第29話:連携協定
崩落事故の記録は、波紋を広げた。
黒田が提出した記録は、克明だった。ヴァルゴが安全確認を省略した事実。崩落後、人を残して撤退した過失。そして──民間委託の契約に、「採算の合わない案件は、誰も拾わない」という致命的な空白があったこと。
議会は紛糾した。真壁が推進した「全面民間委託」は、一転、批判の的になった。効率の名のもとに、住民の命を危険に晒した、と。
そして、その渦中で、災対庁の灰原が、地下二階を訪れた。
「黒田主任」彼は深く頭を下げた。「私は、間違っていた」
「灰原さん」
「連鎖湧出の重圧に負けて、公的責任を、丸ごと民間に投げようとした」灰原の声は苦かった。「あなたが言った通りだ。足りないのは、手じゃない。『公が、最後の砦である』という覚悟だった。──崩落の現場で、思い知らされたよ」
彼は、一枚の文書の草案を机に置いた。
「災対庁として、提案したい。あなたが言っていた、連携の協定だ」
黒田が、その草案を手に取った。
「『桜ヶ丘区・災対庁 ダンジョン対応連携協定』」灰原が説明する。「連鎖湧出のような、二層構造が想定していない事態で、区と災対庁が責任の境界を明確にする。危険等級が上がっても、現場の生活対応と人命救助の初動は、区が災対庁の委任のもとに継続できる。──桜ヶ丘であなたが勝ち取った『委任』を、制度として恒久化するんだ」
新庄が息を呑んだ。「黒田さんが一件ごとに書類で勝ち取ってきたものを……制度に、するんですね」
「そうだ」灰原が頷いた。「民間委託を行う場合も、条項を一つ義務づける。『採算の合わない案件──弱者の救助、生活再建、巻き込まれた者の捜索は、必ず公が引き受ける』。効率を民間に任せても、公的責任の空白は作らせない」
黒田は草案をじっくり読み、一か所だけ、付箋を貼った。
「一つだけ、加えてください」彼は言った。「この協定の適用範囲を、桜ヶ丘区だけにしないでほしい。連鎖湧出は、全国で起きてる。青葉区も、ほかの区も、同じ壁にぶつかってる。──これを、全国の自治体が使える『標準モデル』にしてください」
灰原が目を見開いた。
「俺が最初に作った『不法投棄物』の前例が、青葉区を動かしたように」黒田は続けた。「この協定も、前例になる。一つできれば、誰でも使える。──地下二階の、たった一枚の書類が、全国の、採算で切られそうな命を拾う仕組みになるんです」
灰原は、しばらく黒田を見つめていた。それから、深く頷いた。
「……いいだろう。標準モデルとして、国に上申する」彼は言った。「あなたという人は、本当に、書類で世界を変えようとするんだな」
「世界は、大げさです」黒田は薄く笑った。「俺はただ、目の前の穴の底に、人を置き去りにしたくないだけですよ。それが、たまたま書類だった。それだけです」
協定書の調印式は、ささやかなものだった。
桜ヶ丘区を代表して、桐生課長が判を押した。「わしの、最後の大仕事だな」茶をすすりながら、どこか嬉しそうに。
そして災対庁を代表して、灰原が判を押した。
協定書の末尾には、こう記されていた。
『本協定は、桜ヶ丘第二公園ダンジョン事案における、人命救助の委任の前例に基づく』
あの日、子ども一人を救うために、黒田が絞り出した一枚の書類。それが今、二つの判子に支えられて、制度になった。
「二層構造の壁に」協定書を見ながら、ハルが呟いた。「風穴が、空いたね」
「ええ」黒田は頷いた。「まだ、小さな風穴ですが」
地下二階の蛍光灯が、その日はいつもより、明るく灯っていた。
連携協定。災対庁・灰原が、折れました。「足りないのは、手じゃない。公が最後の砦である覚悟だった」。
黒田が一件ごとに書類で勝ち取ってきた「委任」が、ついに制度になりました。しかも、全国の標準モデルへ。一件の前例が、全国の命を拾う仕組みに。
桐生課長と灰原の、二つの判子。二層構造の壁に、風穴が空きました。
次回、第2部・最終話。それでも、課は回る。




