第13話:規程の、穴
黒田は、その夜、地下二階に一人残り、災対庁の規程集と、区の例規集を、机の上で突き合わせていた。
二層構造には、穴がある。彼は、それを確信していた。制度というのは、二つの組織の境界線で、必ず隙間ができる。緑川市では、その隙間に気づくのが遅れた。今度は、違う。
明け方、彼は見つけた。
災対庁規程・第四十条但し書き。『ただし、人命救助に直接関わる緊急の現地措置については、災対庁の処理班到着までの間、当該自治体が、災対庁の"委任"のもとに、暫定的に実施することができる』。
委任。
「処理班が二か月来ないなら」黒田は呟いた。「その二か月間、人命救助の現地措置を、区が"委任"で続ければいい。接収は受け入れる。だが、捜索は止めない」
問題は、その「委任」を、灰原に認めさせることだった。災対庁が委任を出さなければ、区は動けない。そして灰原は、規程を盾に、絶対に首を縦に振らないだろう。
朝、黒田はその「委任申請書」を書き上げ、決裁欄を空けて、桐生課長の机に置いた。
桐生は、長いこと、それを見ていた。
「黒田くん。これに、わしが判を押すのは、構わん」彼は茶をすすった。「だが、災対庁が委任を拒否したら、ただの紙切れだ。向こうの調整官が、うんと言わなきゃ、お前さんは一級迷宮に立ち入った職員として、処分される。下手すりゃ、懲戒だ」
「分かっています」
「お前さん、また、潰されるぞ。緑川と、同じように」
黒田は、課長を見た。「だから、課長に、判子を押してもらうんです。区が"委任"を正式に申請した、という記録を残すために。──たとえ拒否されても、『区は救おうとした』という記録が残る。今度は、握り潰させない」
桐生は、湯呑みを置いた。皺だらけの手で、印鑑を取る。
「……わしはな、黒田くん。昔、潰されたとき、一番悔しかったのは、処分されたことじゃない」彼は静かに言った。「『あいつは何もしなかった』ことに、記録上、なってたことだ。書類が、残ってなかった。だから、なかったことにされた」
ポン、と。
決裁欄に、朱の判が落ちた。
「今度は、残る。わしの判子つきでな」桐生は、初めて、誇らしげに笑った。「わしの決裁だ。文句があるなら、わしが定年退職した後で、聞いてやる」
黒田は、深く頭を下げた。
その日、黒田は災対庁の灰原に、委任申請書を提出した。
予想通り、灰原は渋った。「第四十条の委任は、災対庁の判断によるものだ。区から申請して通るものではない」
「ええ。判断は、あなたのものです」黒田は引かなかった。「だから、お願いしています。委任を出してください。出さないなら、出さない理由を、書面でください」
「書面?」
「『災対庁は、人命救助の現地措置の委任を拒否した』という記録を、残してください」黒田の声は、静かだが、揺るがなかった。「子どもが救えなかったとき、その判断を下したのが誰か、記録に残るように。──俺は、それだけで構いません」
灰原の顔が、こわばった。
無関心でいられたのは、自分の名前が、どこにも残らないと思っていたからだ。だが、黒田は、その匿名性を、奪おうとしていた。
「……卑怯な手だ」灰原は呻いた。
「行政の手続きです」黒田は言った。「あなたが、いつも住民にやっていることですよ」
長い沈黙の後、灰原は、委任申請書を手に取った。
そして──押した。
承認の判を。
「条件がある」灰原は低く言った。「処理班が到着するまでの暫定措置だ。期限は二週間。それまでに結果が出なければ、完全に引き上げてもらう。立ち入りは、嘱託探索員一名と、職員一名まで。──それ以上は、認めん」
「十分です」黒田は深く頭を下げた。「ありがとうございます」
灰原は、書類を残して、足早に去った。去り際、彼は一度だけ振り返り、低く呟いた。
「……二年前の、緑川市の件。あれを蒸し返したのは、君か」
黒田の動きが、止まった。
「あの件の記録に、君の名前があった。再開発のために捜索が打ち切られた、と訴えた職員の名が」灰原の目に、初めて、感情に近いものがよぎった。「あのとき、握り潰す側にいた人間として、言っておく。──今度は、間に合わせろ」
灰原が去った後、地下二階に、静寂が落ちた。
新庄が、震える声で言った。「黒田さん。今の……」
「二層構造の壁を、越えた」黒田は委任書を握りしめた。「あと二週間。芹沢さん、潜りますよ。今度こそ、底まで」
ハルが、剣を背負った。「やっと、ね」
規程の穴──「委任」。二層構造の壁を、黒田は書類一枚で越えました。桐生課長の判子と、「記録は、なかったことにされないために残す」という覚悟。
そして灰原。無関心の鎧を、「名前を記録に残す」という一手で剥がされました。去り際の「今度は、間に合わせろ」──彼もまた、緑川市を知る一人でした。
タイムリミットは二週間。次回、申請の魔術師、最後の潜行。救出作戦、始動。




