↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者を奪った聖女と、修道院行きの馬車で相席になりました ~同じ王子に二人とも捨てられたので、悪評と名声を半分こして途中下車します~  作者: kanane


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/2

第2話 聖女の笑顔で、不思議と宿代は安くなるそうです

 蜂蜜菓子は、思っていたよりもずっと甘かった。


「おいしい……!」


 ロッティは両手で菓子を持ち、頬を緩ませていた。


 薄く焼いた生地の表面には、琥珀色の蜂蜜がたっぷり塗られている。噛むとさくりと音がして、口の中に花の香りが広がった。


 向かいに座るクラリッサも、一口食べてから静かに頷いた。


「確かに、おいしいですね」


「でしょう? もう一つ買いませんか?」


「先ほど四つ買いましたよね。二人で二つずつです」


「そうでしたっけ?」


「ロッティ様が三つ目に手を伸ばしたところで、私が止めました」


「よく見ていらっしゃいますねえ」


「食費の管理は大切ですから」


 ロッティは最後の一口を飲み込んでから、じっとクラリッサを見た。


「……クラリッサ様って、いつもそうなんですか?」


「どういう意味でしょう」


「何でも数えて、考えて、先のことまで決めている感じです」


「仕事ですから」


「婚約者とのお茶会も?」


「お茶の温度、菓子の種類、席順、会話の内容まで予定に入れていました」


「会話まで!?」


「殿下は政治の話になると長くなりますし、隣国の王族の話題を振ると機嫌がよくなりましたから」


「それ、恋人とのお茶会じゃなくて会議じゃありません?」


「……今思えば、そうかもしれませんね」


 クラリッサは手元の菓子を見下ろした。


 アルベルトとの婚約期間は三年間。


 彼が気持ちよく過ごせるように、できる限りのことをしてきたつもりだった。


 公務の予定を調整し、贈り物を選び、彼の苦手な相手との面会には別の用事を用意した。忙しいときには執務の順番まで組み替えた。


 感謝されたいと思ったことが、一度もなかったわけではない。


 けれど、まさか最後に「可愛げがない」と言われるとは思わなかった。


「……まあ、もう必要ありませんけれど」


 クラリッサは菓子の包みを畳んだ。


「今後は、自分のために予定を組みます」


「いいですね!」


 ロッティが勢いよく身を乗り出した。


「では、明日は何をします?」


「宿を探します」


「明後日は?」


「今後の行き先を決めます」


「その次は?」


「行き先を決めた後に考えます」


「食べる予定は?」


「……それも、行き先を決めてからです」


「クラリッサ様!」


 ロッティが悲鳴のような声を上げた。


「そこは決めておきましょうよ!」


 その意見には、クラリッサも一理あると思った。


 食事の予定は大切だ。


 予定表から削るべきではなかった。


     *


「ところで、お二人とも」


 店先で待っていたコンラートが、腕を組んでこちらを見ていた。


「いつまで食べているおつもりですか」


「もう食べ終わりました」


「菓子を四つ買って、三十分が経過しています」


「三十分も?」


 ロッティが目を丸くした。


「そんなに早かったですか?」


「早いとは思いません。予定より長いだけです」


 クラリッサは手帳を取り出した。


「この町での休憩時間は、当初十五分で考えていました。ですが、お店の方から近くに宿があると伺ったので、予定を変更します」


「……修道院へ向かう予定は?」


「変更候補です」


「候補にすらなっていませんが」


「旅程表は柔軟に運用するものです」


 コンラートは口を閉じた。


 何か言いたそうだったが、結局、何も言わなかった。


 その態度が気になったのか、ロッティが小声でクラリッサに尋ねた。


「この方、いつまでついてくるんでしょう?」


「護衛の任務があるのでしょう」


「私たち、もう王子様の婚約者でも何でもないのに」


「ええ。それは私も不思議に思っています」


 クラリッサはコンラートの顔を見た。


「コンラート卿。殿下からは、私たちを修道院まで送り届けるよう命じられたのですよね?」


「はい」


「では、私たちが修道院へ行かないと言った場合は?」


「……その判断を、私だけでするわけにはいきません」


 もっともな答えだった。


「ただし、お二人は罪人として拘束されているわけではありません。私の任務は護衛です。逃げ出したと判断すれば、王宮には報告します」


「つまり、私たちを縛って馬車に押し戻すつもりはない、と?」


「そのような命令は受けておりません」


 クラリッサは少しだけ目を細めた。


 アルベルトは彼女を嫌っていた。


