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この危うい関係  作者: 素子
番外編
52/52

05  嫁担ぎ

「クラーク様。申し訳ないことですが、しばらく寝室を分けたいと思います」

「――リズ?」


 その日熊親父は絶望の淵に沈んだ。



 婚儀をあげて一年半、その睦まじさは一部に憧れ、一部にやっかみ、一部に羨み、ごく一部に砂を吐かせてきたが、概ね好意的な印象を抱かせていた。

 秋の時分には領地の城に滞在し、収穫の祭りに顔を出す。

 城の庭で盛大に宴を催し、歌い騒ぐ。苦い経験から流れ者の一座への詮議は厳しいが、彼らにも充分なねぎらいがある。


 祭りの呼び物の一つが『嫁担ぎ競争』で、夫が妻を抱えて走る。


 言わずと知れた、ご領主様の行動に便乗していた。

 昨年の祭りでは是非にとはやし立てられ飛び入り参加した領主夫妻がぶっちぎりで一等になり、今年は距離を多く取るか時間を遅くして競争に参加してもらおうかと真剣に協議されている。


 今年の秋もご領主である侯爵夫妻は無事に城に入り、城の内外の者は祭りを楽しみにしていた。

 ――そんな折りの女主人の発言だった。



 バートはともすれば肩が落ちそうな熊親父の姿も久々だと思いながら、一応副官の役目を果たそうとする。すなわち聞き込み。


「思い当たる節はありませんか?」

「これといって、特には」

「寝起きにご不快に思われるようなこともしていませんね?」

「無論だ……朝の、挨拶で髭が当たるとおっしゃられることはあるが、別に不快なご様子では……」


 おっさんが髭を剃っていようといまいと頬に口付けを受けるレディは確かに不愉快そうではなく、むしろ柔らかく嬉しげに微笑んでいる、とそんな場面に遭遇したことがあるバートも納得する。


「夜、蹴飛ばしたりはしていないですか?」

「眠っているから定かではないが、指摘されてはいない。むしろ……」

「むしろ、何です?」


 心当たりがあるのかおっさん、とバートは勢い込む。

 理由がわかればとっとと改善すればいいだけの話だ。熊親父が落ち込むと多方面に影響が出る。そして最も影響を受けるのは自分だ。

 婚儀をあげるまでは胃が痛み、婚儀の後は胃もたれ。

 ……胃は大事。悪夢再びだけは避けたいとバートは熊親父の言葉を待った。


「気付くと抱きしめているから、時々抜け出せなくて嬉しいが辛いと言われたことなら……」

「惚気か? 惚気ですか、親父殿」


 心配して損したのか? とバートはげんなりする。

 ただ何が原因だろうかと、落ち込みながらあれこれ思い出そうとしている熊親父に憐れみは感じる。

 夜は別に眠りましょう発言の翌朝、熊親父は見るからに元気がなかった。

 ついでに言うならエリザベスも浮かない顔で、あまり食欲もなく料理人をやきもきさせていた。


「レディご自身からは理由は聞いてないんですね」

「ああ」


 どうせ熊親父のことだ。寝室を分けましょうと言われただけで衝撃を受けて、その後のエリザベスの言葉など耳に入らなかったのだろう。

 これだから奥方に惚れ込んだ熊親父は。


 ただ、とバートも違和感をぬぐえない。

 エリザベスは熊親父を悪戯に厭うようなことはしない。改善してほしいことがあれば、王妃時代に培ったやり方で上手に誘導していたはずだ。

 それがきっぱりと熊親父を拒絶するに等しい振る舞いをするとは……。

 バートは普段のエリザベスらしくないからもっと上手く聞き出せ、と焚きつけようとした矢先。


 熊親父は項垂れた。


「私から顔を背けて、立ち去ってしまったのだ」


 ――これは駄目かもしれないの、か?



