第9話 昏き深淵
明かりの灯っていない室内に入ると、使用人たちに着替えを手伝ってもらうことすらせずに、ベッドの上に横たわる。
「私、本当に死んで……戻ってきたのね」
目を閉じると、婚約披露の会場が目に浮かぶ。
そして、首を落とされて、昏い深淵に沈んだ時のことも……。
(……眠りに落ちてしまったら、この現実が、ただの夢で終わってしまいそう)
けど、暗闇にいるだけで、眠りに落ちてしまいそうになる。
抗おうとすればするほどに、身体が重くなっていく。
このまま、呼吸さえ止まってしまいそうで、この現実が夢に消えてしまうのが怖い。
「……でも、起きたらきっと、同じ朝が来る」
しばらくしたら、私の専属になったリゼが、夕食の準備ができたと呼びに来てくれるはず。
その時まで、無理をしてでも起きていれば、今の時間が現実だって、はっきりと自覚できるような気がした。
「死ぬ前のことを、色々と考えていれば起きていられる……よね?」
レクトールの指示で犯した罪を、まぶたの裏に思い浮かべていく。
王の近衛を輩出し続けた、騎士の名門ナイトロード侯爵家。
国の財務を統べ、いかなる不正をも許さないフロライト伯爵家。
他国との外交を担い、国内の安定を図るグロリアンサ侯爵家。
薬学を修め、毒すら薬に変えるスコルピナ子爵家。
他国からの侵略を防ぎ、常に国境で刃を研ぎ澄ませるソルライト辺境伯家。
皆、私が……滅ぼした。
「レクトールに囁かれた言葉を、真実だと疑わずに……リューネベルクの毒で……」
けど、今回はどうだろうか。
私が幼い頃に戻ったことで、この未来を変えられるのではないだろうか。
「それに……アルフォンスを王にすることができた時に、こちら側に引き入れることができれば、心強い味方になってくれるはず……よね」
でも、それは……私が、いくら努力をしても足りない。
人脈を築くことはできても、アルフォンスの力になりたいと思ってもらえないと、彼らは以前のように、敵対してしまうかもしれない。
(そもそも、どうして彼らは……レクトールが王太子になることに反対していたの?)
レクトールからは、グランツェルに害を及ぼしたからだと言われたけど、こうやって頭を悩ませるくらいなら、理由を深く聞いておけばよかった。
「過ぎ去ったあの頃に思いを馳せても、わからないことはわからない……わね」
なら、私にできることは……一つだけ。
今度は誰かに言われたから、その通りにするのではなく。
自分の目で見て、耳で聞いて、しっかりと確かめる。
「けど、そのためには……目先のことをなんとかしないと、か」
記憶通りなら、レクトールとアルフォンスは夏が終わるまで、リューネベルクにいるはず。
「しばらくしたら、レクトールに愛を囁かれるのよね」
そう思うと……あの頃を思い出して、心が冷えていく。
まるで、心臓が止まって……全身の血が止まってしまったように、じわっと全身が冷水に満たされる。
そんな感覚に、息が詰まって、呼吸さえも遠く感じてしまう。
「今回は、リゼを近くに置いて、二人きりにならないようにしないとね」
彼女を利用するようで、少しばかり心が痛むけれど、私の専属なのだから……側にいても違和感はない。
「……あと、今の私にできることは?」
私の居場所を奪ったと、勝手に思い込んで……恨んでいた弟の様子を見に行く? それとも……お母様と話そうか。
「……いいえ、無理ね。今のお母様は……産後の容態が良くなくて、寝台から起き上がれないはずだもの。私が会いに行ったら、無理をさせてしまうわ」
当時の私は、そんな当たり前のことすら考えられずに、お母様に会いに行ってしまった。
けど、使用人に止められて会えなかったせいで、自分はもうリューネベルクに居場所がないと思い込んで、どこまでも独りよがりになって……。
(……だから、レクトールの言葉が心地よく感じてしまったのかしら)
今のレクトールの想いが本物でも、一時の気の迷いだったとしても、いずれは私を否定する。
でも、あの頃の私には、たとえ破滅へと向かう人生であっても、心の支えが必要だったのかもしれない。
「……瞳の中の私は、どう思うのかしら?」
暗闇に浮かぶ、首を落とされる前の私は、どこまでも冷たい目で私を見ている。
まるで……今すぐにでも、レクトールへの恨みを晴らせと言いたげに、光も通さない昏い深淵の底から、薔薇色の瞳が怪しく光る。
(……亡霊に未来はないわ。だから、全部壊してしまえばいい)
ふと、そんな声が……頭の奥で聞こえたような気がした。
「そんなの嫌よ。だって……」
この二度目の人生は……きっと、あの頃のアルフォンスが、私に残してくれたものだと思うから。
私が私らしく生きるために。人生をこの手で選び、掴み取るために。
「けど……まずは、どうやってアルフォンスに気に入られるか、ね。レクトールを無視してもダメ。冷たくしても、あの人を怒らせてしまう。あの子はあまりにも自己評価が低すぎるせいで、動き方がわからないわ」
私の偽物のように、レクトールに甘えられるような強かさがあったら、少しは何かが変わっただろうか。
もう少し、年頃の少女のように感情を表に出して、笑いかければ……アルフォンスは、私を選んでくれるのだろうか。
「……どれも、私には無理ね」
彼のことだから、私が好意を直接伝えても……どうせ。
『僕なんかよりも、オフィーリアには兄上の方がお似合いだよ』
とか言い出して、距離を置かれてしまうような気がする。
「と、なると……レクトールとも交流をしながら、アルフォンスと親交を深めるしか、ないわね」
考えがまとまった途端、抗いようのない眠気が襲ってきた。
いつの間にか、視界から消えていたあの頃の私の代わりに、アルフォンスの姿が見える。
「ねぇ、アルフォンス? あなた……こんな、めんどくさい女のどこを、好きになったの……よ」
今寝てしまったら、私を呼びに来るリゼに迷惑をかけてしまうかもしれない。
けど……今は、この眠りに身を預けてしまいたい……もう一度起きることができたら、これが現実だって、わかる。
そう思った瞬間、意識が深淵へと沈み……次に目を覚ました時には、窓から陽が差し込んでいた。