 それは昨日、十分すぎるほど理解した。


 だが、ロッティまで同じ日に修道院送りにしたのはなぜなのか。


 そして、なぜ護送役にコンラートを選んだのか。


 偶然にしては、引っかかることが多すぎた。


「わかりました。では、今晩はこの町に泊まります」


「……修道院へ向かう街道からは外れていますが」


「一泊しただけで、国が滅びるわけではありません」


「それはそうですが」


「夕方までには宿を決めます。護衛の都合もありますから、コンラート卿の部屋も確保しましょう」


「私の部屋まで?」


「護衛に野宿をさせるわけにはいきません」


「……承知しました」


 コンラートは、なぜか少し困った顔をした。


 クラリッサはその理由を考えたが、すぐにやめた。


 考えることは多い。


 今日のところは、食事と宿が優先だった。


     *


 宿屋は町の中央にあった。


 木製の看板には、ふっくらとした兎と麦の絵が描かれている。


『麦兎亭』


 旅人向けの宿らしく、入口からは焼いた肉と香草の匂いが漂ってきた。


「いい匂いですねえ……」


 ロッティがうっとりと呟いた。


「夕食の献立は決まりました」


 クラリッサは真顔で言った。


「まだ部屋も取っていませんよ」


「宿の夕食が食べられなかった場合は、別のお店を探します」


「さすがです、クラリッサ様!」


「褒めるところでしょうか……」


 宿の戸を開けると、帳場にいた女主人が顔を上げた。


「いらっしゃい。お泊まりかい?」


「はい。女性二人と男性一人です。今夜、一泊したいのですが」


「ちょっと待っておくれ」


 女主人は帳面をめくった。


 やがて、申し訳なさそうに顔を上げる。


「二人部屋が一つだけ空いているね。男性は別の部屋になるけど、それでよければ泊まれるよ」


「問題ありません。料金を伺えますか?」


 提示された金額を見て、クラリッサは眉を上げた。


 予算より三割ほど高い。


「こちらの料金は、普段からこのお値段ですか?」


「今日は町の市が近いからね。どこの宿もこんなもんさ」


「なるほど。では、食事代は別でしょうか?」


「夕食と朝食込みだよ」


「食事の内容は?」


「今夜は鶏肉の香草焼きと豆のスープ。パンもつくよ」


 クラリッサは、ほんの少しだけ考えた。


 悪くない。


 むしろ、かなり魅力的だった。


 しかし、旅を始めたばかりの段階で出費を膨らませるわけにはいかない。


 そこで、ロッティが前へ出た。


「すみません。聖女の宿泊割引って、ありますか?」


 女主人の手が止まった。


「……聖女?」


「はい。私、ロッティと申します」


 ロッティが胸元の証を見せる。


 女主人は目を見開いた。


「ま、まあ! 本物の聖女様かい?」


「本物です」


「そんな方が、どうしてこんな小さな宿に……」


「いろいろありまして」


 ロッティはにっこりと笑った。


「それで、割引は?」


「そ、そうだねえ……!」


 女主人は慌てて帳面を引き寄せた。


「聖女様なら、教会関係者の割引で二割引きにできるよ!」


「ありがとうございます!」


 即答だった。


 クラリッサは横から口を挟んだ。


「ロッティ様。聖女の身分を利用して値引きを求めることに、抵抗はないのですか?」


「ありますよ」


「あるのですか」


「でも、払わなくていいお金を払うのも嫌です」


「……なるほど」


 筋は通っていた。


 女主人は二人の顔を見比べ、ふとクラリッサの姿に目を留めた。


「ところで、そちらのお嬢さんは……」


「クラリッサ・ヴァレンティアです」


 名乗った途端、女主人の笑顔が固まった。


 帳場の奥にいた男が、こちらを振り返る。


「ヴァレンティアって、あの……」


 その先は聞こえなかった。


 だが、二人の表情を見れば十分だった。


 クラリッサは慣れた様子で手袋を直した。


「お聞きになりたいことがあるのでしたら、どうぞ」


「い、いや、その……」


 女主人は視線を泳がせた。


「聖女様をいじめたという話は、本当なのかい?」


 ロッティの顔から笑みが消えた。


 クラリッサはすぐには答えなかった。


 ここで否定しても、信じてもらえるとは限らない。


 かといって、黙っていれば噂を認めたと思われるだろう。


 ならば、答えは一つだった。


「その件について、私は身に覚えがありません」


 クラリッサは女主人をまっすぐ見つめた。


「ただ、信じるかどうかは、お客様の自由です。私たちは今夜泊まれる部屋を探しているだけですので」


 女主人は戸惑ったように口を開きかけ、結局、何も言わなかった。


 その沈黙を破ったのはロッティだった。


「クラリッサ様は、私をいじめてなんかいません」


「聖女様……」


「靴を隠されたことも、食事に毒を盛られたことも、ありませんでした。殿下にそう説明しましたけど、聞いてもらえませんでした」


