第2話 聖女の笑顔で、不思議と宿代は安くなるそうです
蜂蜜菓子は、思っていたよりもずっと甘かった。
「おいしい……!」
ロッティは両手で菓子を持ち、頬を緩ませていた。
薄く焼いた生地の表面には、琥珀色の蜂蜜がたっぷり塗られている。噛むとさくりと音がして、口の中に花の香りが広がった。
向かいに座るクラリッサも、一口食べてから静かに頷いた。
「確かに、おいしいですね」
「でしょう? もう一つ買いませんか?」
「先ほど四つ買いましたよね。二人で二つずつです」
「そうでしたっけ?」
「ロッティ様が三つ目に手を伸ばしたところで、私が止めました」
「よく見ていらっしゃいますねえ」
「食費の管理は大切ですから」
ロッティは最後の一口を飲み込んでから、じっとクラリッサを見た。
「……クラリッサ様って、いつもそうなんですか?」
「どういう意味でしょう」
「何でも数えて、考えて、先のことまで決めている感じです」
「仕事ですから」
「婚約者とのお茶会も?」
「お茶の温度、菓子の種類、席順、会話の内容まで予定に入れていました」
「会話まで!?」
「殿下は政治の話になると長くなりますし、隣国の王族の話題を振ると機嫌がよくなりましたから」
「それ、恋人とのお茶会じゃなくて会議じゃありません?」
「……今思えば、そうかもしれませんね」
クラリッサは手元の菓子を見下ろした。
アルベルトとの婚約期間は三年間。
彼が気持ちよく過ごせるように、できる限りのことをしてきたつもりだった。
公務の予定を調整し、贈り物を選び、彼の苦手な相手との面会には別の用事を用意した。忙しいときには執務の順番まで組み替えた。
感謝されたいと思ったことが、一度もなかったわけではない。
けれど、まさか最後に「可愛げがない」と言われるとは思わなかった。
「……まあ、もう必要ありませんけれど」
クラリッサは菓子の包みを畳んだ。
「今後は、自分のために予定を組みます」
「いいですね!」
ロッティが勢いよく身を乗り出した。
「では、明日は何をします?」
「宿を探します」
「明後日は?」
「今後の行き先を決めます」
「その次は?」
「行き先を決めた後に考えます」
「食べる予定は?」
「……それも、行き先を決めてからです」
「クラリッサ様!」
ロッティが悲鳴のような声を上げた。
「そこは決めておきましょうよ!」
その意見には、クラリッサも一理あると思った。
食事の予定は大切だ。
予定表から削るべきではなかった。
*
「ところで、お二人とも」
店先で待っていたコンラートが、腕を組んでこちらを見ていた。
「いつまで食べているおつもりですか」
「もう食べ終わりました」
「菓子を四つ買って、三十分が経過しています」
「三十分も?」
ロッティが目を丸くした。
「そんなに早かったですか?」
「早いとは思いません。予定より長いだけです」
クラリッサは手帳を取り出した。
「この町での休憩時間は、当初十五分で考えていました。ですが、お店の方から近くに宿があると伺ったので、予定を変更します」
「……修道院へ向かう予定は?」
「変更候補です」
「候補にすらなっていませんが」
「旅程表は柔軟に運用するものです」
コンラートは口を閉じた。
何か言いたそうだったが、結局、何も言わなかった。
その態度が気になったのか、ロッティが小声でクラリッサに尋ねた。
「この方、いつまでついてくるんでしょう?」
「護衛の任務があるのでしょう」
「私たち、もう王子様の婚約者でも何でもないのに」
「ええ。それは私も不思議に思っています」
クラリッサはコンラートの顔を見た。
「コンラート卿。殿下からは、私たちを修道院まで送り届けるよう命じられたのですよね?」
「はい」
「では、私たちが修道院へ行かないと言った場合は?」
「……その判断を、私だけでするわけにはいきません」
もっともな答えだった。
「ただし、お二人は罪人として拘束されているわけではありません。私の任務は護衛です。逃げ出したと判断すれば、王宮には報告します」
「つまり、私たちを縛って馬車に押し戻すつもりはない、と?」
「そのような命令は受けておりません」
クラリッサは少しだけ目を細めた。
アルベルトは彼女を嫌っていた。
それは昨日、十分すぎるほど理解した。
だが、ロッティまで同じ日に修道院送りにしたのはなぜなのか。
そして、なぜ護送役にコンラートを選んだのか。
偶然にしては、引っかかることが多すぎた。