 意気消沈した熊親父を元気にする唯一の存在が、熊親父を避けている。

 不穏な空気はすぐに城の者の知るところになり、バートは彼らから追求を受けている。熱心なのは家令の代わりに遣わされた甥のアダムスであり、エリザベスに付いて久しぶりに合流したルイザとジェマであり、当然坊ちゃま、旦那様大事のバーサだった。

 囲まれてやいのと責められても、バートに答えようはない。


「本当に、俺は事情を知らないんだ。レディに直接うかがえばいいだろうが」


 破れかぶれで叫ぶとぴたりと皆の動きが止まり、あからさまなため息が吐かれる。

 代表してアダムスが口を開いた。


「そうできれば苦労はいたしません。レディが食欲もなく、部屋に籠もりがちだからこそかえっておたずねできないのです」

「ああ、そういうことか」


 熊親父を避けて女主人の部屋で寝起きしているエリザベスは、どうも元気がない。

 はじめは苦い思い出のある城だからかと心配されたが、それは昨年のうちに克服していたように見えた。

 祭りにも笑顔を絶やさず、熊親父に担ぎ上げられて予想外のことに顔を赤くして焦ってはいても最後には大人しく運ばれていた。

 だから今年の変わりようが、余計注意をひいているのだ。


「旦那様となにかいざこざがあったのかい?」

「バーサさん、それがわからないから皆やきもきしているんですよ」

「お茶をお持ちしたら、気持ちは嬉しいけれど今は欲しくないって……」


 座が沈みこみそうになるのを、バートは勘弁してくれと切に願う。

 落ち込んでいるのはおっさん一人で充分だ。部屋の隅で膝を抱えていないだけまだましかもしれない、と思うほどの沈みっぷりにバートの胃は日ごとに嫌な記憶を取り戻しそうになっている。

 祭りに便乗して飲むつもりだったのに、何の呪いだまったく。


 バートは懇願に満ちた一同の迫力に負けた。

 ぽり、と側頭部の皮膚をかき、アダムスに顔を向ける。


「レディにうかがってくる。アダムス、お前も同行しろ。城でのことは知っておく義務があるだろう?」

「もとよりそのつもりでおります」

 

 ただいきなりは礼を失する。翌日改めてと機会をうかがっていたバートは、アダムスからエリザベスへの来客を知らされ青ざめた。

 しかも客間には通さずに塔の部屋に案内する異様さだ。

 塔へと上がる後ろ姿を見送りながら、領内の視察を兼ねて遠乗りに出かけている熊親父が知ったならと危惧する。

 


 ウルススに騎乗し、クラークは見晴らしのよい丘で自領を見つめる。

 愛する領地は今年も作物のできがよく、税収も期待できそうだ。ウルススは一足早くデボラとの間に子馬をもうけている。

 エリザベスを妻にして日々は穏やかに慈しみあって過ごしていた、と自分では思っていたが。この思い出の地、愛着のある城でエリザベスとまた……と楽しみにしていたのに、どうして避けられてしまったのだろうか。


「ウルスス、お前は幸せなのにな」


 馬相手に愚痴をこぼしても、ウルススは我関せずと尻尾を左右に揺らすだけ。

 城に帰る途中でエリザベスの好きそうなものを土産にしようかと、並足で城への道を辿る。


「今、戻った。レディは?」

「お帰りなさいませ。お客様がいらっしゃっておいでです」

「誰だ」

「ベアーズリー修道院の院長と修道女です」


 熊親父が固まった。周囲は――凍った。

 すんでのところで神のもとから奪い返したあの伝説の再現の日から、クラークはこの修道院を苦手にしていた。エリザベスがおさめるはずだった領地相当分の埋め合わせをし、その後も定期的に支援をしている。

 それでも後ろめたく、顔を合わせると恥ずかしい。


 だが、こちらに客人として来るとは、とわずかに緊張の度合いを増す。

 しかもエリザベスの客として。


 嫌な予感を無理矢理に打ち消して、それでも不安はぬぐえない。

 挨拶をしておこうと塔に上がる。エリザベスの部屋の前に立ち番をしている護衛が何かを感じたのか揃って半歩外側に移動し、クラークを通す。扉をはっきりと中に聞こえるように叩くが、反応はやや遅かった。

