第2話:地下二階の課
ダンジョン対策課第3係は、区役所地下二階の、もとは書庫だった部屋にある。
蛍光灯は一本切れたまま。壁際には誰も使わない申請書の段ボールが積まれ、その上で課長の桐生が茶をすすっていた。定年まであと二年。波風を立てたくない、を絵に描いたような男だ。
「黒田くん。児童福祉課から問い合わせが来とるよ。上履きの件」桐生は湯呑みを置きもせず言った。「……まあ、お茶でも飲みなさい」
「課長。あれは捜索案件です。対策課で受けます」
「受けて、どうするね。捜索は児童福祉課と警察の管轄だ。うちは迷宮の封鎖まで。波風は、立てたくないんだがねえ」
黒田は答えず、机に三つのファイルを並べた。「廃棄物処理条例」「災害対策」「児童福祉」。それぞれ別の課の管轄だ。一つの穴の底に落ちた一足の上履きが、三つの部署の境界線の上に、ちょうど落ちている。
「黒田さん」新庄アオイがメモ帳を抱えて寄ってきた。入庁二年目。正義感だけは人一倍あるが、現実にいつも打ちのめされている。「あの、わたし、調べたんです。先月の行方不明の子……佐倉ハルトくん、六歳。公園で遊んでて、夕方には消えてた。神隠しみたいだって」
「神隠し」黒田は古い記録の束をめくっていた手を止めた。「ダンジョンは、稀に、湧くときに周りの空間ごと『巻き込む』ことがある。十年前、国がそれを認めた古い通達がある。……公表されてないだけだ」
新庄が息を呑んだ。「じゃあ、ハルトくんは、底に落ちたんじゃなくて」
「ダンジョンに、取り込まれた。かもしれない。だとしたら、まだ──」黒田は言葉を切った。希望を口にするには、まだ何の根拠もなかった。
そのとき、ドアが乱暴に開いた。芹沢ハルだった。ジャージにスニーカー、背には古い剣。嘱託の探索員だが、契約書はまだ交わしていない。
「あんたの査定報告、読んだ」ハルは黒田の机に紙を叩きつけた。「一階層『だけ』潜るって話だったよね。あれ、嘘でしょ。あの迷宮、底が深い。二層目以降に何かいる」
「分かります? さすがプロだ」
「茶化さないで。子どもが取り込まれたなら、生きてるうちに見つけないと意味がない。ダンジョンの中の時間は、外と違うことがある。早ければ早いほどいい。──で、あんたら役所は、いつ動くの」
部屋が静かになった。桐生は茶をすすり、新庄は黒田を見た。
黒田はファイルを閉じた。「動きます。今日中に。芹沢さん、嘱託契約、正式にお願いできますか。捜索は危険です。報酬は……正直、安い」
「金の話じゃない」ハルは吐き捨てた。「あたしがギルドを辞めたのは、金にならない人助けを切り捨てる連中に嫌気が差したから。……まあ、役所も似たようなもんだと思ってたけど」
「似てます」黒田はあっさり認めた。「だから、書類で何とかするんです」
ハルが、ふっと鼻で笑った。呆れと、ほんの少しの興味が混じった笑いだった。
桐生課長が、湯呑みを置いた。「黒田くん。一つだけ言っておく」皺だらけの顔が、ほんの一瞬、別の表情を見せた。「やるなら、ちゃんと書類を残しなさい。誰かが後で『管轄外だった』と言い出したとき、お前さんを守るのは、その紙きれだけだ。──わしの経験だよ」
黒田は課長を見た。事なかれの昼行灯の奥に、何か言いかけて飲み込んだものがあった気がした。
「肝に銘じます」
その夜、黒田は一人、課に残って書類を作り続けた。捜索を「対策課の正式業務」にするための、論理の組み立て。三つの管轄の隙間を縫う、たった一枚の申請書。
新庄が淹れた、ぬるいお茶が机の端で冷めていく。
ふと、彼女が遠慮がちに尋ねた。「黒田さんは、どうして対策課に来たんですか。前は、本庁のエリートだったって」
黒田の手が、一瞬止まった。
「……前の職場でな。同じような穴の底で、間違えた。それだけだ」
それ以上は語らなかった。新庄も、聞けなかった。
地下二階の蛍光灯が、ジジ、と鳴った。
第3係、三人と一人(嘱託)、出揃いました。桐生課長の「紙きれだけが、お前さんを守る」という台詞、後でまた効いてきます。
そして黒田の「前の職場での間違い」。彼がなぜ飛ばされたのか──物語の底に流れる、もう一つの縦穴です。
次回はいよいよ勝負回。「戦うな、申請しろ」。三つの管轄をどう越えるのか、お楽しみに。