「わかりました。では、今晩はこの町に泊まります」
「……修道院へ向かう街道からは外れていますが」
「一泊しただけで、国が滅びるわけではありません」
「それはそうですが」
「夕方までには宿を決めます。護衛の都合もありますから、コンラート卿の部屋も確保しましょう」
「私の部屋まで?」
「護衛に野宿をさせるわけにはいきません」
「……承知しました」
コンラートは、なぜか少し困った顔をした。
クラリッサはその理由を考えたが、すぐにやめた。
考えることは多い。
今日のところは、食事と宿が優先だった。
*
宿屋は町の中央にあった。
木製の看板には、ふっくらとした兎と麦の絵が描かれている。
『麦兎亭』
旅人向けの宿らしく、入口からは焼いた肉と香草の匂いが漂ってきた。
「いい匂いですねえ……」
ロッティがうっとりと呟いた。
「夕食の献立は決まりました」
クラリッサは真顔で言った。
「まだ部屋も取っていませんよ」
「宿の夕食が食べられなかった場合は、別のお店を探します」
「さすがです、クラリッサ様!」
「褒めるところでしょうか……」
宿の戸を開けると、帳場にいた女主人が顔を上げた。
「いらっしゃい。お泊まりかい?」
「はい。女性二人と男性一人です。今夜、一泊したいのですが」
「ちょっと待っておくれ」
女主人は帳面をめくった。
やがて、申し訳なさそうに顔を上げる。
「二人部屋が一つだけ空いているね。男性は別の部屋になるけど、それでよければ泊まれるよ」
「問題ありません。料金を伺えますか?」
提示された金額を見て、クラリッサは眉を上げた。
予算より三割ほど高い。
「こちらの料金は、普段からこのお値段ですか?」
「今日は町の市が近いからね。どこの宿もこんなもんさ」
「なるほど。では、食事代は別でしょうか?」
「夕食と朝食込みだよ」
「食事の内容は?」
「今夜は鶏肉の香草焼きと豆のスープ。パンもつくよ」
クラリッサは、ほんの少しだけ考えた。
悪くない。
むしろ、かなり魅力的だった。
しかし、旅を始めたばかりの段階で出費を膨らませるわけにはいかない。
そこで、ロッティが前へ出た。
「すみません。聖女の宿泊割引って、ありますか?」
女主人の手が止まった。
「……聖女?」
「はい。私、ロッティと申します」
ロッティが胸元の証を見せる。
女主人は目を見開いた。
「ま、まあ! 本物の聖女様かい?」
「本物です」
「そんな方が、どうしてこんな小さな宿に……」
「いろいろありまして」
ロッティはにっこりと笑った。
「それで、割引は?」
「そ、そうだねえ……!」
女主人は慌てて帳面を引き寄せた。
「聖女様なら、教会関係者の割引で二割引きにできるよ!」
「ありがとうございます!」
即答だった。
クラリッサは横から口を挟んだ。
「ロッティ様。聖女の身分を利用して値引きを求めることに、抵抗はないのですか?」
「ありますよ」
「あるのですか」
「でも、払わなくていいお金を払うのも嫌です」
「……なるほど」
筋は通っていた。
女主人は二人の顔を見比べ、ふとクラリッサの姿に目を留めた。
「ところで、そちらのお嬢さんは……」
「クラリッサ・ヴァレンティアです」
名乗った途端、女主人の笑顔が固まった。
帳場の奥にいた男が、こちらを振り返る。
「ヴァレンティアって、あの……」
その先は聞こえなかった。
だが、二人の表情を見れば十分だった。
クラリッサは慣れた様子で手袋を直した。
「お聞きになりたいことがあるのでしたら、どうぞ」
「い、いや、その……」
女主人は視線を泳がせた。
「聖女様をいじめたという話は、本当なのかい?」
ロッティの顔から笑みが消えた。
クラリッサはすぐには答えなかった。
ここで否定しても、信じてもらえるとは限らない。
かといって、黙っていれば噂を認めたと思われるだろう。
ならば、答えは一つだった。
「その件について、私は身に覚えがありません」
クラリッサは女主人をまっすぐ見つめた。
「ただ、信じるかどうかは、お客様の自由です。私たちは今夜泊まれる部屋を探しているだけですので」
女主人は戸惑ったように口を開きかけ、結局、何も言わなかった。
その沈黙を破ったのはロッティだった。
「クラリッサ様は、私をいじめてなんかいません」
「聖女様……」
「靴を隠されたことも、食事に毒を盛られたことも、ありませんでした。殿下にそう説明しましたけど、聞いてもらえませんでした」