 中から扉を開いたのは修道女だった。侍女すら中にはおらず、院長と修道女、エリザベスの三人だけだった。

 ますますもって普通ではない。


「失礼いたします」

「これはウェンブル侯。お久しぶりです」

「院長様。こちらこそご無沙汰しております。お元気そうですね」

「神のご加護です」


 にこやかに微笑む院長は目尻の皺もふっくらとして、穏やかな人柄を感じさせる。

 修道女は言葉なく控えていたが、手を洗ったのか少し濡れている。

 エリザベスは頬が上気し、瞳が潤んでいた。


「本日はいったいどんなご用件だったのでしょう」

「レディ・エリザベスが、当修道院の薬草園に支援の申し出をしてくださったのです」


 薬草を扱うエリザベスなら不思議ではない申し出だ。ここや王都で栽培している薬草を株分けして増やすだけでも、修道院では喜ばれるだろう。金銭としてクラークが援助しているから、物品ないしは永続的な収入源となる支援としても推奨されるべきものだ。

 だが……わざわざ城で、応接の間でなく塔のエリザベスの部屋で話をする必要はない。


 しかもエリザベスの様子がどことなく落ち着かないようだ。そわそわしているような、急にぼうっとするような、とにかく常の様子ではない。

 クラークは焦った。急に寝室を分け、顔を背けるようなよそよそしい様、あまり部屋から出ないのも自分と顔を合わせたくないのではないか。

 そして、ここにきての修道院院長との接触。

 

