第14話:申請の魔術師
潜行の準備は、住民協働事業の総力戦になった。
郷田会長の号令で、町内会が縦穴の周りに前線基地を組んだ。炊き出し、照明、通信中継。商店街は物資を提供し、元自衛官の住民が安全管理を買って出た。役所が金を出せないところを、町が手で埋めた。
「行政だけじゃ、ここまでできなかった」黒田は、基地の様子を見回して呟いた。「これが、住民協働の、本当の力だ」
四層目への潜行は、ハルと黒田の二人だけ。委任の条件、嘱託一名と職員一名。
「黒田。一つだけ言っとく」潜る前、ハルが真顔で言った。「四層目から先は、あたしも未知の領域。守りきれないかもしれない。あんたは、何があっても、あたしの後ろから離れないで。死んだら、書類も書けないんだから」
「肝に銘じます」
迷宮の奥は、深かった。三層目を抜け、四層目へ。空気が変わる。湿気が増し、どこかで水の流れる音がした。
「水場がある」ハルが言った。「安定領域かも。生体が生き延びるには、水と、空気と、魔物の少ない場所が要る。──近いかもしれない」
黒田は、これまでの査定記録を頼りに、子どもの足取りを逆算していた。上履きの位置、給食袋の位置、足跡の向き。すべての記録が、一つの方向を指していた。水音のする、奥へ。
そのとき、通信機が、雑音とともに新庄の声を伝えた。
『黒田さん! 地上で、問題が!』新庄の声は、切迫していた。『区議会の、真壁議員という人が、前線基地に乗り込んできて……「住民協働事業は違法だ、即刻中止しろ」って! 災対庁の委任も無効だって、書類を持ち出して!』
黒田の足が、止まった。
真壁。──遠野が警告した、「本当の流れを作っている人間」。再開発を、何としても進めたい人物。今、彼が、最後の手を打ってきた。
「新庄」黒田は、努めて冷静に言った。「真壁議員に伝えてくれ。委任書には、災対庁・灰原調整官の正式な承認印がある。住民協働事業には、二千百世帯の署名と、桐生課長の決裁がある。すべて、記録に残ってる。──それを覆したいなら、議会で、正式な手続きを踏んでください、と」
『でも、すごい剣幕で……』
「大丈夫だ」黒田は言った。「あの人は、記録を握り潰そうとしてる。でも、もう遅い。記録は、地上にも、本庁にも、災対庁にも、住民の手にもある。一か所を潰しても、消えない。──緑川市と、同じ過ちは、もう繰り返させない」
通信が、途切れた。
ハルが、剣を構えたまま、ちらりと黒田を見た。「あの議員が、緑川市の黒幕?」
「たぶん」黒田の声は硬かった。「緑川も、桜ヶ丘も、同じ手口だ。再開発のために、ダンジョンを放置し、誘導し、地価を操作する。子どもの命は、その計算の、邪魔な変数でしかない」彼は前を見据えた。「でも、今は、それを追ってる場合じゃない。──子どもが、先だ」
水音が、近づいた。
四層目の最奥。岩の裂け目を抜けると、そこは、ぽっかりと開けた空洞だった。天井の隙間から、わずかに地上の光が差し込んでいる。小さな泉。苔。そして──
岩陰に、小さな影が、丸くなっていた。
黒田の心臓が、跳ねた。
「……ハルトくん」
影が、びくっと動いた。痩せた、泥だらけの、小さな子ども。怯えた目が、こちらを見る。
生きていた。
ハルが、息を呑んだ。「……本当に、いた」
黒田は、ゆっくりと、子どもに近づいた。刺激しないように、膝をつき、目線を合わせる。そして、ポケットから、あの上履きを取り出した。
「これ、きみのだろう。届けに来たよ」彼は、できる限り優しく言った。「お母さんが、待ってる。──帰ろう、ハルトくん」
子どもの目から、ぽろぽろと、涙がこぼれた。
「……おじちゃん、だれ?」
黒田は、答えた。震える声で、しかし、はっきりと。
「区役所の、ダンジョン対策課だ。──きみを、迎えに来た係だよ」
申請の魔術師、最後の潜行。住民協働の総力戦が、町の手で前線を支えました。
そして、真壁議員──緑川市と桜ヶ丘、二つの事件を繋ぐ黒幕が、ついに姿を現します。だが、もう記録は握り潰せない。
水場の安定領域。岩陰の、小さな影。「きみを、迎えに来た係だよ」。
ハルトくんは、生きていました。次回、地上へ。そして、完結へ。