ロッティの声は穏やかだった。
しかし、最後だけ少し寂しそうだった。
「だから、この人を悪女だって決めつけないでください」
女主人は、今度こそ何も言えなくなった。
クラリッサもまた、言葉を失っていた。
自分のために誰かが声を上げる。
そんなことは、ずいぶん久しぶりだった。
「……ありがとうございます、ロッティ様」
「どういたしまして」
ロッティは、いつもの笑顔に戻った。
「ところで女主人さん。二割引きは、食事代にも適用されますか?」
「そ、それは……」
「できれば、お願いします!」
女主人はとうとう吹き出した。
「わかった、わかった! 夕食も朝食もまとめて二割引きにしてやるよ!」
「やった!」
ロッティが小さく拳を握る。
クラリッサは思った。
この聖女、ただ者ではない。
*
部屋に荷物を置くと、クラリッサはすぐに机へ向かった。
手帳を開き、今日の支出を書き込む。
宿泊費。夕食代。明日の朝食代。
蜂蜜菓子代。
最後の項目で、ペンが止まった。
「……蜂蜜菓子は、予定外の出費でしたね」
「でも、おいしかったですよ?」
「それは否定しません」
「では、必要経費です」
「食費はすべて必要経費です」
「クラリッサ様、素晴らしい考え方です!」
ロッティは勝手に納得していた。
そのとき、扉が三度ノックされた。
「コンラートです」
「どうぞ」
入ってきたコンラートは、手に一通の封書を持っていた。
「王宮から連絡が入りました」
クラリッサの手が止まる。
「私たちの処遇についてですか?」
「いえ。殿下から、確認事項が一つ」
コンラートは封書を机に置いた。
「明日の正午までに、お二人を修道院へ送り届けるようにとのことです」
「……そうですか」
クラリッサは冷静に頷いた。
予想していた期限より、ずっと短い。
「なぜ、それほど急ぐ必要があるのでしょう?」
「私にもわかりません」
コンラートは、いつもよりわずかに硬い声で答えた。
「ただ、命令書にはもう一つ、妙な点があります」
「妙な点?」
「お二人を同じ修道院に入れるよう指定されているのです」
ロッティが首を傾げた。
「聖女と公爵令嬢を、同じ修道院に?」
「はい」
「別々の場所に送ればいいのに?」
「……その通りです」
コンラートの目が、二人を順番に見た。
「殿下が何をお考えなのか、私にも判断できません」
クラリッサは手帳を閉じた。
偶然ではない。
同じ日に婚約を破棄され、同じ日に修道院へ送られ、同じ場所へ入れられようとしている。
しかも、期限は明日の正午。
「コンラート卿」
「はい」
「明日の朝、修道院へ向かうかどうかを決めます」
「……承知しました」
彼は反論しなかった。
それが何より不思議だった。
コンラートが部屋を出ると、ロッティはベッドに腰掛けた。
「クラリッサ様。私、ちょっと怖くなってきました」
「私もです」
「殿下は、どうして私たちを一緒に修道院へ送るんでしょう」
「それを考えるためにも、明日は予定を変えましょう」
「どちらへ?」
クラリッサは手帳を開いた。
修道院へ向かう街道の先には、王都へ戻る道がある。
そして東へ進めば、隣国との交易で栄える大きな町に出る。
情報を集めるなら、そちらの方が都合がいい。
「東です」
「東?」
「東へ向かいます。まずは情報を集め、それから今後の行き先を決めましょう」
ロッティは少し考えてから、にっこりと笑った。
「わかりました。では、明日の朝食は早めに食べましょうね」
「……そうですね」
「それから、蜂蜜菓子をもう一度買いましょう」
「それは予定にありません」
「今、予定に入れればいいんです!」
クラリッサは思わず笑ってしまった。
王子に捨てられたことも、悪女と呼ばれたことも、まだ何一つ解決していない。
けれど、明日の朝食を楽しみにしている自分がいる。
それだけで、少しだけ救われた気がした。
クラリッサは手帳の新しいページを開き、予定を書き込んだ。
『明朝、東へ向かう。朝食後、蜂蜜菓子を購入すること』
その下に、小さく付け加える。
『修道院へは行かない。理由は明日、考える』
旅程表の最初の一行は、こうして書き換えられた。
王都ではまだ、第二王子アルベルトが何を失ったのか、誰も本当の意味では理解していなかった。
そして彼はまだ知らない。
自分が急いで修道院へ送り込もうとしている二人が、明日の朝には予定表にない道を歩き始めることを。




