第5話:上履きの名前
佐倉ハルトの母は、面会室で、ずっと両手を膝の上で握りしめていた。
二十代後半の、痩せた女性だった。夜勤明けなのだと言った。あの日も夕方まで仕事で、ハルトは一人で公園にいた。
「わたしが、目を離したから」
それが、彼女が最初に口にした言葉だった。
「警察にも、児童相談所にも、もう諦めたみたいに言われて。一か月も経つと、みんな、もう……」彼女は言葉を詰まらせた。「あの子、もう、どこにもいないんだって。そう思えって」
黒田は、テーブルの上に証拠保全の袋を二つ置いた。上履きと、給食袋。
「これは、桜ヶ丘第二公園のダンジョン内部で発見されました」彼は静かに言った。「上履きには、ハルトくんのお名前が。給食袋の中身は、数日前のものです」
母親が、震える手で袋に触れた。上履きのつま先の、にじんだ名前を、指でなぞる。
「……数日前」
「断定はできません。ですが、現時点で、ハルトくんが生存している可能性は、ゼロではありません」黒田は言葉を選んだ。希望を、安易に渡してはいけない。だが、奪ってもいけない。「区は、捜索を続けます。対策課の、正式な業務として」
母親が顔を上げた。涙が、ようやく堰を切ったように溢れた。
「でも、わたし、お金なんて。捜索の費用とか、そういうの、払えなくて」
「お金は要りません」黒田は即答した。「これは、行政の仕事です。あなたが税金を納めている、その対価です。──堂々と、待っていてください」
面会室を出て、黒田はしばらく廊下の窓の外を見ていた。新庄が、隣に立った。
「黒田さん。さっき、断定はできない、って何度も言ってましたね。本当は、もっと希望があるって言ってあげたかったんじゃ……」
「言えない」黒田の声は硬かった。「希望を渡して、それが叶わなかったとき、人は二度死ぬ。一度目は事実で、二度目は、渡された希望でだ。──だから役所の言葉は、いつも冷たく聞こえる。冷たいんじゃない。守ってるんだ。残された人を」
新庄は、メモ帳に何も書けなかった。ただ、その言葉を、胸に刻んだ。
課に戻ると、ハルが古い資料の山と格闘していた。
「あんたの言ってた『巻き込み』の通達、探した」彼女は黄ばんだ冊子を差し出した。「十年前の国の内部文書。『ダンジョン突発発生時、半径五十メートル以内の生体を、空間ごと迷宮内部に取り込む事例が確認された』。──公表されてない。パニックを避けるためだって」
黒田は冊子をめくった。事例の記録。取り込まれた人間が、迷宮内の「安定領域」で数週間生存していた例が、わずかだが、ある。
「安定領域」黒田は呟いた。「魔物の少ない、空気と水のある層。そこに辿り着ければ、子どもでも、しばらくは──」
「生きられる」ハルが頷いた。「でも、迷宮は拡張してる。安定領域がいつ崩れるか分からない。時間との勝負よ」
そのとき、桐生課長が、湯呑みを手に振り返った。
「黒田くん。本庁から、また内線が来とった。阿久津くんだ」昼行灯の目が、珍しく曇っていた。「桜ヶ丘の件、捜索は『当面の応急措置』に留めるように、とのことだ。長期化は、認めん、と」
「理由は」
「言わんよ。ただ──」桐生は茶をすすった。「『再開発の予定がある区画なので』と、向こうの偉いさんが言ったそうだ」
再開発。
黒田の手元のメモに、二度目のその文字が刻まれた。今度は、下線つきで。
子どもが、迷宮の底で生きているかもしれない。なのに本庁は、捜索を急がせるどころか、止めにかかっている。再開発という、たった一つの言葉のために。
「……何かが、おかしい」黒田は呟いた。
窓の外で、桜ヶ丘の方角の空が、夕焼けに染まっていた。
ハルトくんの、お母さん。「希望を渡して叶わなかったとき、人は二度死ぬ」──黒田が役所の冷たい言葉に込めた、もう一つの優しさです。
そして「巻き込み」の機構。安定領域に辿り着けば、子どもは生きられる。捜索は、時間との勝負になりました。
本庁が捜索を止めにかかる理由──「再開発」。この縦穴は、思ったより深そうです。
次回、予算という名のボスとの、第一ラウンド。




