第15話:帰還届
帰り道は、来た道よりも、ずっと長く感じた。
ハルトを背負ったのは、ハルだった。子どもは衰弱していたが、意識はあった。迷宮の「巻き込み」の安定領域は、わずかな食料と水を、子どもに与えていたらしい。給食袋のビスケットと、泉の水で、一か月を生き延びていた。六歳の子が。
「しっかりして。もうすぐ、外だよ」ハルが、背中の子に、いつになく柔らかい声で言った。
四層目から、三層目、二層目。魔物の襲撃は、行きより激しかった。迷宮が、獲物を逃すまいとするかのように。ハルは子どもを背負ったまま、片手で剣を振るった。
「黒田、右! 来る!」
「分かってます」黒田は、もう叫ばなかった。彼にできるのは、魔物の位置を冷静に伝え、ハルが戦いやすい退路を、地形の記録から導くことだけだった。剣は抜けない。だが、彼の「査定記録」が、最短の帰還ルートを描いていた。
「次の分岐、左。そこから先は、行きに魔物がいなかった。一気に抜けます」
ハルが、子どもを庇いながら、黒田の示した道を駆けた。記録が、命綱だった。
縦穴の口の、光が見えた。
地上では、住民協働の前線基地が、固唾を呑んで待っていた。郷田会長、商店街の人々、そして──佐倉ハルトの母。
縦穴から、ハルが、子どもを背負って、現れた。
「ハルト!」
母が、駆け寄った。ハルの背から、子どもが、母の腕の中へ。
「ママ……」
その一言で、前線基地全体が、どっと沸いた。歓声、涙、拍手。二千百世帯の町が、一人の子どもの帰還を、自分たちの勝利として、祝った。
黒田は、縦穴の縁に座り込み、しばらく動けなかった。泥だらけで、汗だくで、ペンを握る手は、まだ震えていた。
新庄が、駆け寄ってきた。「黒田さん! やりました! 間に合いました!」
「ああ」黒田は、空を見上げた。「……間に合った」
二年前、緑川市で、間に合わなかった子の顔が、一瞬、浮かんだ。あのとき救えなかった命の代わりにはならない。それでも──今度は、間に合った。
そこへ、本庁の遠野が、静かに歩み寄ってきた。スーツ姿で、前線基地には、やはり似合わなかった。
「……生存確率三パーセントを、覆しましたね」遠野は、子どもと母を遠目に見ながら言った。「私の計算は、間違っていた」
「いえ」黒田は首を振った。「あなたの計算は、正しかった。三パーセントは、三パーセントです。でも、行政は、たまには、九十七パーセントの不可能の方に、賭けなきゃいけないんですよ。──それが、数字にならない、行政の仕事だ」
遠野は、しばらく黙っていた。それから、タブレットではなく、一枚の紙を差し出した。
「再開発計画、桜ヶ丘第二公園区画について。──正式に、凍結の上申をしました」彼は言った。「住民合意なしの再開発は、進められない。あなたが、二千百世帯の署名で、それを証明した」
「遠野さん」
「それと」遠野の声が、低くなった。「真壁議員のことです。彼が、緑川市の件にも、関わっている。私は、それを内側から、調べます。──効率主義者として、許せないんですよ。再開発のために、子どもの命を変数扱いするのは。あれは、最適解じゃない。ただの、私利私欲だ」
遠野は、初めて、人間らしい怒りを、その目に滲ませた。
「あなたの『前例』、私が本庁で、ちゃんと通します」
黒田は、その紙を受け取り、頭を下げた。好敵手は、いつのまにか、不本意な協力者に、なっていた。
その夜、地下二階の対策課で。
黒田は、一枚の書類を書いていた。表題には、こうあった。
『桜ヶ丘第二公園ダンジョン 行方不明児童 救出完了報告書』
淡々と、事実だけを。発見の日時。生存の状態。母への引き渡し。
最後の欄に、彼は、こう記した。
『所見:管轄を理由に、人を見捨てなかった。以上』
ポン、と。
判子が、落ちた。
ハルトくん、帰還。「ママ」の一言と、町全体の歓声。間に合いました。
黒田の記録が帰還ルートの命綱になり、ハルの剣が道を切り開く。文と武、ここに結実です。
そして遠野が、不本意な協力者へ。真壁の追及は、彼が内側から引き受けてくれます。
報告書の所見「管轄を理由に、人を見捨てなかった。以上」──黒田の、二年越しの答えでした。
次回、最終話。「なくてはならない課」。




