第20話:契約書の、空白
商店街の地下のダンジョンは、厄介だった。
古い商店街の、ちょうど真下。アーケードの下に、十数軒の店が並び、その地下を、迷宮が侵食し始めている。ヴァルゴは「最速処理」を約束し、立ち退きと封鎖を、強引に進めていた。
「全店、三日以内に退去。封鎖後、ダンジョンを処理し、跡地は再開発に引き渡す」鷲尾は、商店街の店主たちに、淡々と通告した。「補償の話は、区役所にしてください。我々は、処理が仕事なので」
店主たちは、騒然となった。何十年もそこで商売をしてきた人々だ。三日で出ていけと言われて、納得できるはずがない。
そして、その中に、一人、動けない老人がいた。
「立ち退けと言われても……」豆腐屋の老店主だった。腰が悪く、一人暮らし。「わしは、ここしか、知らんのだ。引っ越し先も、当てがない」
鷲尾は、一瞥して、言った。「それは、我々の契約範囲外です。区役所へどうぞ」
そして、部隊に指示した。「予定通り、明後日、封鎖する。店が残っていようと、関係ない。処理を優先する」
黒田が、割って入った。「待ってください。あの店主は、行き場がない。封鎖を強行すれば、住居を失う」
「だから、それは契約範囲外だと」鷲尾は、面倒くさそうに言った。「役所は、非効率の塊だな。一人の年寄りのために、全体を止めるのか? すぐに分かるよ。だから、民間に任せろって話になるんだ」
黒田は、答えなかった。代わりに、ヴァルゴと区が交わした、委託契約書を、その場で広げた。
そして、付箋を、一枚、貼った。
「鷲尾さん。この契約書の、第八条。『業務範囲』の規定です」彼は、淡々と読み上げた。「『受託者は、ダンジョンの封鎖・処理を行う。ただし、住民の生活再建に関する事項は、業務範囲に含まない』。──つまり、あなた方は、生活再建を、やらない」
「当然だ。それは役所の仕事だろう」
「ええ。だから、ここに、空白がある」黒田の声が、鋭くなった。「契約書には、こうも書いてある。第十二条。『処理は、区の生活環境保全に支障のない範囲で実施する』。──行き場のない住民を、住居ごと封鎖するのは、『生活環境保全に支障がある』。つまり、あなた方は今、契約違反をしようとしている」
鷲尾の、余裕の笑みが、わずかに揺れた。
「……屁理屈を」
「契約です」黒田は引かなかった。「あなた方の『処理』が、住民の生活を壊すなら、それは契約の範囲を超えてる。封鎖は、生活再建の目処が立つまで、執行できない。──そして、生活再建は、区の仕事だ。だから、区が、やります」
彼は、もう一枚の書類を取り出した。豆腐屋の老店主のための、緊急の住居あっせんと、移転補償の申請書。一晩で、組み上げたものだった。
「あなた方が『採算に合わない』と切り捨てた、たった一人の生活再建。それを、区が引き受ける。だから、封鎖は、それが済んでからだ」黒田は、店主に向き直った。「ご安心ください。住む場所は、区が、必ず用意します。堂々と、待っていてください」
老店主の目に、涙が滲んだ。
鷲尾は、しばらく黒田を睨んでいたが、やがて、鼻で笑った。
「……効率が悪い。本当に、効率が悪い男だ」彼は背を向けた。「いいだろう。一人の年寄りのために、処理を遅らせてやる。だが、覚えとけ。世の中は、効率で回ってる。お前のやり方は、いつか、誰かを巻き添えにする」
鷲尾が去った後、ハルが、ぽつりと言った。
「……あんた、あいつを、契約書一枚で、止めた」
「止めてません。遅らせただけだ」黒田は、冷静だった。「あいつは、必ず、また強行する。効率のために。──そのとき、本当の戦いになる」
だが、商店街の店主たちは、その日、初めて、区役所を見る目を変えた。
「役所の兄ちゃんが、わしらを、守ってくれた」
それは、住民協働の、新しい種が、また一つ、蒔かれた瞬間だった。
第2部の勝負回。黒田の武器は、今回も書類──民間委託の「契約書の空白」を突きました。採算で切られた一人の老店主を、区が拾う。第2部の型の確立です。
「効率が悪い男だ」と吐き捨てる鷲尾。だが、効率の外に、拾うべき命がある。それが、公の仕事。
鷲尾は、必ずまた強行する。次回、商店街の地下に潜む、真壁の再開発の影。




