伏というものが見当たらない。
「ダンジョン対策課第3係。黒田主任ですね」男は名刺を差し出した。「本庁・都市再生推進室、遠野です」
都市再生推進室。再開発の、本丸だった。
「ご用件は」黒田は名刺を受け取りながら、警戒を隠さなかった。
「桜ヶ丘第二公園のダンジョンについて、捜索業務の終了をお願いに参りました」遠野は淀みなく言った。「当該区画は、再開発計画の対象です。来月、ダンジョンは正式に『区有財産』として登録され、安全化処理──すなわち、計画的な封鎖と再整備に入ります」
「封鎖」黒田の声が硬くなった。「中に、子どもがいるかもしれない」
「存じています」遠野は表情を変えなかった。タブレットをスワイプし、数字の並んだ画面を見せる。「ですが、主任。現実的にお話ししましょう。当該児童の生存確率は、専門家の試算で、現時点で約三パーセント。捜索を続けた場合、追加で必要な予算は推計四千万円。そして捜索の長期化により、再開発の遅延がもたらす機会損失は、十二億円」
「子どもの命を、金で計算するんですか」
「私は、区政の最適解を計算しています」遠野の声に、悪意はなかった。それがかえって、底冷えがした。「三パーセントの生存可能性に四千万を投じ、十二億の損失を生むか。あるいは、その資源を、確実に救える別の福祉に回すか。──感情を排して考えれば、答えは明白です」
新庄が、思わず立ち上がった。「そんな……三パーセントだって、ゼロじゃない! その子の、お母さんが──」
「お母様の悲しみは、理解します。ですが、悲しみは、区政の予算には計上できません」遠野は淡々と言った。「私が冷たいのではありません。区の資源が、有限なのです」
黒田は、長いこと黙っていた。
それから、静かに口を開いた。
「遠野さん。あなたの計算は、たぶん、正しい」
ハルが、驚いて黒田を見た。
「資源は有限だ。一人に四千万かけるなら、その金で救える別の誰かがいる。あなたの言う『最適解』は、行政の一つの正義です。否定しません」黒田は続けた。「でも、一つだけ、あなたの計算式に入っていないものがある」
「何でしょう」
「『この区が、どんな区でありたいか』だ」黒田は上履きの袋を、遠野の前に置いた。「三パーセントの子を見捨てる区と、三パーセントの子を見捨てない区。長い目で見て、住民が安心して住みたいのは、どっちですか。子どもが穴に落ちたとき『生存確率が低いので、再開発を優先します』と言う役所に、誰が税金を払いたいと思う?」
遠野の指が、タブレットの上で、一瞬止まった。
「それは……数字にならない」
「ええ。数字にならない。でも、行政が守るべき一番大事なものは、たいてい、数字にならないんです」黒田は言った。「俺は、三枚目の書類を書きます。あなたの計算を覆す書類を。来月の登録までに、間に合わせる」
遠野は、しばらく黒田を見つめていた。それから、タブレットを閉じた。
「……面白い方だ」彼は初めて、わずかに目を細めた。「いいでしょう。来月の財産登録まで、約三週間。それまでに、あなたが『数字にならない正当性』を、数字で示せたら、私は計画の再検討を上に上げます。示せなければ──予定通り、封鎖します」
「上等です」
遠野が帰った後、ハルが息を吐いた。「三週間で、子どもを見つけて、再開発を止める。……無茶よ」
「ええ」黒田はメモを開いた。「だから、一人じゃやりません。住民を、味方につける。郷田会長の出番だ」
彼はペンを取り、大きく書いた。
「住民説明会」と。
大型イベント①、遠野ケイ登場。再開発の本丸からやってきた、感情を排した効率主義者。彼は悪人ではありません。だからこそ、手強い。
「三パーセントの子を見捨てる区と、見捨てない区。住民が住みたいのは、どっち?」──黒田の反論は、数字にならないものの価値でした。
タイムリミットは三週間。子どもを見つけ、再開発を止める。次回、住民説明会へ向けて。