 ロッティの声は穏やかだった。


 しかし、最後だけ少し寂しそうだった。


「だから、この人を悪女だって決めつけないでください」


 女主人は、今度こそ何も言えなくなった。


 クラリッサもまた、言葉を失っていた。


 自分のために誰かが声を上げる。


 そんなことは、ずいぶん久しぶりだった。


「……ありがとうございます、ロッティ様」


「どういたしまして」


 ロッティは、いつもの笑顔に戻った。


「ところで女主人さん。二割引きは、食事代にも適用されますか?」


「そ、それは……」


「できれば、お願いします!」


 女主人はとうとう吹き出した。


「わかった、わかった! 夕食も朝食もまとめて二割引きにしてやるよ!」


「やった!」


 ロッティが小さく拳を握る。


 クラリッサは思った。


 この聖女、ただ者ではない。


     *


 部屋に荷物を置くと、クラリッサはすぐに机へ向かった。


 手帳を開き、今日の支出を書き込む。


 宿泊費。夕食代。明日の朝食代。


 蜂蜜菓子代。


 最後の項目で、ペンが止まった。


「……蜂蜜菓子は、予定外の出費でしたね」


「でも、おいしかったですよ?」


「それは否定しません」


「では、必要経費です」


「食費はすべて必要経費です」


「クラリッサ様、素晴らしい考え方です!」


 ロッティは勝手に納得していた。


 そのとき、扉が三度ノックされた。


「コンラートです」


「どうぞ」


 入ってきたコンラートは、手に一通の封書を持っていた。


「王宮から連絡が入りました」


 クラリッサの手が止まる。


「私たちの処遇についてですか?」


「いえ。殿下から、確認事項が一つ」


 コンラートは封書を机に置いた。


「明日の正午までに、お二人を修道院へ送り届けるようにとのことです」


「……そうですか」


 クラリッサは冷静に頷いた。


 予想していた期限より、ずっと短い。


「なぜ、それほど急ぐ必要があるのでしょう?」


「私にもわかりません」


 コンラートは、いつもよりわずかに硬い声で答えた。


「ただ、命令書にはもう一つ、妙な点があります」


「妙な点?」


「お二人を同じ修道院に入れるよう指定されているのです」


 ロッティが首を傾げた。


「聖女と公爵令嬢を、同じ修道院に?」


「はい」


「別々の場所に送ればいいのに?」


「……その通りです」


 コンラートの目が、二人を順番に見た。


「殿下が何をお考えなのか、私にも判断できません」


 クラリッサは手帳を閉じた。


 偶然ではない。


 同じ日に婚約を破棄され、同じ日に修道院へ送られ、同じ場所へ入れられようとしている。


 しかも、期限は明日の正午。


「コンラート卿」


「はい」


「明日の朝、修道院へ向かうかどうかを決めます」


「……承知しました」


 彼は反論しなかった。


 それが何より不思議だった。


 コンラートが部屋を出ると、ロッティはベッドに腰掛けた。


「クラリッサ様。私、ちょっと怖くなってきました」


「私もです」


「殿下は、どうして私たちを一緒に修道院へ送るんでしょう」


「それを考えるためにも、明日は予定を変えましょう」


「どちらへ?」


 クラリッサは手帳を開いた。


 修道院へ向かう街道の先には、王都へ戻る道がある。


 そして東へ進めば、隣国との交易で栄える大きな町に出る。


 情報を集めるなら、そちらの方が都合がいい。


「東です」


「東?」


「東へ向かいます。まずは情報を集め、それから今後の行き先を決めましょう」


 ロッティは少し考えてから、にっこりと笑った。


「わかりました。では、明日の朝食は早めに食べましょうね」


「……そうですね」


「それから、蜂蜜菓子をもう一度買いましょう」


「それは予定にありません」


「今、予定に入れればいいんです!」


 クラリッサは思わず笑ってしまった。


 王子に捨てられたことも、悪女と呼ばれたことも、まだ何一つ解決していない。


 けれど、明日の朝食を楽しみにしている自分がいる。


 それだけで、少しだけ救われた気がした。


 クラリッサは手帳の新しいページを開き、予定を書き込んだ。


『明朝、東へ向かう。朝食後、蜂蜜菓子を購入すること』


 その下に、小さく付け加える。


『修道院へは行かない。理由は明日、考える』


 旅程表の最初の一行は、こうして書き換えられた。


 王都ではまだ、第二王子アルベルトが何を失ったのか、誰も本当の意味では理解していなかった。


 そして彼はまだ知らない。


自分が急いで修道院へ送り込もうとしている二人が、明日の朝には予定表にない道を歩き始めることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。