 まさかとは思うが、もしやとは思うが……。


 また修道院入りを思い立ったのではないのだろうか。



 足下が崩れそうな心持ちのクラークをよそに、後ろからはお茶の用意をぬかりなく調えたアダムスやジェマが入ってくる。

 ちゃっかりバートまで壁際に控え、固唾を呑みながらもてなしの様子を見守る。


「院長様、お茶をどうぞ」

「ありがとうございます」

「こちらの茶菓子はお土産としてお持ちくださいませ」


 女性三人と、借りてきた熊が長椅子に腰をかける。エリザベスの横で、クラークはお茶を飲みながらちらちらと妻と院長を交互に見比べる。

 院長はお茶を堪能しているし、エリザベスは茶器は手にしているが口元には運ぼうとせずに不可思議な表情を浮かべていた。


「明後日の祭りには、修道院からも合唱の方々がいらっしゃるそうです」

「それは、楽しみですね」


 相づちを打ちながらクラークは落ち着かない。

 一人だけ、暗黙の了解の外に出されているような疎外感を味わっている。

 しかも面子が心臓に悪い。いつエリザベスから、または院長から決定的な言葉が出るのかと冷や冷やしていた。


「クラーク様、それに合わせて寄付を募りましょうか」

「いいですね。修道院への送り迎えはこちらでいたしましょう」

「ご配慮に感謝いたします」


 エリザベスの機嫌は悪くない、らしい。いつものようにクラークに話しかけ、柔らかくほのかに暖かみを感じる受け答えをしている。

 傍目からは信頼しあう仲の良い夫妻だ。

 だがいざ院長と修道女が暇を告げた際に、院長とエリザベスは抱擁してしかもエリザベスがうっすらと涙ぐんだのだ。


「院長様、感謝いたします」

「全ては神のみ心です。安らかな日々が送れますように」


 下まで送ろうとするエリザベスを院長は制して、クラークとともに階下におりる。

 クラークは何度か院長に問いただそうとした。


「院長様、妻はなんと……」

「お悩みが解消したのです。喜ばしいことで、私もレディのために祈りを捧げました」

「喜ばしい……」


 さらに深くたずねようとしたが、折悪しく玄関に到着してしまい院長は丁寧な挨拶をする。クラークも礼にかなった見送りをするしかなかった。

 ロバに揺られ二人が去るのを放心したように見送り、振り返ると何とも名状しがたいバートと目が合う。


「バート……」

「親父殿……」


 気まずく黙り込んだ団長と副官の気分を反映してか、その日の夕食の空気はいつにも増して重かった。

 エリザベスは食欲がないと部屋で休んでいたため、熊親父の懐疑と不安はどんどん膨れあがるばかりだった。



 結局不安なままで祭りの当日を迎えた。

 もしエリザベスが修道院入りを決心したのなら、今回が最後の祭りになるかもしれない。鬱々としながらも領主夫妻は出席しなければならない。

 庭に設置された天幕に、緊張しながらクラークは腰を下ろした。

 エリザベスも時間通りに姿を現した。落ち着いた、慈愛さえ感じさせる笑みをクラークに振りまいて。


「リズ」

「クラーク様、天候にも恵まれましたね。よい、日になりそうです。わたくしからも、後でお話があります」

「わかり……ました」


 おっさんが澱んでいるとバートははらはらしている。

 ついに昨夜から鳩尾の痛みが復活してしまった。項垂れるおっさんのお守りは回避したいんだがと、祭りの場を見渡す。

 酒やその年に収穫された作物が出され、肉の焼けるよい匂いも漂っていた。

 楽器が賑やかに鳴らされ、歌と踊りが高揚する気分を盛り上げる。



 そして『嫁担ぎ競争』の時間になった。

 クラークはエリザベスを促して天幕から出ようとした。今年はかなり後方からの出走と決まっている。

 人前でエリザベスを『担ぐ』機会などもう祭りの時くらいしかない。

 私的にはかなりの回数『抱き上げて』いてもだ。


「リズ、参りましょうか」

「クラーク様。その……わたくし、今年は遠慮申し上げたいのです」

「何故ですか」


 触れあうのすら嫌なのかとつい、ついつい悲観的になる熊親父にバートの胃痛が最高潮に達した、その時。

 エリザベスが睫毛を伏せ、躊躇う様子を見せてからクラークになにやら耳打ちをした。

 クラークは瞠目し、ついでに硬直している。ややあって、エリザベスに顔を寄せた。


「リズ……それは、まこと、ですか?」

「はい、間違いないとのことでした」


 バートは目撃した。

 城の者は目撃した。

 領民達も目撃した。


 熊親父が奥方の両脇に手を差し入れて抱き上げながら、歓喜に満ちた表情を浮かべたのを。奥方が急に高くなった視界に驚きながらも、笑みを見せたのを。

 その場でくるりと奥方を抱き上げ回した熊親父が、何やらたしなめられて慌てて、しかしそうっと奥方を地面に下ろした。

 

 何事かと慌てて近寄ったバートは、熊親父がエリザベスを抱きしめようとして躊躇し、かわりに手を握ったのまで見て取った。


「だから部屋を別に、だったのですね」

「しばらく体調や気分に波がありましたので。安定期に入れば……」

「いえ、私の手や足が万が一にも当たってしまうといけませんから、賢明なご判断です」

「注意すれば大丈夫だそうですの、おそばで見守ってはくださいませんか?」


 二人の世界ができ上がっている。

 バートは言葉の端々から一つの推測を拾い上げる。

 もしやまさかだがしかし。


「あの、親父殿。あのですね……」

「リズに……レディに子供ができた」


 レディに以降を大声でほとんど叫ぶようにして、クラークはエリザベスを横抱きにした。興奮に吠える様は熊の咆哮だった。

 

「――子供って、それは懐妊されたってことですか?」

「そうだ。こんな風の当たるところに置いておけるか。城に戻ります」

「でも競争が。見学を」

「駄目です、安静です。ついでに城から酒を振る舞います。お祝いです」


 急いで、しかしエリザベスへの振動を最小限に熊親父は巣穴――城へと愛しい獲物を引っ張り込む。

 歓喜に湧く人々の中、バートはははっと力なく笑い鳩尾を撫でた。

 そして拳を握り、よしっと気合いを入れる。


「飲むぞ。ついでに王都に連絡だ。今度の賭けは――子供の性別だっ」


 こうして飲めや歌えやの祭りは夜になっても続いた。

 外の喧噪をよそに、クラークとエリザベスは幸福すぎる未来に笑み崩れる。



 戦に勝った国の伯爵と負けた国の王妃の話。

 息子達は父の侯爵位と母の侯爵位を継ぎ、娘達は請われて縁づいた。

 今もこの地方に残る『嫁担ぎ競争』は観光の目玉の一つであり、山賊の子孫は配偶者を抱き上げて塔を上る『仕来り』にご先祖を恨む。



 ――ひときわ目を引く肖像画の、二人が織りなした、話。







 


 

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[一言] 熊オヤジ…最初から最後まで一途でかわいい生きもの?で、なんとなく姿が浮かんでしまう表現力に感謝です!!笑わせてくれた熊さんでした。 エリザベス…誠実で気品漂う女性でした。現実社会で会えたらい…
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