第2話 昏き深淵に死に戻る
昏い深淵へと沈んでいった意識の中、光も届かないはずの世界に明かりが灯る。
(……死ぬって、思ったよりもつらくないのね)
そう思いながら目を開けると、目の前には見慣れた……いや、どこか懐かしさを感じる自分の部屋。
まるで、死後に神様が私のために、思い出を形にしてくれたような……二度と帰れないはずの、リューネベルクの屋敷だった。
「……それにしても、こんなに広かったかしら」
部屋のテーブルが広く感じる。
湯気の立つ紅茶のカップへ伸ばした手が、何故だか小さく見えた。
「まるで、身体まで幼いあの頃に戻った……みたいね」
椅子から降りようとするけれど、足が床に届かない。
どうしたものかと思考を巡らせていると、視界の隅に踏み台があるのが見えた。
(そういえば、幼い頃はいつも、踏み台を使って椅子に座っていたわね……)
懐かしい気持ちになりながら、踏み台を使って慎重に椅子を降りると、部屋に置かれた鏡の前へと向かって歩き出す。
いつもなら数歩で届くこの距離も、今はひどく……遠く感じる。
(やっぱり、姿もあの頃の私……ね)
鏡の中に映っていたのは、まだあどけなさを残した私の顔だった。
白い頬も、細い肩も、何も知らなかった頃のまま……けれど、瞳だけが違って見えた。
(……どうして?)
薔薇色の瞳の奥に、処刑されたはずの私が立っている。
あるいは、私が沈んでいった深淵が、もう一人の私として影を落としている。
いいえ。
これは、ただの記憶の再現ではない。
もっと昏く、もっと冷たい何かが、私の奥からこちらを見つめていた。
「ねぇ、あなたは誰? 若くして死んだ私の未練?」
鏡よ鏡、あなたはだあれと語りかけても、答えは返ってこない。
あなたは私なのかと問いかけても、何かを訴える瞳の奥のあなたは、死んだ日の姿のまま変わらない。
(これで答えが返ってきたら、あまりにもチグハグで、笑ってしまうわね……)
けど、鏡越しに見える、頬に触れた指先の柔らかさ。
あどけなさを残した薔薇色の瞳に月光のような銀の髪。
陶器のように白く透き通った肌は、この場所が現実なのだと、非情な事実を突きつけてくる。
「……この姿、七年……いや、八年くらい前かしら。随分と若返ったわね」
あの時が十八歳だったから、今の私は十歳あたりだろうか。
ということはまだ、レクトールやアルフォンスと出会う少し前のはず。
「……この紅茶の匂い、あれね」
鏡の前からテーブルへ戻ると、踏み台を使って椅子に座る。
紅茶に浮かべられた青薔薇の花弁。
漂う香りに懐かしさを覚えるけど、私は……この花の危険性を知っている。
(……リューネベルクの青い薔薇には毒がある)
リューネベルクに生まれた人間なら誰もが知っている。
夏でさえ、一面が雪で覆われている過酷な地域でしか咲かない、リューネベルク家を象徴する死の花。
本来なら、花弁を口に含むだけで命を奪いかねない。
そんなものを紅茶に浮かべるのには、しっかりとした理由がある。
幼い頃から徐々に毒に慣らしていくことで、リューネベルク家としての役割をこなせるように、身体を作り変える。
「花弁が一枚。だいぶ、耐性がついてきているわね」
リューネベルクの子は、産声を上げる前から毒に慣らされる。
母の血から、母の乳から、少しずつ。
青い薔薇の朝露なら、耐性をつけ始めた頃。
花弁の欠片なら、少しだけ慣れてきた時期。
花弁が一枚浮かんでいるのは、身体が適応してきたという証だ。
(今の身体では二枚目には届かないけど、これでも十分に相手を殺すための武器になる)
レクトールのために、自分の血を抜き取って精製した毒で何人もの敵を殺害してきた。
この国の王族が太陽だとしたら、リューネベルク家は太陽の裏に隠れた月。
代々、国を裏から守るためにこの過酷な地で、毒を飲み、毒を飼い、毒として生きることを教え込まれてきた。
けれど、本来なら国のために果たすべきリューネベルク家の使命を忘れ、あの人を王太子にするために、私欲に走ったのは私の罪。
「……レクトールに必要とされている充足感が、恋だと思っていた。あの人の気持ちに応えるのが愛だと、信じきっていた」
でも、あの時に突きつけられた現実は、どこまでも私を裏切った。
唯一味方をしてくれたのは、場を弁えずに自ら首を突っ込んで……巻き込まれたアルフォンスだけ。
今ならわかる……なんども、なんども顔を合わせるたびに。
『兄上と一緒にいてはダメだ。君は君の人生を生きた方が良い……なんなら、俺が……オフィーリア、君と……』
と、意味深な言葉ばかり言ってくれたけど、あれは双子の弟として、レクトールの異常さを近くで見てきたからこその助言だったのだと。
けれど現実は非情で、当時の私が最初に出会ったのはレクトールだった。
愛に焦がれて、恋に夢を見ていた幼い頃の私は、一目見ただけで惹かれたのだと告げられ、耳元で囁かれた愛を、本物だと信じた。
でも……もし、あの時、先に出会ったのがアルフォンスだったら、どうなっていたのだろうか。
「……舌が痛いわ」
口に含んでいた紅茶を強引に飲み干しながら、改めて思う。
アルフォンスは私のどこに惹かれたのだろうか。
毒に侵されて陶器のように白くなった肌。
体内の血が変色し、薔薇色に染まった瞳。
月光のように輝いて見える銀の髪。
リューネベルク家からしたら当たり前でも、他所から見たら不気味な容姿のどこに、惹かれる要素があるのだろうか。
今になって思えば、レクトールでさえ、両家の間で婚約が成立した後は気味悪がっていたというのに……。
「ねぇ……アルフォンス。あなたは、血に触れただけで命を落とすかもしれない女の、どこに惹かれたのかしら?」
今となっては、彼の気持ちを聞きたくても、問いかけることができない。
再び出会えたとしても、当時を生きたアルフォンスではないのだから。
(でも……再びアルフォンスと出会うことができたなら)
もう二度と、誰かのために都合のいい駒にはならない。
もう二度と、偽物に本物の座を明け渡さない。
彼が願ってくれたように、私は私の人生を精一杯に生きる。
「二度と同じ過ちを犯しはしないわ」
今度は私が選ぶ。
誰を愛し、誰を裁き、どんな未来を掴み、どんな幸せを選ぶのか。
たとえ……そのために、レクトール。
今度は私が、あなたの首を落とすことになるのだとしても。




